銀行を出た萩原は、筋向かいのビルの地下へと下りた。

 分厚いガラスのドアを開けたところで、すぐ正面のテーブル席に、智子が一人で座ってこちらを見ているのが目に入った。

 萩原は智子を見据えたまま、黙って席に着いた。

「──通用口の前まで行ったら、この前のあの人が戻って来ゃはったから」

 智子は俯き加減で言った。

「仕事は?」萩原は煙草に火を点けながら訊いた。

「今日は休んだの。どうしてもあなたに逢って話がしたくて」

「美雪は?」

「母のところ」

 萩原は内心ほっとした。再婚相手と一緒にいるかと思っていたのだ。

「何か、疲れてるみたいやけど──大丈夫?」

「ここんとこずっと忙しかったから。ようやく解放されたんや」

「そう……大変やね」

「で?何の話?」

 萩原はわざとらしく訊いた。

「あ、ごめんなさい。お仕事中やもんね」

「美雪のこと?」まだ素っ気なかった。「俺に思い直してほしいんやろ?」

「……あかんかしら?」

 萩原はゆっくりと煙を吐いた。「──俺のこと、あの娘の父親やと認めてくれてるよな?」

「もちろんよ。そんなこと今さら何で──」

「なら分かってくれよ。あの娘が俺以外の男を父親と呼ぶのがどんなに辛いかってこと」

「それは分かってるつもりよ。あたしかて、あなたの立場に立って考えたら、やっぱり辛いと思うやろうから。あの娘にはちゃんと言い聞かせてるわ。あの娘の父親はあくまであなたやってこと」

「……そうなんか?」

 驚いてそう言った萩原の顔を、智子は見ると小さく笑った。「五歳にもなったらね、少しは分かるのよ。自分には父親と呼ぶ人が二人いることになるんやって。確かに、今はあなたのことしか見てないけど」

「……そうか」

 萩原は俯いた。美雪がそう思ってくれているのが嬉しかったのだ。

「お願い、分かって。美雪に逢わせるのをやめるなんて言うて悪かったわ。つい感情的になって──あなたが再婚のことで美雪に何か良からぬことを言うんやないかと思って……いやらしいわね」

 萩原は黙って智子を見つめていた。自分と一緒だった頃と違って、今は彼女の大部分が母親としての姿なのだと思った。そう考えると、彼は智子がもうずっと遠くの存在になってしまったことを思い知らされるようだった。

「再婚相手はどんな人?」

 萩原はぽつりと言った。

「え?」

「俺が訊くのもおかしいか」そう言って笑った。

「ううん」と智子は首を振った。「三十三歳で、神戸に住んでて──花屋をやってるの」

「へえ」

「働き者で、真面目だけが取り柄みたいな人で。あんまり面白味はないけど、一緒にいるとなんか──あたしも安心するって言うか」

 自分とは正反対だと萩原は思った。

「美雪のことも分かってくれてて。結婚しても、子供は美雪だけでええって。本気でそう考えてるって。そこまで言うてくれる人、ちょっとないと思ったわ」

「そうか」

「──だから、どうか考え直して。自分でも勝手なこと言うてるって、よう分かってるの。でも、美雪がこれからずっと寂しい思いを背負っていくのかと思うと……」

 萩原は黙っていた。鍋島や麗子が言ったことを思い出していた。


 ──そうや。自分の気持ちより、美雪のこれからのことだけを考えるんや。いくら辛くても、それが勝手に家庭を放棄した者の受けるべき罰なんや……。


「──ちょっとの間、考えさせてくれ」

 萩原はようやく答えた。

「ほんま……?」

「かと言うて、必ずええ返事が来ると期待されても困るけど」

「……ごめんね」

 智子は小さく頷いた。

 二人はそれから何も言わず、ただボンヤリとお互いの胸元のあたりを見つめていた。そのとき、地上から差し込んだ車のヘッドライトの光が、智子の長い睫毛を濡らしている涙を輝かせた。

 彼女を愛していた頃の自分に戻りたいと、萩原はこのとき初めて思った。



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