「──あの子はね。弟の犠牲になったのよ」

「弟の犠牲」

「詳しいことは知らんけど、紫乃ちゃんの弟は昔、結構やんちゃしてたみたい。河村ともどこかで繋がりがあって、あいつ、今では真面目になったその弟をまた仲間に引き入れようとしてたらしいわ。それで紫乃ちゃんは弟を守るために、河村のいいようにされてたのよ。彼女自身もクスリ漬けにされてね」

 明美は腹立たしげに紅茶のカップを持ち上げた。「河村は族あがりで前科もあるし、クスリとか賭博とか、いろいろ汚いことやってるけど、手を組むのは素人ばっかりで、その筋の人間とは繋がりはないの。そういう意味ではあくまで堅気やった。せやから何ごとにも手広くやろうとすると限界があるんよ。その筋の人たちのシマを荒らすわけにはいかへんし」

「昔の仲間を引き入れようとしたのは、そういう事情と何か関係があるんですか?」

「直接の理由はないとは思うけど、ちょっとでも自分らの組織を大きくしたかったんやろね。中には武闘派もいたみたいやし」

「山口さんをあんな目に遭わせたような」

 明美はやや曖昧に頷いた。「確信はないけど、きっとそういう奴らの仕業よ。紫乃ちゃん、何かの理由でトラブったんやろうね」

「弟さんのこととか」

「かも知れんけど、それやったら直接弟を痛めつけたらええ話やと思わへん?」

「川辺さんはご存じないんですか」

「ねえ、もう敬語はやめてよ」と明美は困ったように笑った。「窮屈なん、嫌いやねん」

 芹沢は頷いた。彼は今や明美に好感を抱き始めていた。と言っても、女にありがちな無駄話をすることのない、的確で協力的な証言者を得た刑事としての立場から思うことだったが。

「河村は彼女を利用して──あの子は看護婦でもあったし──病院に出入りする薬屋から、覚醒剤よりももっと手軽にハイになれるクスリを手に入れさせようとしてたのよ」

「向精神薬みたいなもの?」

「詳しいことは知らんけど、そういう類のやつと違う?」

 明美は言うと二本目の煙草に火を点けた。「それをクラブの客に売りさばくわけ。さすがにみんな覚醒剤はヤバいってことぐらいは知ってるから、そういうお手軽なクスリだと手を出しやすいのよ。その分、罪悪感も軽いみたいね」

「客も売人もみんな素人か。そういう連中は気前よく買うし、足も付きにくい」

「紫乃ちゃんは客と売人の両方をやらされてたようなもんね。弟のことがあるし、ええカモにされてたんやと思うわ。逃げられへんかったのよ。その挙げ句にひどい目に遭って病院行きなんて、ほんまに可愛そうな子やわ」

「ふうん」と芹沢は素っ気なく言った。

 本人の理屈ではそういうことになるだろうが、最初はどうあれ、結局はてめえのクスリ欲しさなんじゃねえのか。弟を助けるためとか何とか言いながら抑制の利かなくなった自分を救い、一方でそれらが不特定多数の人間の手に渡る。いずれその中から新たな犯罪者が出るかも知れないということなど、当人にとってはもはや知ったことではないのだろう。そして犯罪には、必ずと言っていいほど被害者が存在するのだ。ところが薬物中毒者である加害者は、やがて法の手厚い保護のもとに加害者でなくなってしまう──。

 被害者はいつまで経っても被害者なのに。

 だから俺はヤク中ってのが大嫌いなんだ。

 芹沢はこれまでに何度となく巡らせ、そしてこれからもずっと消えることのない呪いにも似た思いをいつものように引っ込めると、黙って煙草をくゆらせている明美に訊いた。

「十月二十六日の喧嘩騒ぎは、河村たちの仕業なんだろ?」

「そのことはよう知らんのよ。確かにあの日、河村はここにいたわ。前日の夜から若い子三人連れて来て、徹マンやってたの。ジャラジャラと夜通しうるさくてゆっくり寝られへんかったし、結局うちは昼の二時過ぎにここを出たわ。心斎橋で買い物してそのまま出勤したから、その日の夜のことは何も知らんの。でもまあ、ここでそんな騒ぎを起こすというたら、きっと連中なんやろうね」

「その後であんたに何も言わなかったの?」

「せやから言うてるでしょ。一緒にいてないときのことは詮索せえへんって」と明美は肩をすくめた。「あの人、それも喋らへんの?」

「何もかもダンマリ」

「仲間は?」

「今の話を聞いたら、連中よりあんたの方が具体的に知ってることが多いくらいさ」

「……そんな感じやったわ。何も知らされてないくせに、鼻先にぶら下げられた僅かな餌のために何でもやる。一瞬だって疑おうとせずに。ただの木偶人形よ、あいつら」

 明美は吐き捨てるように言うと、それから何かを思いついたように慌てて煙草を消しながら芹沢の顔を見た。

「ねえ、言うとくけど、うちがこんなこと喋ったってこと、あの人に言わんといてよ。あの人が今度出て来たとき、仕返しが怖いもん」

「分かってますよ。けどちょっとやそっとじゃ出てこれねえんじゃないかな」

「そうなん?」

「分からないけど。俺は判事じゃねえし」芹沢は肩をすくめた。

「別にええけどね。どうせすぐに田舎に帰るから」

「あ、そうなんだ」

「うちの実家、和歌山で民宿やっててさ。人手が足りひんみたいやから手伝おかなて思てるの。さんざん好きなことやって、今さら虫が良すぎるとは思うんやけど」

「そりゃ賢明だと思うよ」

 そう言った芹沢の顔を見ながら明美はふふんと笑った。

「分かったように言うけど、民宿って大変なんよ。しんどいし、地味やし、朝から晩まで働いたって儲けは少ないし、うちはそれが嫌でこっちへ出て来たようなもんなんやから。あんたみたいな育ちの良さそうなお兄さんに分かるかなあ? ひょっとしたらまだ親のスネかじりやってるんと違うの?」

 芹沢はあいた、とばかりに片目を閉じて首を傾げ、にこっと笑った。その表情は、本当にまだ大人になり切れていない無邪気な少年のようだった。それもまた彼の持つ、過去の遺物としての表情の一つなのだった。

 そして彼はその若葉のように清々しい無垢な笑顔の下で、てめえのように見かけ倒しの姉御気質で、実態は笑っちまうくらい無責任で薄っぺらな女は間違いなく一年もしないうちにこの街に舞い戻って来るだろうぜと明美を罵った。

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