翌日真澄が病室に行ったとき、鍋島は眠っていた。

 真澄は給湯室で買ってきた花を持参した花瓶に生けた。

 わざわざ花瓶まで持ってこなくても病院で借りれば良さそうなものだが、専門家ゆえのこだわりからか、それとも恋する女の強い思い入れか、是非とも花に合った花器で生けたいと思い、京都から運んできたのだった。


 見事に生け込まれた花瓶を抱え、真澄は静かに病室へ戻ってきた。

 ベッドの脇のテーブルには先に誰かが持ってきたらしいアレンジフラワーが飾ってあったので、彼女は自分の花を小さな冷蔵庫の上に置いた。

 そして二、三歩後ずさりすると、またしても強い思い入れが働いて、花を抜いては別の場所へ差し替えるという作業を繰り返した。


「真澄」

 びっくりして振り返った。目を覚ました鍋島が、穏やかな表情でこちらを見ていた。

「来てくれてたんか」

「うん」と真澄は小さく頷いた。「……大丈夫?大変やったみたいやね」

「見ての通りや。ここと、ここを刺されてな。一時はヤバかったらしい」

 鍋島は左脇腹と右の太股のあたりを指差した。

「ゆうべ、萩原さんから麗子のとこに連絡が入って……何も知らんかったわ」

「あいつこの前、俺のとこに泊まっていったんや。次の日に俺んとこから出勤して行って、夜に電話くれたらしいんやど、俺が刺されたんはその日やし。それから俺の電話がずっと留守電になってるのが気になってたみたいで、昨日になって署に連絡してきて俺のことを知ったらしい」

「……痛そうやね」

「だいぶましになったけどな。傷口が塞がらへんうちはキツかった」

「しばらく入院?」真澄はまだ立ったままだった。

「ああ。でも経過は順調らしいし、今月末には退院できるやろうって」

「そう……」

「出てもしばらくは松葉杖とギブスらしいけどな。リハビリにも通わなあかんし、でもちょうどええんや、走り回らんで済むし」

 鍋島は笑った。真澄もぎこちなく笑った。見舞われているはずの鍋島が、見舞いに来た自分を気遣ってくれているのがよく分かった。それだけに真澄は彼の優しさが嬉しくて、同時に自分が情けなかった。

「麗子ね、今日は大学があるから来れへんって。近いうちに顔出すって」

 こんなときにどうして麗子のことを口にしてしまうのだろうと、真澄は自分が歯痒かった。

「なんや、もうすっかり仲直りしてるみたいやな」

「え、あ、うん……」

「やっぱりな。俺の言うた通りや」鍋島は口もとを緩めた。

 真澄は笑おうと努力している自分の顔がだんだんと歪んでいくのが分かった。

「勝ちゃん、あたしこのあいだ──」

「もう言うな」

「でも……」

「もうええから。な?」

 鍋島のこれ以上ないかのような優しい言い方に、真澄の胸は喉のあたりまで熱くなり、痛みさえ感じた。

 麗子といい鍋島といい、どうしてこんなに優しく自分の過ちを許してくれるのだろうと考えた。答は簡単だった。二人とも自分よりは数段大人で、子供じみた自分の発言など、いつまでも責めるに値しないと分かっているからだ。たとえ二人がそう思っていなくても、彼女にはそう思えた。そう考えるとさらに情けなく、哀しくなった。

「ごめんね……」

 やっとの思いでそう言うと、彼女の瞳からは涙がこぼれた。

 鍋島の顔が一瞬、苦痛に歪んだようだったが、しかしすぐに彼は微笑んで手招きをした。

「……こっちへおいで」

 真澄は弱々しく頷いて、まるで恐る恐るという感じでベッドに近づいていった。

 そしてそばの椅子に座るなり、すぐに俯いた。

 鍋島は手を伸ばして真澄の頬を包んだ。それからその手をそっと裏返し、伝っている涙を拭った。

「何も泣くことなんてないんやで」

 その言葉だけで充分だと、真澄はそのとき心から思った。

 同時に、なぜか麗子に対する敗北感で一杯になった。

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