第五章 In A Sentimental Mood

 それから一週間が過ぎたが、相変わらず真澄は見合いのことで迷っていた。

 父親を通して彼女に持ち上がった見合い話は決して悪くはなかった。今の彼女に強い結婚願望があれば、ひょっとしたら受けていただろうし、鍋島とのことに希望が見いだせないなら、何とかこの見合い話がうまく行くようにと会う前から気合いの一つも入れていただろう。しかし、彼女には今のところまったく結婚に対する前向きな気持ちはなかった。二十五歳だし、世間ではいくらでこの年齢の既婚者がいるのも分かっていたが、自分はまだあと三、四年は先でいいと思っていた。

 何より、今の彼女の心は、鍋島だけに占領されていたのだ。

 三年前、麗子に紹介されて初めて彼に会ったとき、彼女はたちまち彼に惹かれてしまった。いったい彼のどこがそんなに気に入ったのかと訊かれれば答えにくいが、彼のことはそれ以前からよく麗子から聞いていたし、どうやら真澄はその時から、まだ会ったこともない話の中だけの鍋島に魅力を感じていたようだ。だから実際に会った瞬間、イメージ通りの彼がいっぺんで好きになったのだ。

 それからずっと、彼女は静かにその想いを育ててきた。だから見合いなどしたいとは思わなかった。たとえ鍋島への気持ちが実らなくてもだ。

 彼女は心底彼に恋をしているのだった。

 それでもようやく決めたことと言えば、父親に見合いを受けるかどうかの返事をする前に、とにかく鍋島に自分の気持ちだけははっきり伝えようということだけだった。それに対して鍋島から答えをもらおうとか、その内容がどういうものなのかなどということは考えられなかったし、考えようともしなかった。

 とにかく自分の思いを伝えること。そうしないことには、どんな話にもその先などないと思ったのだ。

 ただ、ある意味そんな中途半端な決心だけしかできなかったので、彼女はどうもすっきりした気分にはなれず、毎日を憂鬱な思いで過ごしていた。

 そして彼女は結局、自分を一番よく知っていて、また味方になってくれるだろう麗子を芦屋の家に訪ねた。


 麗子は真澄が一通り話し終えるまで、黙って煙草を吹かしながら腕を組んで聞いていた。

「──まったく、皮肉な話よね」

 麗子は溜め息をついて煙草を消した。「今思うと、あんな話しなけりゃよかったかな」

「ううん、かえって聞いといて良かったと思てる」

「そうよね」

「でも、どっちにしてもあたし、今は結婚する気なんてないねん」

「お見合いしたからって、結婚しなくたっていいじゃない」

「……麗子、あんたそんなことやからまだアメリカっ気が抜けてないって言われるのよ」

「どうせなら、アメリカナイズされてるって言われたいわね」

「向こうがわざわざ身内を通してうちの父に言うてきてるのよ。お見合いして気に入ったら即結婚、ってことになりかねへんわ」

「じゃあ、何も勝也のことをどうこう考える前に、はっきり『結婚する気がないから』って断ればいいじゃない」

「それがそう簡単に行かへんのよ。父も母も、遠回しに受けて欲しいみたいなこと言うから。好きな相手でもいてへん以上、とても断れそうにない雰囲気やねん」

「確かあんた、春にもそんなこと言ってお見合いさせられそうになってたじゃない。あれはどうだったのよ」

「あのときは両親もあまり乗り気と違たから、結局立ち消え。今度の場合は全然違うわ」

「じゃあ一度会うだけ会って、断っちゃいなよ」

 麗子は立ち上がると、キッチンにコーヒーのお代わりを入れに行った。

「うん……でも……」

「あ、そうか」と麗子は立ち止まり、真澄に振り返った。「勝也に余計な誤解されちゃうか」

「うん。そやからもう、この際あれこれ考える前に、勝ちゃんにはっきり気持ちを伝えた方がいいかと思て」

「それは賢明な考えよ。お見合いの件は別にして、あいつははっきり言ってやらないと分からない奴だから」

 麗子は二人のカップにコーヒーを注ぎ足した。

 そこへ電話のベルが鳴り、麗子はカップを置いて取りに行った。

「──はい、三上です」

 相手の声を聞いて、麗子は笑顔になった。「ああ、豊。このあいだは突然押し掛けてごめんね」

 真澄はコーヒーを飲みながら麗子を見つめていた。

「何ですって?」と麗子は顔色を変えた。「それでどうなの?うん、うん、そう……で、病院はどこ?」

 麗子はメモ用紙を引き寄せてペンを走らせた。真澄は状況が読みとれないなりに、不安げに麗子を見つめていた。

「──うん、分かったわ。え? 真澄? ちょうど今ここにいるのよ」

 麗子が真澄に振り返った。真澄は自分を指差して、声を出さずに口だけで「あたし?」と訊いた。

「──うん、じゃあね。忙しいところをありがとう」

 麗子は受話器を置くと、真澄に振り返った。

「大変よ。勝也が刺されて重傷を負ったんだって」

「!………………」

 真澄は手で口もとを覆い、絶句した。

「大丈夫。刺されたのは先週で、思ったより経過は良好らしいわ。豊がね、勝也に用があってさっき署に電話して分かったんだって。それで知らせてくれたのよ」

 そして麗子はメモ用紙を差し出した。「あんた、明日病院へ行ってらっしゃい」

「麗子は?」

「あたしは明日講義があるから。近いうちに行くわ」

「……でもあたし……勝ちゃんを怒らせてしもて……」

「まだそんなこと言ってんの?」と麗子は小さく舌打ちした。「真澄あんた、勝也のことが好きなんでしょ?」

「うん」

「だったら明日行くのよ。何で勝也を怒らせたか知らないけど、何も言わなくていいのよ。どうせあいつはいつまでも根に持ってやしないから」

「……分かった」

 真澄は力なく言って麗子を上目遣いで見た。

「……何て顔してんのよ。ほら」

 麗子は呆れ顔で微笑むと、真澄の手を取ってメモを握らせた。

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