Ⅱ
1
麻雀屋での一件から十日が経った日の朝、川辺明美が動いた。
すでに彼女に対しては事件の翌日に部屋を訪ねて事情聴取は行っていたが、無論何も知らぬ存ぜぬで押し通され、ただ警戒心を募らせるだけのまずい結果に終わっていた。
当初芹沢は彼女の勘の鋭さを考えると現時点での接触は好ましくないと反対したが、彼女も自分の男が警察とゴタゴタを起こしたことくらいは分かっているだろうし、その男が逃げている以上、遅かれ早かれ自分のところにも警察がやってくることは容易に予測できているはずだと反論されて納得した。そして結局、何も成果の無かった事情聴取を経て、今まで通りの生活を続ける相手の部屋のドアをただ遠くから歯痒く眺めるだけの張り込みが数日続き、さすがに警戒心だけを優先させていては人生を楽しめないとの考えが生まれてきたのか、明美は七日目には行動範囲を職場以外にも少しずつ広げるようになっていた。それにはもちろん尾行がついた。
さらにそれから三日目が経って、彼女は一気に警戒を解き、むしろ大胆な行動に出た。十日もすると警察も自分から目を離すだろうとでも思ったのか、こともあろうに白昼堂々、キタの小さなビジネスホテルに河村を訪ねたのだった。
刑事たちが部屋に踏み込んだとき、下着姿で河村の膝の上にまたがっていた明美は彼らの構えていた拳銃を見て言った。
「ちょっと、うちのことは撃たんといてや。うちは関係ないんやし」
女なんて薄情なものだ、と芹沢はつくづく思った。
こうして河村はあっさり逮捕された。あくまで銃刀法違反容疑ではあったが。
翌日、芹沢は鍋島の病室を訪ねた。十日もすると鍋島の顔色はすっかり良くなり、刺された傷の方も順調に快復しているようだった。そうなるといい気なもので、一時は死線をさまよったくせに、今ではおとなしくベッドに寝かされているのが退屈でたまらないという様子だった。
「──野郎、生意気に黙秘だ」
ベッド脇の椅子に前屈みで腰掛け、疲れたように前髪を掻き上げながら芹沢は吐き捨てた。時間に不規則な連日の張り込みと尾行、そして昨日の逮捕劇ですっかり疲労困憊なのだろう。普段はコンタクトを使用している彼だが、今日は眼鏡を掛けていた。
「何も喋らへんのか。拳銃のことも」
「ああ、まったくのダンマリ。完黙だな」
「あいつの舎弟は」
「そっちはポツポツ喋ってるんだがよ。どうも要領を得ねえ」
「河村を怖がってるんか」
「それもあるが、どうやらあんまり事情を知らされてなかった連中みたいだな」
「川辺明美は」
「ありゃダメ、問題外。お話にならねえってやつだ」と芹沢は手を振った。「男をかばって喋らねえってんじゃないぜ。河村が裏で何してたかなんて、アケミ姉さんは全然知らねえんだ。逮捕されたあいつがこれからどうなるかも興味ねえみたいだし」
「ほんまかな」と鍋島は腕を組んだ。
芹沢は顔を上げた。「何か知ってるってか?」
「ほら、あの女がマンションの管理人と喋ってるとき、俺らが何課の刑事か知りたがってたやろ。刑事課にもいろいろあるって」
「そういや言ってたな」
芹沢は体の向きを変え、そばの冷蔵庫を開けた。少し中を見渡して、大振りのガラス瓶に入ったプリンを取り出すとラッピングを開け始めた。甘味が苦手な彼にはめずらしいことだったが、よほど疲れているのだろう。鍋島は黙ってその様子を見ていた。
「──つまり、それが分かりゃ俺たちが河村の何を嗅ぎ回ってるかが分かるってことだな、あの女には」
「あるいは俺らが西天満署の少年課かどうかを気にしてたとか」
芹沢はプリンを食べながら、鍋島の言葉にふんと小さく笑った。
「山口はまだ雲隠れか」鍋島が訊いた。
「ああ。ガキのくせにしぶといやつだぜ。
「その姉ちゃんの容態はどうなった」
「峠を越えた。だんだん良くなるだろうって」
「杉原さんはどうや」
「相変わらずだ。ずっとあのままなんじゃねえか」
芹沢は表情を変えることなく言った。
「おまえは?」
「俺?」と芹沢は眼鏡の奥から上目遣いで鍋島を見た。「暇に飽かせて、また喧嘩売ろうってのか」
「別に。そんなん食べて、疲れてんのやろ」
「当たり前だろ。おまえの分まで二倍こき使われてるんだぜ」
芹沢は空になった瓶を冷蔵庫の上の端っこに置いた。
「この事件だけってわけにはいかねえんだ。トルエンの売人の件だってまだ後処理はあるし、親父を刺した生島ってガキのことだって、少年課に全部引き継いだはずなのに今度のことであっちも手薄になってるから、家裁から何か言ってくると決まって俺に振られて来るんだ。ここへ来れたのも実は奇跡なんだぜ」
「ええんか、こんなとこでのんびりしてて」
おまえは鬼か、と芹沢は言って苦笑した。「ここなら堂々と携帯切れるだろ。連絡のしようがねえ」
そして芹沢は両手を頭の後ろで組んで背中を伸ばし、そのままぐるりと首を回すと冷蔵庫の上の大きな花瓶を見た。
「お嬢さんが来たんだな」
芹沢は薔薇のつぼみを指先で弾くと鍋島に視線を移した。
「ああ」
「で、どうだった」
「どうって、別に」鍋島は肩をすくめて俯いた。
「相変わらずかったるいな」
と芹沢は眉をひそめたが、すぐに小さく首を振って言った。「訊いた俺が悪かったよ。おまえのこの話には関わらねえって決めたんだった」
ほな訊くな、と鍋島はひねくれたように言って芹沢から顔を逸らせた。
そして、この前自分が真澄の頬に触れたときのことを思い出した。
あの時、彼は本当は真澄にキスをしようとしたのだが、いざ彼女の顔を見るとできなくなった。自分のことを本当に想ってくれているのが分かったし、あの時になってようやくそれに答えられそうな気がしたのだが、そう思ったと同時に、自分が果たして彼女に相応しい男なのかどうかという疑問が突然のように沸き起こってきて、そこで躊躇してしまったのだ。
そこでノックの音がして、我に返った鍋島が「どうぞ」と答えると、スライド式のドアがゆっくりと開いて麗子と萩原が顔を見せた。
「よお──あれ、ごめん」
身体半分、部屋の中に入ったところで、萩原は芹沢に気づくと立ち止まった。
「あ、俺はもう」
と芹沢は軽く手を上げると立ち上がって鍋島に振り返った。 「んじゃ帰るわ」
「ああ」と鍋島は頷いた。「おまえも無理すんなよ」
「くたばり損ないのてめえなんぞに言われたかねえよ」
芹沢は片目を閉じ、鍋島に向かって軽く拳を突き出すと、入口付近に立っている萩原たちに軽く会釈をして出ていった。
麗子のそばを通り過ぎるとき、彼女は少し戸惑い気味に芹沢を見つめていたが、彼は平然と無視した。
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