大教室は学生でいっぱいだった。麗子が後期から受け持ったこの講義は、前期は別の助教授が担当していた。その頃はこの教室にこれほどの学生が出席したことなどほとんど無く、あったとしても四月の一週目の講義か、前期試験の直前の週くらいのものだったろう。しかも、今日は八割近くが男子学生だった。もともと男子の多い学部ではあったが、麗子の講義はやはり男子に人気が高かった。

 数日ぶりに教壇に立って、麗子は調子を取り戻すのに内心では緊張していた。しかし一方では、改めて若い学生たちを前にして、圧倒されそうなまでの清々しさを感じてもいた。

「──今日はこの辺で終わりにします。ちょっと急いでしまいましたが、何か質問は?」

 麗子はテキストを閉じ、眼鏡のフレームを少し上げて階段状になった座席の学生たちを見渡した。ストライプの地模様の入った光沢のある黒のスーツは、マーメイドスカートのシルエットがエレガントで、文句なくかっこよかった。

「先生」

 最前列に座っていた学生が手を肩のあたりまで挙げた。

「はい、どうぞ」

「前回の司法試験では、今日の講義の最初のところの──」

「私は大学で講義をしているのです。司法試験の受験校で教えているのではありません」

 麗子は学生の言葉を冷たく遮った。「他には?」

「センセーイ、先生は学生の頃何度もモデルのスカウトを断ったっていうのはホントですかぁ?」

 陽に灼けた茶髪の軟派学生が大声で言った。教室が笑いの混じった話し声でざわめいた。麗子は溜め息をついて眼鏡を外し、テキストを閉じると大きな鞄を教壇の前に置いて言った。

「……もういいわ。本当に質問のある人は、あとで私の部屋に来て下さい。じゃ、これでおしまい」

 学生たちはそれぞれに話しながらぞろぞろと出入口に集まり、やがて出て行った。

 麗子は黒板に書いた自分の字をひとときのあいだ眺めると、黒板消しを取ってゆっくりと消し始めた。休み明けの最初の講義が一番心配だった彼女にとって、やっとリラックスした気分になれたような気がした。

「麗子」

 名前を呼ばれて、麗子は振り返った。眼鏡を外していたのですぐには声の主を見つけることが出来なかったが、最後列の座席のそばで、上品な赤いハーフコ-トの下から黒い格子縞のインパーテッドプリーツのスカートを覗かせ、ヴィトンのショルダーを肩に掛けた女子学生が立っているのがぼんやりと見えた。

「誰……?」

「麗子、あたし……」

 女子学生はその場から動かずに言った。麗子は眼鏡を掛け直し、顔を上げた。

 女子学生だと思っていた人物は、実は真澄だった。


  研究室に真澄を招き入れ、麗子はコーヒーの準備をした。

「今の講義、ずっと出てたの?」

 部屋の三分の一近くを占領しているデスクの前を行ったり来たりしながら、麗子は照れ臭そうに訊いた。

「終わりの二十分ほど」とソファに腰掛けた真澄は頷いた。「でも、何のことか全然解らへんかったけど」

「学生たちだってよく解ってないんじゃない」

「でもスカウトの話なんてよう知ってるね。やっぱり麗子は人気があるんやね」

「先生なんて呼ばれてたって、結局この歳でしょ。学生たちと六、七年しか違わないのよね。ナメられてるのよ」

 麗子は憤慨したように言ったが、すぐに小さく首を傾げた。「仕方ないか。しょせんはまだ人に教えるような器じゃないってことよ」

「そんな──」

 真澄は困ったように溜め息をつくと、足下に視線を落としてぽつりと呟いた。

「……この前はほんまにごめんね」

 腕組みしてデスクにもたれかかっていた麗子は、片方の手を天井にかざすように上向けると言った。

「あんたから先にそう言われると困っちゃうわ」

「麗子……」

「謝らなきゃならないのはあたしの方よ。男に捨てられてヤケになってたのね。それに免じて許してくれる?」

 真澄は大きく頷くと、安心したような笑顔を見せた。

 コーヒーが入って、二人はまたもとの姉妹のような仲の良さに戻って楽しくお喋りをした。途中、一人の学生が質問に訪れ、麗子は丁寧に、しかも的確にそれに答えていた。それを見た真澄は、やはり麗子には若くして人気講師になるだけの実力があるのだろうと思った。

「──ところで、話は変わるけど」

 学生を帰したあと、麗子は真澄に言った。「あんたはどうするの?」

「どうするって、何を?」

「勝也のことよ」

「勝ちゃんの……」

「自分のことが駄目になったからってわけじゃないけど、あんたたち、このままじゃいつまでたっても平行線よ」

「……うん」

 麗子は立ち上がってコーヒーのおかわりを入れに行った。

「勝也もあんたの気持ちには気づいてるわよ」

「そんなことないわ。やめてよ麗子」

 真澄はこの前の鍋島の態度を思い出して言った。

「だって真澄は何かって言うと『勝ちゃん、勝ちゃん』だもの。いくら鈍い勝也だって分かるわよ」

 麗子はデスクの椅子に座ると肘を突き、したり顔で真澄を見つめた。

「──あんた、あたしと喧嘩したあとも勝也のところへ行ったでしょ?」

「……勝ちゃんが何か言うてた?」

「ううん。実は昨日、勝也の相棒──芹沢くんっていったっけ? 彼に偶然会ったのよ。そしたら彼が、あんたが勝也のところへ来たって言ってたから。でもそれだけよ」

 真澄は不安げな表情で麗子を見た。

「麗子、勝ちゃんのことどう思う?」

「どう思うって、あたしが?」

「麗子は勝ちゃんとつき合い長いから。あたしなんかよりずっと」

「いいヤツよ」

「それだけ?」

「それだけって──それで充分だもの。あたしにとっては」

 麗子は肩をすくめた。

「そうよね」

 真澄は俯いて考えていたが、やがて何かを決心したかのように麗子を見据えて言った。

「ねえ、勝ちゃんがつき合ってた女の子ってどんな人?」

「どんなって、誰のこと?」

「しらばっくれちゃって」

「ごめんごめん。でも、何人かいたわよ」麗子は煙草に火を点けた。

「そこやねん、引っかかってるのは。勝ちゃんて、彼女ができてもあんまり長続きしいひんって、前に自分で言うてはったわ。むしろ最近では彼女のいない時期の方が長いって」

「まあ、ね……」と麗子は言いにくそうに頷いた。「確かに、あいつにはそういうところがあるけど──でも、最初からってわけじゃないのよ。それはあいつの名誉のためにも言っておくわ」

「というのは?」

「……あいつにはね、浪人時代から三年半つき合ってた彼女がいたの。同じ予備校に通ってた、ひとつ年下の現役コースの女の子よ」

 麗子は灰を落とした。「三回生の冬だったかな。その子が短大を卒業して半年ちょっと経った頃よ。その子の実家はお堅い家でね。親の意見は絶対で、その親の薦める相手とお見合いさせられて──結婚を迷ってるって言ってきたのよ」

「勝ちゃんがいるのに?」

「もちろん、その子も勝也の方が好きだったのよ。勝也もそれが分かってたし、何とか思いとどまらせようとしたわ。でも、大学生の勝也に何ができると思う? あいつだけじゃなくて、みんなまだヒヨッコだった頃よ。その上、あいつはあの通りの優柔不断でしょ」

 真澄は黙って麗子の話すのを聞いていた。

「結局、勝也は彼女に何も言えなかった。なまじ大切に思ってたから、自分なりに彼女の幸せを考えたのよ。でも本当は、たとえ何も約束できなくても、結婚するなって言うべきだったのに。彼女もそんな勝也を見て、責めることなくお見合い相手と婚約したわ。彼女にも勝也の気持ちが分かってたのね。だから何も言わなかった」

「……そう」

「そのあとあいつ、そりゃあひどく落ち込んでね。本当はどうするべきだったか、彼女がどんな言葉を待ってたか、それが分かってたから。あたしも最初はあいつを卑怯だって責めたけど、すぐに何も言えなくなったわ。言えないっていうより──近寄れない感じ。それからよ。あいつが誰とつき合ってもあまり長続きしなくなったのは」

 麗子は顔をしかめて煙草を消した。「辛かったんだろうけど──七年も経ったのに、あいつったらまだ引きずってるのかしらね」

「……あたしなんかではあかんわ」

 真澄はすっかり自信喪失して言った。

「さあ、それは分からないわよ」

「ううん、あかんわ」

 麗子はそんな真澄を見て溜め息をついた。

「さっきも言ったとおり、勝也は自分のこととなるとほんとに優柔不断な奴だから。真澄、あんたから積極的に行かなきゃ」

「……それができたら苦労せえへんわ」

 真澄も大きく息を吐いた。

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