「──ハックション!……誰か俺の噂してるな。モテる男は辛いねぇ」

 効きの悪いヒーターのせいで車外とさして変わらない冷たいセダンの助手席で、鍋島は半ばヤケになって言った。

「……そういうこと言ってろ。誰がおまえの噂なんかするかよ。せいぜい課長ってとこだ」

 運転していた芹沢は言った。

「分からんぞ。総務のマミちゃんとか会計課のチエちゃんなんか、俺に気ィあるって感じや」

「何言ってんだ。マミちゃんは俺だぜ」

「……え、ということは、まさか」

 鍋島が振り返ると、芹沢は意味ありげな眼差しを向けてにやりと笑った。

「……呆れるわ」鍋島は溜め息をついて首を振った。

「据え膳食わぬは何とかって言うじゃねえか。人生一度きりだし、愉しまねえとな」

「そのうち痛い目に遭うぞ」

「俺はそんなヘタは打たねえよ」

 鍋島は面白くなさそうに芹沢を睨むと、Gジャンの胸ポケットから煙草を出して口に挟んだ。

「──けどよ。河村の取り巻き連中が山口のところに現れたのは、山口がシャバに出て来た去年の春頃だろ。そのときは杉原さんが話をつけて、すぐに連中は来なくなった。それから一年も経ってから、何で河村はまた店に来たんだろ」

 芹沢は話題を変えた。

「山口を仲間に引きずり込むのを諦めてなかった、ってことやろ」

「でも一年も経ってからだぜ。しかも結局、ただの客を装って山口には何も言わなかった。それはどうしてだと思う? 杉原さんがいたからか?」

「そうやろな」と鍋島は煙を吐いた。「事を慎重に運ぶためには、刑事のいる前で接触するのはまずいと思たんやろ」

「そこまでして増やさなきゃならねえ仲間って、何の仲間だ」

「クラブの仕事はちゃんと従業員がいるんやから、それではないやろ。まさか同窓会やるために仲間を集めてるなんてはずもないし」

「杉原さんはその内容を知ってたんだろうな」

「ああ。先に知ってたか、あとから聞いたかは分からんけど。それで連中にやられたんや。長沢辰雄が駐車場で目撃した二人組──最初に隠れるみたいにして潜んでたって言う──あれは杉原さんと山口とみて間違いないで」

「けど、そこまでやる理由があるか? 連中の犯罪の証拠か何かをつかんでるなら、刑事として摘発すればいいことだろ。非番の日に素人の山口と二人でコソコソやることじゃねえ」

「表沙汰にできひん何かがあった、ということかも」

「例えば何だ」

「例えば──」

 そう言って鍋島は灰皿を引き出して煙草を消した。「姉ちゃんが関係してそうや」

「山口紫乃ね」

「ああ。弟とほぼ同時に姿を消してる。そのこと自体は、この一件と関係があるのは間違いない」

「看護師の同僚たちが何か知ってると思うか?」

「いや、思わん」

「──それでも行くしかないか」と芹沢は溜め息をついた。「おまけに、この渋滞だ」

「飛ばしたかったら、パトライト使おか」

 鍋島は悪戯好きの子供のような眼で芹沢を見て、ニタッと笑った。「警察稼業の醍醐味や」

「──ひょっとして、おまえも『あぶない刑事』観てたクチか?」

「古いな。俺は『踊る大捜査線』や」


 楠田病院の看護師寮は、JR片町線の鴫野駅から北東へ五分ほど歩いたところにあった。

 こぢんまりとした瀟洒しょうしゃな三階建ての単身者用マンションで、セキュリティもしっかりしていた。各階に四つの部屋があり、中央にある吹き抜けの小さな中庭を囲むようにして並んでいる。その分だけ各部屋の独立性も高くなっているようだ。入居するのが全員女性であることと、勤務時間が不規則な職種であることを病院側がきちんと考えてここを選んだということが伝わってくる、現代女性の寮としては理想的な住まいだった。黒瀬看護師長は「小さなアパートを借り上げただけ」と言っていたが、彼女はよほどの豪邸にでも住んでいるのだろうかと芹沢は思った。

 事前に連絡を入れておいたので、寮で一番古株の看護師が中へ入れてくれた。入居している十二人のうち五人が在室しており、二人はその一人一人について一階から順に部屋を訪れて紫乃の最近の様子や突然の失踪の心当たりなどを聞いて廻った。

 そこで出て来たのは、近頃の紫乃の“奇行”にまつわる話だった。

 ここひと月ほどの間にそれは現れ始めた。最初は簡単なミスから始まり、そのうち真面目で穏やかな今までの彼女からはとても想像のつかないような行動をとるようになってきたと言う。夜勤でもないのに夜中に病棟に現れ、一時間ほどてきぱき働いたかと思うと突然何かのきっかけで機嫌を損ねて、ぷいっと帰ってしまう。あるいは勤務時間中に入院している妊産師と涙を流しながら話し込み、そのあとの仕事が手につかなくなる。そして極めつけは、医師に対する横着なまでの馴れ馴れしさ。それは患者たちの間でも不快な光景として囁かれ始めていたようだ。

 これらの“奇行”に出るときの彼女は、ひとことで言うと情緒不安定の状態で、同僚たちは彼女に何か深刻な悩みがあるのに違いないと考え、何度となく聞き出そうとしたが、彼女はその都度何もないと言って笑顔を見せるだけだったそうだ。

 しかし紫乃の現在の行方については、どの看護師も反応は鈍かった。 それはつまり、病院がこのマンションを寮として選んださっきの理由がそのまま影響しているからだと思われた。

 最上階の一室に最後の看護師を訪ねた二人は、彼女からも同じような 話を聞いた。ただし彼女は、毎日紫乃の部屋のチャイムを押して紫乃が戻ってきているかどうかを確認しており、最後にその確認をしたのはゆうべ彼女が夜勤明けで帰ってきた時だったと言う。しかし相変わらず部屋には鍵が掛かっていて、外から伺う限りにおいては中には人の気配がなかったそうだ。

 そのあと二人は山口紫乃の部屋の前に立った。エレベーターを降りて ちょうど右側奥にあるその部屋は、そこに用のある人間以外がドアの前を通ることはないはずの配置になっていた。さっきの看護師の部屋はその手前で、彼女はエレベーターを降りると自分の部屋の前を通り過ぎて紫乃の部屋まで確認しに行っていたことになる。

 二人は何気なく顔を見合わせると咳払いをした。

「──さっきの彼女、何時頃確認したって言ってた」

 芹沢は小声で言った。

「夜中の一時」

「それから自分の部屋に戻って、風呂入って寝たんだったな」

「ああ。ほんでつい三十分前までは熟睡や」

「──十一時間半ってとこか」

 芹沢は腕時計を見ながら呟き、反対の手でドアノブを握るとゆっくりと捻った。

 するとその手は確かに回転した。

「……ほら。開いてるぜ」

 鍋島は芹沢の手をじっと見つめていた。「うん」

「拳銃、持ってる?」

「もちろん」と鍋島は力強く頷いた。「銃弾たま入ってへんけどな」

「いいのかよそんなことで。んだぜ」

 芹沢はゆっくりとドアを開けた。すぐ脇の壁に背をつけて立った鍋島は左の懐に手を入れて中の気配に神経を集中させた。

 一帖ほどの小さな玄関には造り付けの下駄箱と細長いステンレス製の傘立てがあった。靴は出ておらず、傘も綺麗に整えられたブランド物が一本入っているだけだった。すぐ正面に磨りガラスのはめられた引き戸があり、その奥にダイニングキッチンとフローリングの洋間の二部屋、そしてトイレなどの

 水周りがあることは他の部屋を巡った後なので分かっていた。

「山口さん、いらっしゃらないんですか?」

 芹沢は声を張って言い、開いたドアをノックした。中からは何の応答もなかった。

「お留守ですか? 中に入らせてもらいますよ」

 芹沢は言いながら部屋の中に入ってガラス戸を開けた。

 部屋は明らかに荒らされたと分かる散らかりようだった。キッチンの戸棚の扉が開き、数枚の皿がその下で割れていた。

 ダイニングテーブルの一輪挿しが倒れて水が零れ、椅子も一つはひっくり返っている。その横に小ぶりのフライパンが落ちていた。

「……新手の引越屋でも来てたか」

 芹沢の後に続いていた鍋島が言った。

「それともちょっとはしゃぎ過ぎのパーティーの後か」

 芹沢もそれに答える。

「奥の部屋はどうや」

 鍋島は部屋に上がると、拳銃を持ったまま奥の部屋への戸を開けた。

 そこも同様に荒らされており、むしろダイニングよりもひどかった。ドレッサーの前にぶちまけられた化粧道具が特に目を引いた。鮮やかなピンクのマニキュアが鏡を汚し、ファンデーションやアイシャドウの粉が椅子に散りばめられている。その横のハンガーに掛かった洋服にも飛び散っていた。泥棒が入ったというより、激しい争いのあとなのは明らかで、ベッドの脇には血痕らしき汚れが二、三箇所目落ちている。開け放した窓から吹き込む風が厚手のカーテンを揺らしていた。

「鍋島」

 鍋島が振り返ると、ダイニングから顔を出した芹沢が、手にした携帯電話でどこかへのダイヤルを押しながらこっちへ来るようにと目で合図をした。スーツの上着が濡れていた。

「何や」

「いた。風呂場だ」

 芹沢は流し台のすぐ横にある小さなドアを親指で示した。

「死んでるんか」

「いや、死ぬにゃまだ時間はありそうだ」

 芹沢は言うと電話を耳に当てた。「杉原さんと同じだ」

 鍋島は芹沢が示したドアに近づいて、ゆっくりと開けた。後ろで芹沢が繋がった電話の相手に救急車を呼ぶように言っていた。

 中の浴室に、山口紫乃はいた。びしょ濡れで、着ているのはキャミソール一枚、それも肩紐の一本がちぎれている。浴槽にもたれかかるようにして膝をたたんで横たわり、全身には無数の傷。首を壁の方に傾け、顔の右半分はよく見えない。そしてその顔を集中的に殴られたようで、左目は腫れ上がった頬と瞼の間に陥没していた。湯船に三分の二ほど溜められた水が薄いピンク色に染まっているところを見ると、彼女がそこに入っていたことが分かる。芹沢が彼女を引き揚げたのだろう。だからスーツが濡れていたのだ。

 鍋島は無表情で紫乃を見下ろしていたが、やがて静かに拳銃をホルスターにしまうとGジャンを脱ぎながら言った。

「何か着せてやらんと。男二人に見せられる格好やない」

「ああ」

 電話を終えた芹沢も上着を脱いだ。





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