その芹沢は、あとで話を聞いた鍋島が杉原奈津代を訪ねておいてまだ良かったと思わせるような場所にいた。

 楠田くすだ病院は、外観を見る限りシティ・ホテルと言っても通用しそうな洗練された雰囲気を持っていた。建物は上品な茶褐色で、玄関の周りにはこの季節になっても緑の美しい背の高い樹が植えてあった。樹々の間には円筒形のライトが上向きに備え付けてあり、その光が壁に埋め込まれた病院の名前を柔らかく浮き上がらせていた。

 六時を廻って町は街灯と車のヘッドライトで溢れ、白い輝きが気体のようにあたりに漂っていた。その分、ビルでジグザグに切り取られた空が暗さを強調して頭上に張りついていた。

 病院に入った瞬間、芹沢はここが産婦人科だったことを実感した。夜間の外来の診察時間が始まったばかりらしく、受付は混雑していた。

 そこにいた全員が女性──しかもほとんどが二十代から三十代前半という若さだった。そして当然と言えば当然のことだが、たいていの女性が一目見て妊婦と分かる体型をしていた。

 芹沢は小さく「……うわっちゃ」と呟いて正面玄関の自動ドアの前で立ちすくんだ。女子更衣室か女湯にでも入ってきてしまったような気分になった。

 もちろん彼にはそんな経験はなかったのだが、とにかくひどくまずいところに来てしまったという感じだった。

 気を充分に取り直して、受付に近づいていった。

「あの、ちょっとお訊ねしたいことが──」

 カウンターでそう言ったとき、周囲にいた十二、三人の視線が一斉に自分に集まったのを芹沢は背中で感じた。日頃から女の関心を惹くのには馴れていたが、この人数はちょっとない。

「面会ですか?」

 三つ編みの長い髪を左の肩に垂らした事務職員が顔を上げた。

「いえ、そうじゃないんです」と芹沢はバッジを取り出して示した。「西天満署刑事課のものです」

「警察の方……?」と事務職員は顔を曇らせた。「何か?」

「山口紫乃しのさんという看護師さんが、こちらにおられますよね」

「ええ、確かいると思います」

 事務職員はカウンターの奥でパソコンに向かっている別の職員に振り返った。

「ねえ、山口さんって看護師さんいたよね? 山口紫乃さん」

「うん、いるよ。産科病棟に」

 薄いフレームの眼鏡をかけた事務職員は、椅子を回転させてこちらを向いた。

「でも、ここ最近見掛けませんけどね」

「お休みですか?」

「さあ、ここではちょっと……奥の産科のナース・ステーションでお訊ねになったら分かると思いますよ」

「ありがとう」

 芹沢は軽く会釈して礼を言うと、教えてもらった廊下を進んでいった。


 ナース・ステーションでも芹沢は受付と同じことを訊ねた。若い看護師は看護師長が応対するのでしばらく待つようにと言った。

 廊下の長椅子で芹沢はぼんやりと看護師長が来るのを待った。

 一つ置いて隣の長椅子にも芹沢と同じか、少し若いくらいの男が座っていた。しかし彼の方はずっと落ち着きがなく、立ったり座ったりの動作を繰り返し、廊下の奥を伺っていた。そして芹沢と目が合うと、照れ臭そうに頭を掻いて言った。

「こんなとき、お互い男ってのは役に立ちませんね」

「は?」と芹沢は目を丸くした。「──いや、俺は違うんですよ」

「あ、そうですか……」

 男はまた立ち上がり、ジャケットのポケットから煙草を出して口に挟んだが、慌てて元に戻した。その様子を見ながら、芹沢はこの男がきっと今日初めて父親になるのだろうと思った。誰かの父親になるなんて、自分にはまだとうてい考えられないことだ。いや、おそらくそんな境遇とは無縁の一生を過ごすだろう。

「芹沢さん?」

 後ろから声を掛けられて、芹沢は振り返った。四十過ぎくらいの痩せた看護師が無表情で立っていた。

 芹沢は立ち上がった。「お忙しいところを申し訳ありません。西天満署刑事課の芹沢と言います」

「看護師長の黒瀬くろせです。どうぞ、お掛けになって下さい」

 芹沢は長椅子に座り直し、黒瀬もその隣に腰を下ろした。

「──早速ですが、山口紫乃さんという看護師さんがこちらにおられると聞いたんですが」

「ああ、紫乃ちゃんね」と黒瀬は言って芹沢を見た。「でも来てませんよ。ここ三日ほど」

「と言いますと?」

「無断欠勤です」

「ははあ」と芹沢は頷いた。「連絡が取れないんですね」

「ええ。寮の部屋にも帰ってきてないし。探そうにも、身内がいないんで分からないんです」

「何か心当たりはありませんか」

「さあ、看護師なんて、8Kって言われたりもするしね。回転早いのもそのせいですし。あの子は明るくてええ子やけど、あんまり自分のこと話さへんから。ちょっと気紛れなところもあるし」

 黒瀬は溜め息をつき、少し上を向いて言った。「さしずめあれやないの、もっと割のええバイトでも見つけたんと違うかしらね。ここひと月ほどは、夜勤ができひんって言い出してたし……いずれ辞めるんやないかと思ってたけど、無断欠勤するとはね」

「寮の同僚の方とかで、彼女と仲の良かった人はいますか」

「寮のことは私には分かりません。たぶん一人や二人はいると思いますけど。お知りになりたいのでしたら、直接寮に行って訊いて下さい」

「分かりました」と芹沢は言った。「えっと、寮の住所は……」

鴫野しぎのにあります。寮と言うても、小さなアパートを借り上げてるだけですけど。今、住所を調べてお持ちします」

「お願いします」

 黒瀬は席を立ち、ナース・ステーションへと戻っていった。


 廊下の掛け時計は六時四十分を指していた。一度署に戻って、鍋島が戻っていたら一緒に出直そうと思った。

「お待たせしました」

 戻ってきた黒瀬がメモ用紙を差し出した。アパートの名前の下に、城東じょうとう区の鴫野の住所が書かれていた。

「明日行かれた方がいいかも知れませんね」

「どうしてですか?」

「この時間から行っても、まず誰も出てきませんよ。勤務でここにいるか、夜勤に備えて熟睡してるか、遊びに出掛けてるかのどれかですから」

「そうですか、分かりました。お手数掛けて申し訳ありません」

「いいえ」

 とここで初めて黒瀬は笑顔を見せた。「奥で若いナースたちが騒いでましたよ。超イケメンの刑事さんが来たって」

「よろしくお伝え下さい」芹沢もにっこりと笑った。

 すると突然、黒瀬は真顔になった。「でも、紫乃ちゃんが何かしたんですか?──前にも刑事さんが訪ねてこられましたけど」

「前にも?」

「ええ、確かあれは……九月頃やったかしら」

「どこの刑事です?」

「どこって、おたくと同じとこですよ。──でも、刑事課とは言うてらっしゃらなかったように思います」

「……ひょっとすると少年課ですか」

「ええ、そうです。少年課の……杉田、杉山……」

「杉原」

「あ、そう。杉原さん。確かに杉原さんっておっしゃってました。でも紫乃ちゃんは休みの日で、結局会わずに帰られましたよ」

「……そうですか」

 芹沢は黒瀬に礼を言い、廊下を戻って受付の前まで来た。

 やはり杉原と山口姉弟の間には今でも親密な関係があったのだ。杉原が警官の身分を明かしてこの病院に彼女を訪ねてきているところを見ると、弟の件が絡んでいることは間違いないだろう。しかし、その弟と同様、なぜ姉も仕事に出てこなくなったのか──。

「きゃっ!」

 俯いて考えながら歩いていた芹沢は女性とぶつかった。その拍子に、女性が持っていた薬の袋が床に落ちた。

「あっ、ごめんなさい」

 芹沢はかがみ込んで袋を拾うと、汚れを落とすような仕草で袋を手で払った。

 しかしその手が袋の名前を見て止まる。


 ── 『三上麗子殿』。


 見覚え──いや、あるいは聞き覚えだったかも知れないが──のある名前に、芹沢はゆっくりと顔を上げた。

「……え」

「あ……」

 芹沢と麗子は何秒か掛かってお互いの存在を確認し、するとそれ以上何も言えなくなって立ち尽くした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る