そのあと芹沢は署に電話をして戻るのが少し遅くなることを報告し、麗子を半ば強引に車に乗せて芦屋あしやに向かった。彼女を自宅まで送るためだ。

 最初のうち、麗子は黙って助手席に座っていたし、芹沢も何も訊かなかった。しかし二十分もすると麗子はその息苦しい雰囲気に絶えられなくなったのか、いくぶん責めるような口調で切り出した。

「何も訊かないのね」

「訊かれちゃ困るんだろ」

「……物わかりのいい知人を演じてるってわけね。ほんとはいろいろ想像を巡らせてるくせに」

 麗子は腹立たしげに言った。今や、気持ちまですっかり荒んでいるのだった。

「馬鹿言わないでよ」と芹沢は鼻白んだ。「人の私生活に首突っ込むなんて、仕事だけでうんざりだ。知り合いだろうが何だろうが、あんたが何やろうと興味ねえよ」

「じゃあどうして送ってくなんて言ったの?」

「そんな青白い顔でふらふら歩いてたら危なっかしいだろ。家へ帰るまでに何人とぶつかるつもりなんだよ」

 芹沢は麗子に振り返った。「──それとも、何か。あんたは誰かに聞いてもらいてえのか?」

 麗子は肩をすくめて芹沢を見た。助けを求めるような眼差しだった。

「産もうか、どうしようか。決めかねてるってやつか?」

「え?」

「だとしたら、不本意にも母親になっちまった知り合いを家まで送るのが、せいぜい俺のできる親切かな。それ以上はごめんだ。話も聞きたくねえ」

 麗子は呆然と芹沢を見つめていたが、やがてぷっと吹きだした。

「違うわよ」

「じゃ良かった」

「ええ。それだけは免れたみたいね」

 そして麗子は芹沢のとんだ勘違いに気が緩んだのか、ここ数日間の出来事をかいつまんで彼に話した。

「……馬鹿な話でしょ」

「まあな」と芹沢は言った。「けどまあ、自分だけを責めない方がいいぜ」

「自分でもこんなにひどくなるとは思わなかった。情けないったら」

「免疫ができてねえんだろ。聞くところによるとあんた、今まで勉強ばっかだったらしいじゃん」

「そんなことないわ。男には今まで何度もひどい目に遭わされてきた。けど、今度はそれだけじゃないから」

「従妹のことか」

「そう、それが大きいわ。あの子に見放されたことで、必死で気を張ってたのがいっぺんに崩れたの」

「それでヤケを起こしたのか」

「ええ。睡眠不足と飲み過ぎで、体調ボロボロ。女の機能にまで影響が出ちゃったわ」

「……医者の世話になるわけだ」と芹沢は呟いた。「従妹の方も悩んでるみたいだぜ」

「何で知ってるの?」

「鍋島のところに来たから」

「あ、そうか。そうよね」と麗子は俯いた。「──彼女の気持ちを知ってるのに、あたし、ひどいこと言ったわ」

「しょうがねえよ。落ち込んでるときってのは、てめえが一番可愛そうだと思っちまうもんなのさ。だから、どいつもこいつも周りの連中は気に食わねえし、わざとそいつらを傷つけたくもなる。決して本心からの悪意じゃなくてもよ」

「そんな風に言ってくれると、ちょっと救われるわ」

「従妹だって、そのうち分かるだろ。いや、本当は分かってるんだと思うぜ」

 麗子は何も言わずに力無く笑った。

 大阪からの電車が到着して乗降客で賑わうJR芦屋駅前の通りを横切り、芹沢は車を北へ走らせた。舗道の街路樹はずいぶん葉が落ちていた。麗子の心の中も今はこの木々のように冷たい風をまともに受けて、骨まで剥き出しになっているのだろうと芹沢は思った。


 麗子の家の前で車を停めた芹沢は、サイドブレーキを上げると彼女に振り返った。

「とにかく、今は腹一杯食って、記憶が無くなるくらい眠るんだな。身体が弱ってちゃ根性だって這い上がれねえだろ」

「ありがとう」と麗子はやっと穏やかな笑顔を見せた。「偶然だったけど、今日あなたに会えて良かったわ」

「良く言うよ。最初は食ってかかってたくせに」芹沢は苦笑した。「じゃあな」

「あの、それから──」

「分かってます」と芹沢は頷いた。「今日あそこであんたに会ったってことは、鍋島には黙っとくよ」

「……ごめんね、気を回してもらって」

「余計な心配掛けたくねえんだろ。なんせあいつは馬鹿だからよ」

「ええ。そうね」

 麗子は笑って頷き、弱々しいながらも美しい瞳で芹沢を見た。そしてドアを開けて降りようとしたが、すぐに振り返って言った。

「コーヒーでも飲んでく? 送ってくれたお礼に、ご馳走するわ」

 芹沢はじっと麗子を見つめた。そして小さく笑った。

「──やめとくよ。弱ってる女の心のスキに入り込むなんて、ちょっとずるい気がするだろ」

「そうね。あぶないとこだった」と麗子も微笑んだ。

 麗子は車を降り、門の前まで行くと振り返った。芹沢は車の中から軽く会釈すると、サイドブレーキを下げて車を出した。

 麗子は今の彼女にできる精一杯の笑顔を造って見せた。彼のおかげで少しだけ、心と身体が軽くなったような気がした。

 芹沢の方はというと、ずいぶんカッコつけたことを言ったものの、ちょっともったいなかったかなと思いながら大阪へと車を走らせていた。


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