第四章 Left Alone

 真澄と京都のバーで喧嘩別れをした翌日から、麗子はついに大学を休むことになった。

 夜、ベッドに入るときにはそうでもないのだが、翌朝目が覚めるとなぜかすっかり行く気を失っているのだった。

 失恋、仕事での空虚感、そして姉妹のようにつき合ってきた真澄との亀裂。麗子は今の自分に降りかかっていることのすべてが悪い夢ならいいのにと思った。夢なら、今すぐベッドから出ていつものようにコーヒーを淹れ、玄関に三種類の新聞を取りに行くのに。しかしそれらはどれをとっても夢などではなく、自分が引き起こした紛れもない事実ばかりだった。

 それで彼女は、起き上がっていつも通りの生活を始める気力などとうてい持つことはできなかったのだ。

 おまけに、今朝はひどく体調が悪かった。彼女は激しい頭痛と腹痛、さらには時折襲ってくる吐き気にも悩まされていた。もともと下戸のくせに、ここ十日ほど酒に頼らずに過ごした夜はなかった。外食をするにせよ家で食べるにせよ、ほんの僅かな料理のあとはいつも酒を飲んだ。そうでもしないと独りではいられなかったのだ。

 独り暮らしはもう長かったし、子供の頃から独りに馴れてもいたが、麗子は今度ほどそばに誰もいないことの辛さを味わったことがなかった。だから酒に頼り、酒に逃げた。しかし、飲み馴れていない人間がろくに食べず、ろくに寝ないで十日間、毎日アルコールを摂り続けるとどうなるか。分かりきったことだった。

 麗子は何とか楽な体勢を見つけだそうと、ベッドの中で身体を曲げたり伸ばしたり、あるいはうつ伏せになったり横を向いたりした。そのうち、ドレッサーの大きな半円形の鏡の片隅に自分のみすぼらしい姿を見つけた彼女は、慌てて仰向けになり、天井を見つめた。

 やがて「くそったれ」と言う意味の英語のスラングを吐き捨てると、彼女は小さな声を出して泣き始めた。



 どうやらアウトラインが見えてきた。

 元暴走族の二人。おそらく同じグループ。十二という年齢差から、同時期に所属していたとは考えにくい。しかしただの顔見知り以上の関係であったことは推測できる。罪を償った少年が新しい人生に踏み出そうとしているところへ、伸びてきた過去からの魔の手。そこへ立ちはだかった少年課の刑事。危険な誘惑をはねのける。

 ところが、やがて刑事はその報いを受ける。そして救われたはずの少年も姿を消す──。

 おそらくこの筋書きで間違いはないだろう、と捜査会議では全員の意見が一致した。同時にその中にどうも納得できないことが一つあるという点でも皆の思いは同じだった。

 今ひとつ、動機が弱すぎやしないかということだ。

 昔、自分が逮捕したことのある人物を悪い仲間から引き離した。杉原に限らず、そういうことは刑事にはよくあることだ。もちろん邪魔をされた相手にとっては迷惑な話だが、だからといってあそこまでやるだろうか。しかも一年以上も経ってから。ないだろう。

 動機が納得できない以上、連中の仕業だと断言することはできなかった。やはり一つ一つの事実を突き止めて、すべての真実を明らかにするしかない。そこには確かに動機がある。身勝手であろうがお門違いであろうが、ちゃんと犯行への道筋がついているはずだ。刑事たちは改めてそう思い直し、それでも何も分からなかったこれまでの状況よりはかなり好転したと、自らの気力を奮起させて仕事にとりかかったのだった。



 鍋島の差し向けられた先は杉原の自宅マンションだった。妻の奈津代に会って、杉原と山口泰典や河村忠広の関係に少しでも手がかりになるようなことはないか訊きに来たのだ。

 はっきり言って奈津代は苦手だった。彼女自身がどうだというのではなく、この前、自分がいくつかの不用意な発言をしたことによって悲しみの淵に突き落としてしまったことが気になっていたからだ。課長に彼女を訪ねるように言われたとき、何とか理由をつけて逃れようと思ったが、一面識もない刑事が行くよりは彼女も話しやすいだろうと言われて断れなくなってしまった。この前一緒に彼女を迎えに行った秋田係長はその後捜査チームから外れていたし、女性の相手にはうってつけで、こういうときにこそコンビを組んでいて頼りになるはずの芹沢はもっと適した場所への捜査を命じられていた。鍋島はアンラッキーだったのだ。


 傾きかけた陽のあかに染まるリビングのソファーに座り、鍋島は出されたコーヒーに手もつけずに、言葉なく奈津代を見つめていた。

 向かいには奈津代が遠慮がちに腰を下ろしていた。コーヒーを運んできたトレイを膝に置き、両手を揃えて俯いている。最初に会ったときに小柄な女性だとの印象が強かったが、ここ何日かの身の回りの激変ぶりにさらに小さくなったように鍋島には思えてならなかった。

「──そんなに心配そうに見ないで下さい。これでもだいぶ落ち着いたんですよ」

 奈津代は静かな笑顔を見せた。

「あ、すいません」

「このあいだ来て下さったときはひどかったですもんね。突然のことでびっくりして、すっかり取り乱してしもて。あのときはすいませんでした」

「いや、こちらこそ……俺が余計なことも言いましたし」

 鍋島はようやくコーヒーのソーサーに置いてあったフレッシュを手に取った。

「病院に少しだけ顔を出したんですが──杉原さんの容態は、あの──」

 奈津代は首を振った。「でしたら、見ていただいたとおりです。何も変わりはありません」

「……そうですか」と鍋島は溜め息をついた。

「それで、今日は……?」

「あ、実はあの、杉原さんが五年前に逮捕したことのある人物のことで──ちょっとお話を伺いたいと思いまして」

「そういうことでしたら、私はあまり」

「ええ、分かっています。杉原さんは普段からあまり仕事の話はなさらなかったとおっしゃってましたよね。けどおそらく奥さんもご存じの人物です」

「……誰でしょう」

 そう言った奈津代の顔が少し強張ったように鍋島には見えた。

「山口泰典という二十歳の青年ですが」と言って鍋島はじっと奈津代を見つめた。

「十三にある『元今もといま飯店』の従業員です。奥さんも、杉原さんと一緒に行かれたことがありますね」

「……ええ、あそこなら」

「じゃあ覚えていらっしゃいますね。山口くんのことを」

「ええ、少しは。主人が、前に事件を起こした子が少年院を出て真面目に働いていると言うので、様子を見がてら一緒に食事に行ったんですが……特別な話はしなかったように思います」

「ここ最近、杉原さんは二日に一度は彼のところを訪ねていました。そして非番だった二十六日にも店に行って彼に会っています。あんな姿になる前日……いや、もしかしたら当日にです」

「……そうですか」

「奥さん、ご主人と山口という男の間に何か特別な事情があると思わせるような心当たりはありませんか。普通の非行少年と、少年を逮捕して面倒を見た刑事という関係以外に」

「……私には分かりません」

 奈津代は力無く言って、コーヒーを一口飲んだ。「主人は、杉原は──十二の頃に弟を亡くしているんです。生まれつき身体の弱い子で、ほとんど病院を出たことがなかったそうです。最後に大きな手術をして、そのまま意識を戻すことなく逝ってしまったそうです。まだ三歳でした。それで主人は、ああして歳の離れた子供たちが罪を犯すのを放ってはおけないんです。何一つ夢を実現することなく……いえ、夢すらも見ることなく死んでいった弟が不憫でたまらないんです。弟の代わりに彼らを苦しみから救ってあげたいと思ってるんです。だから、少年課は主人の念願でした。あの子らだけが悪いんやないって、いつも言うてました。寂しくてやけになってるんやって。だから他人だけやなくて、自分のことも傷つけてるんやって」

 鍋島は黙って聞いていた。身内を亡くしたことが一つのきっかけとなって、やがて警官になる。俺と同じだが、俺とは違う。

「だから、その山口という子のことも、同じように思ってたんやと思います。少年院まで行く子というのは、やっぱりそこそこ深刻ですから。そんな子が出て来て立ち直ったというても、すぐには安心できひんかったんやないでしょうか。いくら本人の更正への決心が強くても、周囲の目とかいろいろ……厳しいですし」

「山口も翌日、姿を消しました」

「そうなんですか?」

 奈津代は顔を上げて鍋島を見た。「じゃあ、彼が主人を?」

 奈津代が山口のことを「その人」ではなく「彼」と呼んだことで鍋島はある種の確信を得た。この女房は亭主と山口の何かを知っている。鍋島はワークシャツのポケットから煙草とライターを取り出してテーブルに置き、言った。

「構いませんか?」

「あ、ええどうぞ」

 奈津代は灰皿を鍋島の前に置いた。

 火を点けてゆっくりと煙を吐き出してから、鍋島は言った。

「山口が杉原さんのことをあんなにしたかどうかは分かりません。しかし店を無断で休み、アパートからも姿を消してしまったところを見ると、彼が何も知らないとは思えません。きっと深く関わっていると思います」

「──そうですね」と奈津代は俯いた。

「河村忠広、という男のことは何か聞かれたことはありませんか」

「えっ?」

 唐突な質問内容の転換に、奈津代は顔を上げた。

「河村忠広です」

「……分かりません」

「本当ですか?」

「ええ。誰なんです?」

「ミナミでクラブを経営している男だということくらいしか分かっていないんですが……杉原さんとの関係がはっきりしないんです」

 鍋島は言うと口調を変えて付け加えた。「どうせろくでもない男に決まってますけどね」

 そして煙草を灰皿に押しつけて立ち上がった。「どうもお邪魔しました」

「え、もう構わないんですか……?」

 奈津代は驚いた顔で鍋島を見上げた。

「はい。お手間を取らせて申し訳ありませんでした」

 鍋島はあっさりと答えるとドアに向かった。


 玄関先で、鍋島は見送りに出た奈津代に言った。

「奥さんもまだお疲れのようですし。毎日病院に通われるのも大変でしょうが、お身体を大切になさって下さい」

「ええ。ありがとうございます」

「それじゃ、失礼します」

 ドアが閉まると鍋島は大きな溜め息を吐いた。

 やっぱり女は苦手だ。女は平気で嘘をつくし、穏やかな顔をして、その実、何を考えているか分からない。時にはひどい中傷をも口にする。まぁ、中には麗子みたいな分かり易い女だっているが、あいつの場合は逆にもう少し複雑さがほしい点で特別だ。

 ともあれ女の相手は芹沢に限る。





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