銀行を出た二人は、すぐ近所の小さなレストランに入った。

 店内は昼休みのビジネスマンで一杯だったが、それでももう一時をまわっていたのでこれ以上は混まないだろうと萩原は説明し、彼らは小さな二人用のテーブルに着いた。

「久しぶりやな、麗子」

 カレーライスを注文した後、萩原はスーツの上着を脱ぎながら言った。

「そう? ゼミの飲み会以来だから、まだ二ヶ月よ」

「ちょっと見ぃひん間にまた綺麗になったんちゃう」

 萩原はまじまじと麗子を見た。「それが驚くことに、大学の人気講師なんやし──才色兼備とはまさに麗子のことを言うんやな」

「いくらお世辞言ったって、何も出ないわよ」と麗子は微笑んで腕を組んだ。

「分かってるって。で、今日は何や」

 萩原は言うと銀行を出るときの皆の驚いた顔を思い出した。特に山本は悔しそうやったな。

 一瞬だけ視線を落として、麗子は言った。

「別に用ってないわ。近くへ来たから、ちょっと寄ってみただけ」

「ほんまか?」

 萩原は疑わしげな笑みを浮かべた。「そんなタイプやないやろ。ちょっとぶらっと、とか、気が向いたから、なんてのは性に合わへんのと違うんか」

「そんなことないわよ」

「いや、そんなことあるね。行動のすべてにその目的と結果がともなってないと嫌なんやろ?」

「なに? それじゃまるであたしが情緒欠落人間みたいじゃない」

「それに近いかもな」

 失礼しちゃうわね、と麗子が言って二人は笑った。

「鍋島のことか」

「え?」

 麗子が顔を上げると、萩原はしたり顔で見つめていた。

 卵型の顔の中で最も印象的なのはその伏し目がちの二重の目で、長い睫毛の間から茶色がかった瞳を、今はいくらか大仰に輝かせて覗かせていた。太くはないが凛々しい眉がこめかみに向かって真っ直ぐに伸びている。かっちりとした濃紺のスーツに糊の効いたワイシャツ、その袖口から覗かせた何気ないデザインの時計はもっぱら機能重視を主張しているかのようだ。落ち着いた色調のネクタイ、スーツの左襟には巨大コンツェルンのトップに君臨する輝かしい社章。典型的なホワイト・カラーの青年である。しかしながら実はそれは学生時代の彼とはとうてい繋がらない、すなわち麗子には単に外見上だけのものであると容易に見抜けるイメージだった。

「どうしてそう思うの?」

「俺と麗子の歴史の中で、あいつ抜きの瞬間なんて一瞬たりともないからな。あいつと麗子の間では、俺抜きってこともありうるやろうけど」

 芝居じみた、そして何となく意味深な萩原の台詞に、麗子は「何よそれ」と笑った。

 そこへカレーライスが運ばれてきて、萩原は話をやめた。麗子の前にはシーフードサラダとフレッシュ・オレンジジュースが並べられた。二人は黙って二、三口食べた。

「──しばらく、アメリカに行って来ようかと思ってるの」

「里帰りか」

「うん、まあ──そんなとこ」

 話を振ってきたのはそっちだろうが、と萩原が怒りたくなるような気のない返事をサラダの中に落として、麗子は小さく溜め息をついた。


 三上麗子は帰国子女である。ボストンの大学で教鞭をとる数学者を父親に持つ彼女にとって、長いあいだアメリカが母国だった。その彼女が九年前、ボストンの高校を卒業すると両親とともに帰国し、生活基盤を初めて日本に置いて、九月に京都にある私立大学の法学部に編入学した。そのときの基礎演習のクラスで一緒だったのが萩原豊で、彼は彼女が大学で最初に作った二人の友人の一人であり、もう一人は、今、二人の話に上っている鍋島勝也である。


 そもそも萩原と鍋島は入学して最初の講義で席を隣り合わせたときからの仲だった。

 附属高校からの推薦入学者が目立つ学生たちの中で、ともに一浪しており、しかも他に受験して落とされた大学とその学部も同じだと分かるとすぐに意気投合し、それからは講義でも遊びでもたいてい行動をともにしていた。麗子が編入学してきたとき、二人は彼女のあまりの美貌に感激し、早速クラス幹事の立場を利用して彼女に近づいた。が、それは結局、性別を越えた堅い友情を産んだだけという情けない結果に終わる。麗子がその容姿とかけ離れてまるで色気のない性格だったのがその第一の原因だったが、萩原はそのときすでに後の妻となる女子学生とつき合っていたし、鍋島にも彼女らしき相手がいた。麗子も学業に夢中でボーイフレンドどころではなく、他の男子学生も彼女のことを高嶺の花だと思っていたので、結局彼女には特別な相手は出来なかったのだ。

 四年後、三人は無事卒業証書を手にした。その先の進路は萩原が大手銀行、鍋島は大阪府警、麗子は大学院とそれぞれに別れたが、気のおけない親友同志としての関係はずっと続いている。


「──鍋島には黙って、ってことか」

「別に内緒ってわけじゃないわ。でも──わざわざ報告することでもないでしょ」

「見とうないか。あいつが他の女のコとくっつくの」

 麗子は驚いて顔を上げた。萩原の口からいきなりそんな言葉が出てくるのが意外だったからだ。

「そういう話をしに来たんやろ?」

 と、逆に萩原は何でもなさそうに肩をすくめて見せた。「俺が全部分かってるって確信があったから、俺に会いに来たんやないんか」

「え、ええ、まあ……そうだけど」

 麗子はちょっとバツが悪そうに造り笑顔を浮かべながら俯いた。

「あんまりズバッと言うんだもの」

「従妹の──何て言うコやったっけ」

真澄ますみ。野々村真澄」

 麗子は答えた。「勝也はつまらない遠慮をしてるのよ。真澄があたしの従妹だから──あたしに気兼ねしてるの」

「気兼ね?」

「ええ。三年前、勝也に真澄を引き合わせたのはあたしだから。大阪で親戚の結婚式があって、あたしと真澄も出席したの。その帰りにふとあいつのこと思い出して、電話で呼び出したのよ。あの頃、あいつまだ寮生活してたでしょ。相も変わらず女っ気とは絶縁状態だから辛いってよく愚痴ってたから」

「ちゃんと紹介したわけやないんやろ。つき合う相手としてどうかって」

「そうだけど、でも──」

「真澄ちゃんの方は鍋島を気に入った」

「そう」

「でも、あいつはどうなんや」

「意識はしてるわ。真澄の気持ちにも気づいてるみたいだし。でも、そこでまたあいつのビョーキよ」

「ああ、重度の『優柔不断症候群』な」

「そう。『人のことならよく分かるしアドバイスもできるけど、自分にとっての重要事項は何一つ決められません』ってやつ。バカよね。って言うか──ずるいのよ」

「……おまえ、ほんまにそれだけが原因やと思てるんか」

 萩原はグラスの水を飲みながら言った。

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