大阪に本社を置くほとんどの大企業がそうであるように、その銀行も本店は中央区の淀屋橋にあった。


 土佐堀とさぼり川に架かる淀屋橋から南の御堂筋みどうすじを中心とした一帯は、銀行の他に保険会社、商社、大手メーカー、さらには東の北浜からの流れを継ぐ証券会社などのオフィスが建ち並び、その間を行き交う人々はほぼ百パーセントの割合でビジネスのためにそこにいるのだった。

 色づき始めた御堂筋の銀杏並木に穏やかな午後の光が散りばめられ、二階にいる萩原豊はぎわらゆたかには眩しかった。こんな日にはいつもより余計に仕事が馬鹿馬鹿しく思えてならない。

 昨年の三月にアメリカ勤務から帰ってきて以来、彼はこの本店営業部の融資二課で仕事をしている。入行してわずか一年目の秋にワシントン支店への赴任が決まり、半年間の研修を経て翌年の春、妻と生後九ヶ月の娘を大阪に残して単身アメリカへ渡った。夢中で仕事をして、二年後の二月、主任昇格の辞令を現地で受け取った。同期の連中よりも一年以上早い出世だった。それから約一年後に帰国することになるのだが、彼は次の配属先がこの本店であることを確信していた。

 私立大学の文系を並よりちょっとだけ良いという程度の成績で卒業してこの大手銀行に入るのは、当時としてはいくぶん無理があるように思えたが、それでも海外勤務の辞令を受けたときには、エリートコースへのビザを受け取ったような気分になったものだ。

 それがさらに、同期の中での──特に私大卒の中では──一番出世。彼は次に自分が迎えられるのはこの二十五階建ての本店ビルの中枢を担う部署に間違いないと思って帰国したのだった。


 そしてその通り、彼は今こうしてこのビルで仕事をしている。

 たった一つ、予想と違った点は、迎えられた部署の名前だった。


 彼が自分の新しい仕事場だと信じて疑わなかった部署は、同じこの建物の中でもずっと上の階にある、国際部国際資金管理課のことで、この二階の営業部融資二課ではなかったのだ。

 そして、このたった一つの違いは大きかった。


 ビザが切れたんやな、と萩原はそのとき思った。

 同時にすべての気力の糸も切れた。 五ヶ月後に離婚。大学の四年間をほとんど彼女と過ごすために費やしたと言ってもいい恋女房とだ。

 おまけに最近、日本の仕事のやり方にいまだに馴染めないでいる自分に気づいていた。

 しかもそんな彼の心の葛藤をあざ笑うかのように、先月彼にはまたしても同期組の先陣を切って係長昇格の内定が下された。ここへ来てからの自分のどこを評価されたのかがまったく分からない彼には、この昇進はもはやお笑い種だった。


 いったい俺はこの五年半もの間、何をしてきたんやろう……。


 この本店営業部は立体店舗になっていて、来客の多い預金課と現金自動支払機コーナーは一階にあったので、二階は融資課だけで広々としていて静かだった。フロアでは二十人程度の行員が黙々とデスクに向かって仕事をしている。いつもはどこかで電話が使用され、必ず誰かの話し声がしているのに、今はそれさえも聞こえてこない。そんな中で彼は、遅くなった昼食をどこで食べようか考えていた。


「──萩原、メシどこで食う?」

 同期の山本やまもとがトイレから戻ってきたのか、ハンカチで手を拭きながら隣の椅子に座ってきた。彼は萩原がアメリカから戻ってこの融資課に配属になったのが面白くて仕方がないらしく、何かというと彼に近づいてくる。

「そうやな、給料出たとこやから──ちょっと奮発してもええかな」

「おまえはええよな、独身貴族で。俺はここ三年間、給料日の喜びってもんを知らん。女房が知らん間にカードで引き出しよるんで、気ぃついたら口座には僅かな小遣いだけや」と山本は溜め息をついた。

「俺かて一緒や。給料が振り込まれんのと同時に娘の養育費と車のローンで半分から持って行かれるんやで。何で俺がマンション引き払って実家に戻ったと思う?」

「……立ち入ったこと聞くけど、養育費てなんぼや」

「何や、嫁さんと別れるんか」

 萩原はデスクの書類を片付けながら山本を見た。

「いや、そういうわけやないけど……参考にな」

「聞かん方がええな。いざほんまにそういうことになりそうなとき、思い出したら決心が鈍る」

 そう言って萩原は自分のデスクのすぐ後ろにあるコピー機の前に立つとスイッチを押した。

「……相当持って行かれるんやな」

 山本は独り言とも取れる言い草で呟くと、両手を頭の後ろで組んで椅子に深く身体を預け、何気なく一階へと続く階段に目をやった。

 その視線がそのまま固まる。

「お──おい、見てみろ」

 山本は萩原に向かって手を振りながら小声で囁いた。

「何やねん、今ちょっと手が離されへんのや」

 萩原はコピー機に向かったまま。

「すごい美人が来た」

「おまえが美人やて言うたんで、ほんまにそうやった試しがないぞ」


 けれども、その女性は本当に美人だった。

 階段を上りきったところでしばらく立ち止まり、フロア全体を見渡した後、ゆっくりとした足取りで長いローカウンターに近づいてくる。柿色のダブルのスーツの中にブルーグレイのシャツブラウスを合わせ、短く三連にした真珠のネックレスを着けていた。膝丈ほどのタイトスカートからは足首のしっかりと締まった長い足が伸びている。シャープなラインのパンプスは曇りのない黒だった。髪は自然な栗色で、心地よい大きなウェーヴのセミロングヘアー。形の良い耳でも真珠のピアスが柔らかい光を放っている。はっきりとした二重の切れ長の瞳、理想的な位置に頂点を定めた鼻、輪郭を綺麗に描いた紅い唇が色っぽい。まさにこういう女性のことを絶世の美女と言うのだろうと山本は思っていた。

「あの、ちょっとお訊ねしますが──」

 美人はローカウンターに座っていた女子行員に声を掛けた。

 具体的に想像していたわけではなかったが、そのハスキーな声で語られる綺麗な標準語は、まさに期待通りと言うに相応しかった。

「萩原、おい、萩原って」

「うるさいなあ──あっ、ちくしょ」

 コピー機から今まで順調に流れ出ていた紙がぴたりと止まった。

 萩原はしゃがみ込んで機械の下の部分の蓋を開け、中を覗いて溜め息をついた。

「おまえが後ろからごちゃごちゃ言うからやぞ山本──」

「──萩原さんはいらっしゃいますでしょうか?」

 美人がそう言った瞬間、彼女に向けられていた視線のすべてが萩原に移った。

 萩原はその視線を感じたのか、それとも彼女の言葉が聞き取れたのか、たぶんその両方のせいですぐに振り返った。

麗子れいこかぁ」

 彼は驚きと嬉しさの入り交じった声を上げた。

「やだ豊、いたの」

 絶世の美女は萩原の大学時代の同期である、三上みかみ麗子だったのだ。

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