二人が現場に着いたとき、表の通りにはすでに人垣が出来ていた。

 長さにおいては日本一と言われる商店街のほぼ中間地点。たかだか夫婦間のもめ事でも、そこに救急車とパトカーが乗りつけてはおのずとこの騒ぎになる。

 彼らは人混みを分け入り、立入禁止と書かれた黄色いテープの前に立っている制服警官に軽く頷いた。警官もそれに答え、テープを手で揚げて二人が通りやすいようにした。


 間口の小さなカラオケスナックの、さらに小さなドアを入るとすぐ前に階段があり、その下がカウンターになっていた。

 左側にテーブルが三つ、それぞれ逆さにした椅子を四つずつ乗せている。一番奥に旧型の大きなカラオケシステムが陣取っており、その上の埃を被った小さなミラーボールがなかったら、まるで仏壇のようだ。しかしこの仏壇の前で唱われるのは経ではなく、古くさいに違いないが確かに浮世の流行り歌なのだろう。レパートリーを披露した者に対して振る舞われたらしい紙吹雪とクラッカーの残骸が、踏みつけられて色褪せてしまった絨毯に散っていた。

 刃傷沙汰が起こったのはそこではないらしく、誰もいなかった。

 二人は狭い階段を上った。左側の六畳ほどの部屋が現場だ。

「おう、待っとったで」

 鑑識課の係員たちに混じって刑事が一人先に到着しており、彼らに声を掛けてきた。

「あれ、来てはったんですか」鍋島が言った。

「別件の裏付けでこの前を通り掛かったんや。ほなこの騒ぎやろ。制服に訊いたら、一係うちからはまだ誰も来てへんて言うし、ほなちょっと覗いとこか思てな」

 島崎良樹しまざきよしき、三十三歳。すらりと背が高く、どこか飄々としたその風貌は、刑事というより町役場の職員のような気安さと気軽さを醸し出している。階級は二人と同じ巡査部長だが、もちろん彼らより先輩で、そして刑事課の各班に二人ずついる主任の一人である。

「亭主、病院行ったで。脇腹えぐるように刺されて、えらい出血や。女房も自分で手ェ切って──死のうとしたんかも知れん。一緒に救急車乗せられて行ったわ」

「浮気がバレたって聞きましたけど」芹沢が訊いた。

「らしいな。おまえも気ィつけろよ」と島崎は芹沢を見た。「恨んでるお姉ちゃんがぎょうさんいてるやろ?」

 芹沢はにっと笑って肩をすくめただけで、二人から離れると鑑識作業の行われている部屋の中に入った。

「ほな、俺は行くわ。まだ二、三箇所寄らなあかんとこあるし」

「すいませんでした」と鍋島はぺこりと頭を下げた。「小野おのさんは?」

「早退。女房のお産が遅れてるから、気が気やないらしい」

 島崎は言うと軽く右手を挙げて階段を下りて行った。それを見送りながら小さく溜め息をつくと、鍋島はきびすを返してぶつぶつと独りごちながら部屋に入った。

「……雑魚の事件は若手にお任せってか」


 一通りの実況検分を済ませた後、二人は表通りに出た。野次馬は整理されていた。

「──さてどうする」

 腕時計を見ながら鍋島が言った。「病院行くか」

「病院行ったって喋れる状態かどうか。女房、えらく興奮してたって言うからな。亭主は無理だし」

「メシでも食うか」

 鍋島は疲れたように言うと言葉を身体で表現するかのようにぐるりと首を回した。肩が凝ったときなどにする、ラジオ体操にもあるあの動作だ。

「お嬢さんに会いに行ったっていいぜ」と芹沢が片目をつぶる。

「もうええんや」

 鍋島はむくれたように言い、歩き出した。そしてすぐに真顔に戻ってたったひとこと、ぽつりと、本当に小さな声で呟いた。

「──行かん方がええねん」

 その言葉を聞き漏らさなかった芹沢は、今度はもう茶化すような真似はせずに鍋島の後ろを歩いた。思わずそう言ってしまった彼の真意を、自分はよく分かっているつもりだったからだ。


 そして鍋島が、向かいの路地で幽霊のように茫然と立ち尽くし、ぼんやりとこっちを見ている一人の少年に気づいたのは、そのすぐ後のことだった。

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