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「何が?」
「あいつがウジウジよう決められんで、なおかつおまえに気兼ねしてるから真澄ちゃんとのことが前に進まへんのやて──本気でそんなこと思てるんかってことや」
麗子は一点の曇りもない真っ直ぐな瞳でじっと萩原を見つめていたが、やがてすっと滑らせるようにその視線を逸らし、相変わらず強気な口調で続けた。
「だからさっき、あたしがアメリカに逃げちゃうみたいなこと言ったのね」
「ああ」
「勝也はあたしのこと親友だと思ってるわ。あたしもそう思ってるし」
「なら何で黙ってアメリカに行く? 俺には身を退いてるようにしか見えへんな。せやないって言い張るんやったら、あいつにもちゃんと言うて行けよ」
「ええ、それでもいいわよ。でも、そうしたら勝也はきっと何もしないでしょうね。自分と真澄の両方をよく知るあたしがいないあいだに話を決めちゃいけないと思うのよ、変なところで義理堅いヤツだから。留守を見計らったと思われたくもないだろうし。決めたくても決められなくなっちゃうのよ」
「決める気がないんやろ」
「違うわ。豊、あんた何も分かってないわよ、勝也のこと」
「麗子には分かるんか」
「分かるわ」
「好きやから?」
苛立ちをぐっと押さえるように、麗子は一つ溜め息をついた。
「ええそうね、好きよ。親友として。ついでに言うとあんたのこともね」
「怒るなよ。分かったから」
萩原は呆れたように言うとふんと鼻を一つ鳴らし、食べる手を休めて麗子をじっと見た。
「ほな訊くけど、何で俺にはわざわざ言いに来たんや? 帰るってこと」
「それは──」
「分かっといて欲しいんやろ。もし鍋島がおまえのいてへんあいだにその真澄って従妹とくっついたとしても、おまえにとっては別に意外でも何でもなく、ちゃんと承知してたことなんやって。哀しいどころか、むしろ望んでたことやって、麗子はそう言うてたでって、そのことを誰か一人くらいには──俺なんか最適やな──知っといてもらう必要があるんやろ」
「どうして?」
「乗り越えられるからや。先にそういう既成事実を作っといた方が。俺の手前、無理してでも笑おうとするやろ」
図星を突かれてもはや身動きが取れなくなったのか、それとも親友の見事な思い込みに感心したのか、麗子はふーんと頷きながら形式的な笑みを浮かべた。
「あたしのこと、すっかり分かってるつもりのようね」
「こと鍋島に対する気持ちに限ってはな」と萩原は頷いた。「親友やから、分かるんや」
「そう言ってくれて嬉しいけど、とにかく豊は勘違いしてるわ」
麗子は言うと食事を終えた。「まあいいか。分からないなら、それでも」
「俺の方こそどっちでもええ話や、自分らで決めたらええことやと思てたからな。今までずっと何も言わへんかったのもそのためやし。ただ、こうやっておまえがいつになく思わせぶりなこと言うて来たから、俺もこの機会に思てること言うたまでのことや」
萩原はいくぶん強い剣幕で言った。これには麗子も戸惑ったようだった。
「──気を悪くさせたのなら謝るわ」
「気にすんな。ただ、これだけは言うとくけど、他にどうしても帰らなあかん用事がないのんやったら、とにかくやめとけって。せやないときっと後で後悔するぞ。別におまえが鍋島のことどうこう思ってるからって言うんやない。ヘタな小細工は するなって、それを言いたいんや。おまえが気ィ回して姿を消したってことを、もし後であいつに知れるようなことがあったら──誤解すんなよ、俺が喋るってことやないぞ──分かるやろ? あいつがどう思うかってこと」
「うん」
「だいいち、あいつの病気は麗子がちょっと気ィ回してやったぐらいでは治らんて」と言いながら萩原は小さく首を振った。「あれこれお膳立てしたところで結局は疲れるだけやってこと、俺ら、嫌と言うほど思い知らされてるやろ?」
「そうね」
「なら放っとけ。あいつかてええ大人や、学生の頃とは違う。ほんまにその彼女のこと想てるんなら、ちゃんと行動するって。麗子が泣いて止めたって、もうあかんで」
萩原はそう言うと麗子をじっと見た。「しつこいようやけど、そのときになって気がついたって遅いぞ。自分があいつのことどう思てたかってこと」
「分かってるわよ」
「ほんまにそうか?」
「ほんま」
麗子がおどけたように答えて、そこのその話は終わった。
その頃になると、客は萩原と麗子の二人だけになっており、店内はすっかり落ち着きを取り戻していた。
「──ねえあたし、一度豊に訊きたいと思ってたことがあるんだけど」
「今度は何や」と萩原は左手に持ったスプーンを動かしながら言った。
「どうして
萩原はやっぱりそのことか、と納得したように頷き、それからちょっと笑って言った。
「おまえ、ほんまに遠慮もクソもない訊き方するなあ」
「お互いさまよ」と麗子は肩をすくめた。「驚いたわよ。確か一時帰国した時よ。勝也から『萩原が離婚した』って聞かされて……どう言う意味だか、すぐには分からなかったわ」
「麗子はずっとドイツやったもんな。俺と智子がもめてたときは」
「何があったの?」
萩原はスプーンに山盛りのカレーをすくっては口に運んだ。麗子はじっとそれを見ていた。
「──大学の四年間、俺と智子はお互いの顔を見ぃひん日なんてなかったな」
「そうよ。ゼミの誰もが──教授だって知ってるお似合いの二人だったじゃない」
「卒業直前の冬にあいつのお腹に
「だったらなぜ──」
「せやろ。実は、これといった理由なんてないんや」
萩原は麗子を見た。「きっかけは俺のアメリカ行きやったのかも知れん。でもな。それが原因とは違う」
「あたし、今でも信じられないっていうのが本当のところなのよ」
「たぶん俺らは──少なくとも俺の方は──一生のうちにあいつに注ぐ愛情のすべてを、八年間で使い果たしてしもたのかも知れんな」
「またカッコつけちゃって」と麗子は困ったように笑った。
萩原も少し情けなさそうに微笑むと、最後の一口を頬張って水を飲んだ。
「豊」
「うん?」
「後悔してるんじゃないの?」
「何で?」
「そう見えるわ」
「後悔はしてないよ」と萩原は首を振った。「ただ──夫婦として最後にあいつに会うた
とき、言われた言葉が──その──今でもちょっとこたえてることは確かや」
「分かったわ。そういうことならもう訊かない」
麗子は視線を落として食べ残しのサラダをつついた。
「別れ際にひとこと──」
「言わなくてもいいって」
「──『クズよ、あんたは』ってな」萩原は苦笑した。
麗子は呆れたような表情で萩原を見た。そして小さく首を振り、またすぐに俯いた。
「……あの智子ちゃんがそんな風に言うなんて」
「俺のせいや」
萩原はぽつんと呟いた。
「ええ。そうみたいね」
麗子は眉の間に皺を寄せて言うと、悔しそうに窓の外の銀杏並木を眺めた。
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