その取調室には、静かだがどこか不気味で危なげな空気が、さっきから徐々にではあるが流れ始めていた。


 浅黒く、痩けた頬に無精髭をたたえ、細長い顔に不釣り合いな大きい目をギラギラと血走らせている二十歳前後の男と、その向かい側に座った、男より五、六歳年上の私服刑事。二人の間では、一時間も前から禅問答のような会話が、決して弾むことなく繰り返されていた。

 刑事の後ろ、出入り口脇のデスクには大柄の若い制服警官。二人に背を向けたままそのやりとりを聞き漏らすまいと耳をそばだてている。三人は揃って、いい加減この状況にうんざりしていた。


「──なあ、もうええんとちゃうんか」

 男は言った。三人の間で、久しぶりに発せられた言葉だった。そして男は額を机に擦り付けるように項垂れると、大きく溜め息をつく。

「まだだ」

 刑事は答えた。頬杖を突いたままの生返事は、本心との明らかな隔絶を表していた。糊の利いたワイシャツの袖口を捲り上げ、無造作にネクタイを緩めている。そして不満げに眉根を寄せて目の前の男を見ている顔からは、すっかり精気が失せてはいたが、それでも確かに整っていた。

「おまえがあのナオって男の腹を刺した本当の理由、それをまだ聞かせてもらってないぜ」

「せやから、女のことバカにされてカッとなったんやて、さっきからずっと言うてるやろ」

「そんな戯言たわごとを聞きたいんじゃねえって、こっちもさっきから言ってるだろ」

「あんたにとっては戯言かも知れんけど、俺にはちごたんや。ナオのドアホ、俺が尻軽女とつき合うてるようなこと、そこらに言い触らしやがって──」

「おまえのそう言う話を戯言だって言ってんだよ、こっちは」

 刑事は男の話を遮ると身を乗り出した。「てめえがあの男からヤバいクスリを仕入れてたってことは、路地裏の野良猫だって知ってる話だぜ。それをひっかけ橋のガキどもに売るんだろ?」

「何やそれ」

 男はふんと鼻を鳴らして言うと顔を上げ、頭を掻いた。

「ああ、腹減った」

「ところが昨日突然、奴はおまえと手を切るって言い出した。他にいい相棒が出来たからさ。とうてい承知できねえおまえは奴を思いとどまらせようと説得にかかったが、野郎は耳を貸そうともしねえ。で、おまえはナイフにものを言わせたってわけだ」

「想像力豊かな刑事やな。クスリのことなんか、俺は何も知らんで」

「じゃあおまえの部屋から出てきたあの大量の睡眠薬は何だ。てめえで使うためだってか」

「そうや」

「嘘つけ」

「知らんと言うたら、知らんのや」

 刑事は沸々と込み上げてくる苛立ちを極力抑えようと努力しながらゆっくりと言った。

「……なあ、兄ちゃん。いつまで駄々こねるつもりか知らねえが、ナオが喋ったらそれで終わりなんだぜ。それくらいは分かるだろ、その脳味噌垂れ流しの頭でもよ」

「ほな、さっさとナオに訊いたれや」

 刑事はふうっと溜め息をついた。刺された被害者への事情聴取は、まだ医者の許可が出ていない。それを見越してか、男はにやにや笑って言った。

「乗せられへんで。汚いポリの言うことなんかに」

 制服警官が振り返って、厳しい眼差しを男に向けた。それを横目で見ながら刑事も怒りをのみ込んだ。

 男は舐めるような上目遣いで刑事を見た。明らかに優位に立つ者の取る態度を露骨に表そうとしているつもりらしかった。

 しかし、彼にとっての悲劇はそこに始まった。刑事を誤解しているのだった。

 そして彼は大仰に肩をすくめると、椅子にもたれて言った。

「せやけどまあ、そっちの態度によっては協力せんこともないで」

「へえ、どういうことだ」

「まず、そのをやめろ」

 思いもよらない言葉だったらしく、刑事は目を細めて男を見た。何だって? と言うときの表情だ。そしてその眼の奥に‟我慢の限界”が現れたのにまったく気づいていない男はまたもにやにや笑い、顔を突き出すと続けた。

「鼻につくんや、俺の高ーい鼻に。『郷に入れば郷に従え』ってコトワザ、あんたも知ってるやろ? ここは大阪やで」

「そうかい。鼻につくかい──」

 刑事はこれで最後と決めた笑顔を浮かべるとゆっくりと腰を浮かし、突然男の胸倉を掴んだ。そしてデスク越しに強引に自分の前に引き寄せるや、その鼻っ柱を真正面から殴った。男が抵抗する間もないほどの、素早い一撃だった。

「うぐっ……!」

 男は短く呻いて両手で鼻を押さえた。たちまち指の間から血が流れた。

「どうだ、ちったあ低くなったろ」

「ち、ち、血が──」

「拭いてやるよ」

 刑事は制服警官のデスクにあったレポート用紙の数枚を切り離して、男の口許を押さえた。そしてそのまま頬を両側から掴み、締め上げるように左右に振った。

「いでででで……!」

 男が悲鳴を上げると、刑事はさらに手に力を入れた。

「辛抱しろ。予防注射打たれてるガキじゃねえんだからよ」

「じゅ、巡査部長──」

「止めるなよ」

 立ち上がる制服警官に刑事は男を睨みつけたまま言った。「止めたら次はだ」

 制服警官はすぐに腰を下ろした。

 刑事は男の顔を掴んだまま、最後の警告とばかりに低い声で詰め寄った。

「どうするよ。これ以上ふざけると、鼻血だけじゃ済まなくなるぜ」

「……わ、分かった」

「認めるんだな。おまえらがクスリの売り買いしてたってこと」

「あ……ああ」

「あのナオって死に損ないがどこの組織と繋がってるのかも、全部喋れよ」

「それは──」

 男が首を振ろうとすると、刑事は空いた方の手も彼の顔に添えてそれを止め、力を込めた。

「鼻の穴を一つにして欲しいのかよ?」

「……言うよ」

「そうこなきゃな」

 刑事は小さく笑って男を突き飛ばした。そして落ちるようにして椅子に座り込んだその姿を一度じっと見下ろしてから自分も腰を下ろした。

「ちったあ脳味噌が残ってるじゃねえか」

「くそっ……」男は諦めがちに言うと血の混じった唾を床に吐いた。

「教えといてやるけどよ。てめえがさっき言った諺な、あれこそまさに、ここでの唯一無二のルールだってわけさ」

 殴った方の手首を回しながら刑事は言った。


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