第一章 Autumn Leaves


 また欠伸が出た。

 まるで春先のようなこの陽気。こうして長い間、正午の光を一面に浴び、出来立ての五百円玉のように輝く机に向かっていると、昼食を前にした空きっ腹を抱えているにも拘わらず、眠気がじわじわと忍び寄ってくる。昨日も帰宅が深夜になり、布団に入ったのは夜中の二時だった。相も変わらず気違いじみた騒音の渦巻く部屋だったが、今なら眠るのに何の支障にもならないだろう。


 頬杖を突いてすぐそばの窓の外を眺めた。視線を遮るように横たわる高速道路では、どこまでも連なる車に反射する陽の光が眩しく、その下を流れる河にまでこぼれて見える。


 ──十月か。十月というのも悪くはないな──


鍋島なべしま、報告書はどうなった?」

「えっ──今、書いてるとこです」

 彼は目尻の涙を拭いながら振り返った。

「眠たいか」相手は苦い笑いを浮かべた。

「え、いえ」

「ゴロツキの喧嘩やろ。そんなもんの報告書ぐらいさっさと書け」

「はあ。でもいろいろ余罪があるもんで」

「とりあえず先に喧嘩の分を出せと言うてるんや」

 そう言うと相手は手許の書類に視線を戻し、「まったく……何年刑事をやってる」と吐き捨てた。

 彼の上司であるこの刑事課長は、年齢は四十を過ぎたばかりだがその割には中年肥りの進行が激しく、立ち上がって歩き回る様子を彼はあまり見たことがなかった。

 階級は所轄署の課長としてはごく一般的な警部で、しかしながら年齢的には比較的早い出世と言えた。

 何とでも言うてくれ、と彼は心の中で呟いた。どうせお互い宮仕えの身、そのうちどっちかが異動になってそれまでや。

「どうぞ」

 庶務を担当している婦人警官がデスクにコーヒーを置いてくれた。

「あ──ありがとう」

 濃いめにれてありますから、と婦警は瑞々しい笑顔で言い、甘い微かな香りを彼の鼻先に残して立ち去った。

 ありがたくコーヒーを頂戴した。いつもより『濃いめ』のはずのそれは、かろうじてアメリカンから脱却した程度の代物だった。淹れてくれた彼女が悪いわけではない。造幣局の桜見物と天神祭の折の交通整理のためだけに存在しているのだなどと陰口を叩かれているような一所轄署の予算では、この程度の味しか望めないのは分かっていた。


 部屋はいつものようにならず者の集会場と化していた。

 部屋の住人とも言うべき、一係から四係までの三十六人の捜査員のうち、今は十人足らずしか残っていないのに、その彼らが相手にしている連中は軽くその倍はいた。中でも、盗み専門の三係のデスクが一番賑わっており、宝石にせよ車にせよ下着にせよ、何かしら他人様の持ち物を黙って拝借してその場から立ち去ったらしい横着者が五人もいた。

 次に暴力団関係の四係、それから強行犯担当の一係と続き、知能犯罪専門の二係のデスクには刑事が二人いるだけだった。

 時計の針は正午を少し過ぎた時刻を指していて、一日の長い刑事部屋としてはまだその半分も過ぎていない、第一コーナーを回ったばかりの序盤戦まっただなかというところだ。


 彼はパソコン画面に表示された報告書を眺めて溜め息をついた。その続きにまた欠伸が出てくる。眠い。眠いけど腹が減った。腹が減っているけど眠い……。

「鍋島!」

「は、はい、やってますよ」

 心の中を見透かされたようで少し焦った。

「……電話や。二番」課長は完全に怒っていた。「野々村ののむらっていう女性」

 何でやねん、と彼は舌打ちした。課長に対してではない。電話の相手に対してだ。

 受話器を上げたまま憮然と自分を見つめる課長に「どうも」と造り笑顔を見せ、彼は目の前の電話を取って二番のボタンを押した。

 押すや否や、課長にくるりと背を向けて、

「──もしもし? 何やねん」と小声で囁いた。

《──あれ、ごめん、悪かった?》

 屈託のない、明るい声だった。

《取り込み中? 課長さんはそうは言うてはらへんかったけど》

「ここはいつでも取り込み中や。平和な警察なんてどこにある」

かっちゃんも早くケータイ持ってよ。『鍋島さん』なんて言うの、笑てしまうもん。いまどきケータイ持ってへんなんて、天然記念物モノよ》

「何がおもろいねん」

《いつもそんな言い方せぇへんもん》

「……まあええか」と彼は鼻で息を吐いた。「ほんで、何の用や」

梅田うめだに来てんの。お昼一緒してよ》

「──あのなあ、何で大阪に来たんか知らんけど──」

《お華の展覧会》

「こっちは仕事中や。何でそっちにつき合わんとあかん?」

《お昼も食べへんの? 刑事って》

「食うけど」

《ほなええやん。ね、ほら──の彼も一緒に》

「あいつは今取り込み中」

 そう言って彼は廊下を挟んだ向かいにある取調室のドアの一つを見た。そう言えば長い間、相棒はあの部屋から出てこない。

《それやったらなおさら、勝ちゃんひとりで暇にしてるんと違うの? ね、ヒルトンプラザのティールームで待ってるし、来てよ》

「俺に出向いてこいって言うんか?」

 やれやれ、お嬢様は違うなと思った。「こっちは仕事中やぞ。忙しいねん」

 その言葉に反応したのは課長だった。片眉を上げ、上目遣いでこっちを見ている。忙しいやと? おまえのどこが忙しいんや? 自覚があるんやったら、さっさと報告書を書かんかい──そう言いたいんでしょ、課長さん。

《──勝ちゃん、聞いてる?》

「──え? ああ、うん」

 彼は電話に戻った。そして、普段の彼女への接し方と比べると少し冷たいと思われるかも知れないなと思いながらも、彼は幾分突き放すような口調で言った。

「けどとにかく、今はあかんのや。朝からいろいろあって。悪いけど、また次の機会にしてくれるか」

 そう言えばもう、彼女には効果てき面だった。彼女は明るかった声をたちまち沈ませて、「……そう」とだけ言った。

「悪いな」

《ううん、急に誘ったこっちが悪いんやし。また今度にするわ》

「そんときは前もって連絡してこいよ」

《うん、そうする。──邪魔してごめんね》

「いや。ほなまた」

 彼は受話器を置いた。両手を顔の前で組み合わせると、大きく息を吐いて独り言を呟いた。

「……ここは厳しく行かんと」

「そのとおりや、鍋島」

 課長がデスクからつっこんできた。振り返ると、上司はその太い眉の間に憤懣と諦めの両方をたたえて彼を睨みつけ、押し込むように言った。

天三てんさんで傷害。亭主が嫁はんに半殺しの目に遭うとる。すぐ行け」


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