溢れる文字、冷めぬ興奮
扉を開け、電気をつける。自宅に帰ってきたはずなのに、現実に引き戻されたように寂しさを感じた。それほど、この数日間が楽しかったんだ。僕は改めて自覚する。
部屋は冷たく、以前から変わりない、一人暮らしの男子大学生の部屋が広がっていた。味気ないキッチン。衣服の積まれた洗濯カゴ。散乱した雑誌。とりあえず、リビングの電気をつけ、暖房を入れる。キッチンに戻ると、蛇口から赤いホーローポットに水を注ぎ、火にかけた。慣れた手つきで、コーヒーカップにドリップパックを重ねる。
大学生になってから、昼と夜の境目が曖昧になった。高校生の頃は、勉強時間と睡眠時間の按分を考慮し、この時間までに寝よう。これより先は夜中だ。という、夜の概念があった。しかし、今となっては、夜に浅いも深いもなくなってしまった。
湯けむりの登るカップを手にリビングに戻る。こたつには、ノートパソコン。ペンとメモ帳。そして、行動を共にしたスマートフォンを並べた。こたつに体を忍ばせ、パソコンを立ちあげた。
ゆっくりと彼女と過ごした時間を呼び覚ましていく。りさちゃんのおばあちゃんが僕らに見せた一冊の古書。アースナルドの古文書。現地で見て気づいたことを書き出していく。
まず、装丁。サイズはよく見る大学ノートと同じでおおよそA4サイズ。少し古ぼけているけれど、しっかりとした作りの表紙で、表紙には刺繍で何かの草花がデザインされている。その草花ははタイトルの記載されたプレートを支えるようにまとわりついていた。プレートには、アルファベッドで書かれた、アースナルドの文字が、古い刻印文字で彫り込まれていた。
次に中身。紙はさらりとしていたが厚めで、上質さを感じさせる。文字の並びは横書きで、筆記体ではないが、丁寧な手書きで書かれている。各ページには、多い時には四百文字、少ない時でも二百文字程度文字が記述され、ひらがなとアルファベッドが不規則に連なっていた。加えて、英語のように、文字列に空白がないことから、どこからどこまでが単語なのか、その境界推定を難しくさせている。
見開きの左右のページを見比べると、左右で文字の書き癖が異なっていることから、書いている人物が左右で違うようだ。他のページの写真も確認したが、同様に左右のページで記述者が異なる。
ここまでの情報をノートに書き出しながら、改めてスマートフォンの写真を見つめていく。他に明らかなのは、図表がないこと。そして、各ページの左上に日付らしき数字が書かれてことだ。
日付ごとに記載されており、二人で書いているのだとすると交換日記かもしれない。それにしてはこんなしっかりとした装丁の本で交換日記をするのだろうか。そこには疑問が残る。
加えて、流れた文字列には日本語で言うところの句読点。英語で言うところのカンマやピリオドが見当たらなかった。これがあるだけでも、文末に出現しやすい文字から、その文字が英語や日本語でどの単語にあたるのかを推測することができるのだが、句読点がないためそれを不可能にしている。さらに、ひらがなには濁点、半濁点がついた文字が一文字も見当たらなかった。古文書のすべてのページに目を通したわけではないが、これに関しても何かヒントになるかもしれない。
とりあえず、アルファベッドとひらがなが使われていることから、暗号化された言語は英語、または日本語と仮定をし、解読作業を進めることにした。まずは、単純だが、声に出して文字列を読み上げていくことにした。ひらがな、アルファベッド、ひらがな、ひらがな。読み上げてみても、知っているような単語になっている文字の並びはない。やはり、暗号化されているのは間違いないだろう。
昔の書籍ということで、古典的な暗号ではないかと考えた僕は、ノートパソコンで暗号について調べてみることにした。検索をすると、簡単な暗号として、置き換えか並び替えをベースとした暗号が引っかかった。
置き換え方式の一つとして、ウィジュネル方陣と呼ばれる暗号形式があった。まず、アルファベッドを縦横に一直線に並べ、26×26 の格子に順番に並べることで、ひとつずつ文字をずらした方陣を作る。次に、これを用い、暗号化したい文字を、対応する位置のアルファベッドに置き換える。この方式は、昔からよく知られている。
仮に、これをアルファベッドとひらがなを用いた方陣に拡張した場合、72×72の格子ができる。しかしながら、これを活用して文字列を暗号化するとしたら、その場で暗号化するには、巨大な方陣を記載した紙を用意したり、紙がなければ、膨大な暗号対応を覚える必要があり、毎日その方陣を使ってこれだけの文字数を書くのは時間の手間がかかりすぎるため、あまり現実的ではないのではないだろうか。
次に、二文字を一文字に置き換える方式。これも、対応表さえあれば、簡単にできる。そうであるならば、高頻度で出現する二文字の並びを記録したのち、各言語で、使われる頻度の高いひらがなやアルファベッドで当てはめていけば、解き明かすことが可能だ。試しに、見開き分の文字を眺めてみる。残念ながら、頻出する二文字の並びがあるようには見えない。つまりこの方式ではなく、何らかの変換方法により、一文字を一文字に変換させている可能性が高いと思われる。
他の記事や暗号について解説されたホームページなどを参考にしながら、解読のヒントになりそうな箇所を調べていく。各ページの先頭には規則性はなく、ざっと見た感じ、出現する文字も均一のようだった。ただし、数ページの写真からだけなので、英語の文へと変換されているのであれば、SVO形式であることがほとんどなので、主語の頭文字を指す文字が頻出する、といった規則性はあるかもしれないが、同じ文字列はないことから、変換先は日本語。もしくは日本語のように語順に寛容な言語であるかもしれない。
日本語や英語の言語学についてまでは詳しくないため、この辺りが情報や方法の頭出しの限界だろう。
少なくともわかることは、二人が一日ずつ、交互に暗号化した文を記載でき、やりとりができる程度の難易度の暗号であり、連絡に必要十分な情報を暗号化できる暗号であるということだ。しかし、自分の知識で調べた方法でそのまま適用できそうな解法では、まだ暗号解決の糸口にすらたどり着けていない。
ふいに、喉の渇きを覚える。コピー用紙に目を向けていた額をあげると、かけていた音楽が消えていることに気づいた。人間は本当に集中しているとき、聴覚を遮断するのだと知る。
ぬるくなった紅茶をひとくち口含み、時計を見る。もうすぐ日を跨ごうとしていた。明日はレヴィーに招待されたパーティーもあるし、頃合いをみて寝なければならないな、そうは思っている。思っているが、これではすっきりないので、眠れないだろう。もう少しだけ。僕は再びペンを動かす。
書けば書くほど、分からなくなる。
たくさんの文字で埋め尽くされたコピー用紙がテーブルを埋め尽くす。
それでも書いては調べ、仮説検証を続ける。
たまたまうまくいったかのような対応表は、別の単語では崩れてしまう。
それでも書いては調べ、仮説検証を続ける。
これほど夢中になったのはいつ以来だろう。
小さい頃、目の前に広がったボーディングブリッチの壁面のことを再び思い出す。様々な見たこともない文字。あの頃は、文字を調べることがあんなにも楽しく、新鮮だったのに、大学生となった今では、作業。面白みもなかった。それがいま、再び、何か興奮の波となって押し寄せようとしている。
日本語から他の言語の単語への写像を学び、文脈を学び、次第に、言語の翻訳をせずとも英語を喋れるようになるにつれて、失われた何か。今や、文字種を見るだけで、ある程度の語族が推測できるようになってしまったことで、失われた何か。
それが目の前に広がっている。
次にペンを動かす音を自覚した時には、時計の長針が上から下へジャンプしていた。時間が経つのは早いな、いやもう少し。次に見た時計の長針は、下から上へとジャンプしている。まるで、時間をスキップする能力を手に入れたかのように、時間の流れがとてつもなく早かった。
読める文字、なのに、読めない、理解できない、と言う興奮。
も解くことができれば、この世界でこの本を読むことのできるのは、僕一人だけかもしれない、という興奮
。
もしかしたら、自分が目にしているのは、この街を大きく解き明かすかもしれない書物かもしれない、という興奮。
深夜のテンションも相まって、無駄に壮大なイメージが僕の脳裏に沸き起こってくる。
そして、その興奮は思考は暴走させ、文字の羅列を解くことではなく、この文字に刻まれた内容を妄想するようになっていった。その、現実を超えた先のイマジネーションは夢への入り口となり、ぽかぽかと暖かいコタツの魔力も相まって視界をとろけさせていったのだった。
けたたましい目覚まし時計の音が耳を刺す。視界が黒い。額をあげる。ラッキーなことに、いつもセットしている起床時間のアラームが鳴ったため、寝坊せずに済んだようだ。まだ、"朝”と呼ぶことができる時間に目を覚ますことができた。
それにしても、体は痛いし、寝汗がすごい。コタツのテーブルに突っ伏してしまっていたことを後悔する。顔を洗いに行こう。寒さに打ち勝ってコタツを脱出し、洗面所に向かった。
洗面台に映る自分の顔は、それは悲惨なものだった。テーブルと接触していた頬は赤く潰れ、ボールペンのインクが顔に斜線を引いている。さらに極め付けは、ライオンのように跳ね上がった髪の毛だ。これを化け物と呼ばず、何を化け物と呼ぶのだろう。僕はおとなしくシャワールームの扉を開いた。
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