ひとりじゃないということ。
赤煉瓦の敷かれた敷地内を進み、特徴的な白一色の壁面の建物へ歩いていく。彼女に言われるがまま、僕らがやってきたのは、教会だった。見上げると、丸窓の上には十字架が掲げられ、鐘を内包した尖塔が聳えていた。
「拓郎は教会、来たことある?」
レヴィーは僕に向き直って尋ねた。
「ないよ。初めて」
「じゃあ、いい機会ね」
「部外者が入ってもいいの?」
自覚のない、自称無宗教の自分であっても、よその宗教の土地に入るという行為は、相手に無礼がないかと気が引きしまる。
「出入りは自由だから大丈夫。さ、いきましょ」
僕は手を引かれ、木製のドアを押し開いた。
最初に抱いた感情は、優しさ、だった。厳かな雰囲気の室内は、質量のある澄んだ空気で満ちていた。人の宗教を土足で入っていくような不安感があったはずなのに、入った途端、優しく受け入れられたように感じられる。それほどに、穏やかで洗練されている。天井は高く、祭壇へと続く、まっすぐな身廊には赤い絨毯がひかれている。上部の窓は色あざやかなステンドグラスがはめ込まれており、主神や天使達が夕陽に照らされていた。
録音であろう、パイプオルガンの音色がどこからともなく鳴り響いていた。絨毯を中心に、左右対称の木製の長椅子には、何名かが座っており、祈りを捧げる者、聖書と向き合う者。それぞれが神との、もしくは自分自身との心の対話に没入していた。初めて生で見るその神々しさに、僕は言葉を失った。
「さ、この辺に座りましょ」
レヴィーに連れられ、僕らは左後ろの長椅子に座った。彼女は長机の引き出しをまさぐるために、かがんで手を伸ばすと、中から聖書らしき分厚い書籍が出てきた。ページを確認しながら、パラパラと書籍に目を通すレヴィーに僕は声をかける。
「レヴィーはよく来るの?」
「週に一回は必ず。たまにミサにも出るわ」
「一人で?」
「そうね。昔はパパやママと来ていたけど、今は一人で来ることが多いわ。ここに来るときは、一人の方が落ち着くの」
そう言うと彼女は本を置き、姿勢を正して祭壇に向き直った。呼吸。大きく吸い込まれた息が、再び大きく吐き出されると、視線をそのままに十字を切り、祈りを捧げた。
雲間が切れたのだろう。左右上方のステングラスから淡い夕陽が教会内へと降り注いていく。徐々に室内を照らしていくなかで、彼女にもそのオレンジ色の柔らかな光が注ぎ込んだ。淡くきらめく彼女の横顔。瞳を閉じ、柔らかく頰を結んだ表情。優しく握られた、小さなてのひら。これほど美しいと感じられるものを僕はこれまで見たことがなかった。
我にかえる。自分も祈ろう。そう思ったはいいものの、作法を知らない僕は、同じく目を閉じ、祭壇に向かって手を合わせた。
「それって、神社じゃない」
片目で僕に視線を送りながら、レヴィーはくすりと笑った。
「やり方がわからないんだ。中途半端に真似するぐらいなら、僕なりの敬意を持ったやり方で祈ったほうがいいかと思って」
日本式の。それこそが、八百万の神を有し、宗教にある意味では寛容な、日本人らしい発想だったのかもしれない。そんな僕の様子を見て、レヴィーは空笑いする。
「かえって変よ。むしろ、良くないと思うわ」
そうだよな、と僕も思う。下手したら、喧嘩を売っているとも取られかねないのだ。僕は彼女に尋ねた。
「そ、そうだよね。教えてもらってもいい?」
「ええ。もちろん。こうやるの」
彼女は、もう一度十字の切り方や、つぶやく言葉をレクチャーしてくれた。
「さ、やってみて」
「うん」
僕はそれを真似、改めて祈る。言葉はたどたどしいし、ましてや異国の言葉での祈りであるが、果たしてうまく届けることはできただろうか。力を抜きつつ、祈りの姿勢をとったまま、僕はしばらく祭壇を、その先のステンドグラスを見つめた。
大きく深呼吸をし、姿勢を少し崩す。心が洗われたような、疲れたような、不思議な感覚だった。後者は単に慣れないことをしたからだろう。そんな、僕の祈りの終了を確認したレヴィーは僕に向き直り、一言投げかけた。
「なんで祈るのだと思う?」
「なんで、祈る、か。難しい質問だね」
日本人のように、願うのではなく、祈る、という表現を彼女は使った。それは、幼い彼女が、祈るという行為そのものが、まだ理解できていないからなのか、それとも、願うと祈る、その表現を同一視しているからなのか、僕にはわからなかった。
「日本人も、よくするじゃない」
「そうだね。確かに、日本人は神社とかでお願いとかはするね」
「ええ」
「日本人的には、神様、仏様とかにお願いすることで、願いを叶えてもらったり、もしくは自分で叶えることを見守ってもらおうとしているね。そうやって、いつか、今の苦しみや状況が救われることを願っているんだと思う。ただ、これだと、レヴィーの言った祈る、という言葉より、願うという言葉として答えたことになっちゃうかもね。祈る、ということを普通の日本人はしないのかもしれない」
一般的な日本人である自分も、今回のような特別なことがない限り、年末年始の神社仏閣での参拝は、自分の願いが叶うよう、心で言葉を口にするばかりで、祈りということをしてこなかった。
「そうね。日本人は、祈るって言わないかも」
「だいたいの人は、お願いをするって言うかもね」
「じゃあ、どのくらい願えば、救われると思う?」
その表情は、深刻なものではなく、純粋に僕の意見を、日本人の意見を知りたいというように、好奇心に満ちていた。
「日本人みたいに都合のいい時、例えば年末年始や旅行先で観光に来た時にだけ願うっていうのは、救われることは滅多にないんじゃないかなって思ってる。そうだね、御百度参りなんて、言葉があるくらいだから。百回ぐらいは願わないと救われないんじゃないかな」
「百回ね。百回か」
納得がいったような、言ってないような、自問自答を彼女はしている。
「逆にさ、レヴィーは何で祈るんだと思う?」
僕も、純粋に、他宗教の人間が祈る目的、いや、彼女が祈る目的を知りたくなった。
「そうね」
彼女は、一呼吸分、考える仕草をし、こう答えた。
「祈りって、ひとりじゃないということを知る為なのだとおもうの」
「ひとりじゃない?」
「祈るっていうことは祈る先があるってことでしょ。普通の人なら神様かもしれない。つまり、誰かのことを思うということでしょ。ひとりじゃ、祈ることはできないってことじゃない。逆を返せば、自分のなかに、誰かを宿すということだと思う。それが、たまたまこの世界を導いたとされる神様だったから、こうして教会で祈るわけ。
わたしがもし、神様以上に祈りたい人がいるなら、その人に祈ると思うよ。あんまりこういう言い方をするのは良くないことだとわかっているけれど、人の方が、間違いなく実在するからね」
あまりに考えがしっかりしていて、普段とのギャップに少し目が眩んだ。僕なんかより、ちゃんと祈る理由を持ち得ているじゃないか。どう答えをかえすべきか悩んだ僕は、別の視点から質問をしてみる。
「もっと大きなものには祈ったりしないの? 例えば、世界や国の平和とか」
「どれだけ大きなものに祈ったとしても、最終的には人に行き着くのよ。平和な世界になりますようにと願うけれど、最終的に平和にできるのは人間なわけだし」
「なるほどね。人に祈る。言われてみれば、そうかもしれないね。僕らは一人じゃない」
「それに、この街は不思議なのよ。いろんな宗教、神様がこの街にいるのよ。でも、喧嘩はしてない。
そして、たくさんの人が、たくさんの神様や人に祈っているの。それってすごいことだと思う」
意識していなかったが、言われてみれば、この街にはいろんな宗教が生きていた。神社。寺。教会。モスク。そして、様々な衣装に身を待とう人々。この、神間という街の中で様々な神、そして人々が共生し、街を構成している。
「私ね、思うの。神間って街の名前は、神様たちの間にできた街、なんじゃないかって」
神様たちの間にできた街、か。なんだか、たくさんのものに見守ってもらえているみたいでいいな。僕は思う。
「そう言われれば、そう思えて来るね。素敵な考え方だね」
「だからこそね。たくさんの人が、たくさん祝福される街であってほしいな」
そう話す少女の笑みは、宝石のようにきらきらと光を反射させる。
「わたしね、日本人じゃないけれど、この街が生まれ故郷なの。だから、この街が好き。わたしにとってのすべて。だから、この街でこれから大人になっていくんだと思う」
祈りのあとの夕暮れは輝きに満ちていた。教会を出る頃には、街にはほのかに明かりが灯り、街全体が温かく包まれているように感じられた。観光客や住人が輝く大通りを流れていく。
「ひとりじゃないことを知る、か」
ふいに、彼女の言葉が口から出る。昼間には思いもしなかったけれど、そんな光の中を歩いていく人々を見ていると、そう言った姿すらなんだか尊く思えてきた。
もう少しだけ。いや、もっとこの街を愛していく、そんな必要性を感じた。もしも、僕の祈りの声を聞き届けてくれるこの街の神様がいるのだとしたら。どうか、この街を知ろうとする僕を優しく見守っていてください。白い息をあげながら、僕は星空を見上げる。
「今日はありがとう。助かったわ!」
「それはよかった。ちゃんとロベルトに渡せるといいね」
嬉しそうに握られたプレゼントをみると、僕の頬もほころぶ。
「そうね。そうだ、これ。つきあってくれたお礼」
そう言って、彼女は胸元から、小さな金属製らしいプレートがついたネックレスを取り出し、僕に渡した。
「ピルミアの首飾りといって、先祖代々伝わるものなんだけど、願えば、忘れたり、なくしたものが返ってくるっていうらしいのよ」
「えっ、そんな大事なものもらっていいの?」
先祖代々。一族でも、ましてやであって間もない僕なんかがそんな貴重なもの貰っていいのだろうか。
「いいの。わたしより、拓郎が持ってるほうがいいのよ。きっと必要になる時がくるだから。だから、素直にお守りだと思って。なくしたものが、帰ってきたら、わたしにかえしてくれればいいよ」
「でも、忘れたり、無くしたものか。そんなものあったかな」
「もしかしたら、この国で言うところの、予防、にもなるかもしれない」
「よく知ってるね」
「それに、これで祈る先が一つ、増えるじゃない」
「えっ」
「わたし、拓郎のこと、好きよ」
その言葉に僕は一瞬動揺する。が、その優しい表情が、そういった感情ではないと理解するには十分だった。男女の仲を示すための言葉ではなく、僕の中にも芽吹いた、特別な思いを伝えてくれたのだろう。仲間や家族、そんな人々に向ける気持ち。愛情だ。
「ありがとう。そう言われると嬉しいな」
「だから、大切にしてね」
「わかった。大事にする」
「せっかくだし、つけてあげる。しゃがんで」
言われるがまま、僕は姿勢を落とす。ジャケット下の黒シャツにそのメタリックさが映えた。
「ばっちりじゃない。すてきよ」
「ありがとう」
彼女と別れ、家路につく。これほど、充実した気持ちを抱きながら街を歩くのはいつぶりだろう。僕は寒さすら忘れていた。家族と帰った幼い頃か。大学に入りたての頃か。本当に。本当に久しく感じられたのだ。
出会い。数日前まで単なる下宿先だったこの街が、坂の上で出会った彼女を通じ、自分にとっても暖かなものに感じられるようになった。よそ者から、この街の人間へ。借りぐらしから一員へ。移りゆく心情。初めてできた、この街の友人は、僕とこの街を結ぶ縁えにしを繋いでくれた。
心が。身体が。徐々にこの街に馴染んでいく。故郷のそれにはまだ及ばないけれど、街路灯のあかり一つとっても、僕がひとりじゃないということを感じさせるには十分だった。
僕はようやく、街の入り口にたてたのかもしれない。
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