茶会と依頼
翌日。ハーブ園にほど近い、山合いの高級住宅街へ向かっていた。指定された集合場所は、昨日の旧センブルグ邸ではなく、その高級住宅街の一角にある小さな公園だった。
集合時間の十分前に到着し、辺りを見渡した。あれほど人波に溢れている異人街通りとは対照的で、こちらは人影ひとつない。住居と住居の間から、オフィス街やホートタウン、内海に向かって広がる港を遠望することができるため、高級住宅街たる所以を理解することができた。
小さな公園の前で待っていると、手を振って歩いてくる少女の姿が目に映った。
「おはよう。拓郎!」
こちらに気づいた少女は手を振り、スカートのプリーツをかわいげにひらめかせながらかけてきた。ウサギの手袋。紺色と茶色の中間色、亜麻色の髪を後ろで束ねた少女。レヴィーだ。
「おはよう、レヴィー」
「待った?」
「来たばかりだよ」
「ママがね。お客さんを呼ぶときは、ちゃんとお客さんより先に行きなさいって言われてたから。でも、早く来たから大丈夫よね?」
不安そうに僕を見るので、時計を確認し、
「大丈夫。まだ集合時間より前だから」
僕は柔和な笑みを浮かべる。
「よかった!」
彼女も笑顔になった。
「で、これからどこへ向かうの?」
「わたしの家! じゃあ、ついて来てね」
レヴィーに導かれ、僕らは道に沿って山の方向へ歩いていく。すると、剪定された木々が塀から飛び出した。風見鶏の館を倍にした大きさの洋風邸宅が目の前に現れた。
「大きいね」
「この街の発展に伴って大きくしていったんだって。さ、入りましょ」
立派な門扉に戦々恐々としていると、レヴィーはチャイムを押して、ただいまと告げた。すると、ドアが自動で開き、邸宅、庭園の全体像が見えてきた。
正面の小高い丘には、焼煉瓦造りの二階建て洋館が建っており、丘から低地への斜面は洋風庭園となり、丘に向かって伸びる道の左右にも、幾何学的な配置の植え込み花壇が設置されている。入った瞬間、異国に来たような雰囲気を感じ取り、個人所有でなければ文化財として公開してそうなほど整備された庭だった。
「わたしもよく知らないけど、パパに聞いたら、イタリア式なんだって」
「すごく、落ち着くね」
「いいでしょ?」
微笑みかけるレヴィーをよそに、洋館から女性がこちらに向かって歩いて来た。
「おかえりなさい、お嬢様」
その服装は、テレビやネットでしか見たことのない、黒ワンピースにロングの白エプロン姿。まさか、本物のメイドさんがいるとは驚いた。目が合うと、微笑みかけられる。
「あなたが、霜月さんですね。お話はお嬢様からお伺いしております。私はセンブルグ家でメイドをさせていただいております、ハンナと申します。以後、よろしくお願いいたします」
そう言うと、左脚を引いて、軽く腰を落とした。メイドのお辞儀だと理解し、僕も軽く立礼をした。
「こちらこそ、よろしくお願いします。神間大の霜月拓郎です」
「あら、神大生なんですね。ご立派で」
嬉しそうに微笑んだ。この街での神大生のネームバリューというものを再認識する。
「ええ。まだ一回生なんですけどね」
「それはそれは。勉学、頑張ってくださいね。では、こちらへどうぞ」
庭園に通される。綺麗に整備された緑と深緑のストライプが素晴らしかった。中庭のテラスに通されると、席に座った男性が立ち上がり、こちらにやってきた。
「あちらが、レヴィーのお父さん?」
そう言い、僕はレヴィーを見た。
「そう。お父様。用が済んだら呼んでね」
そう言うと、レヴィーとハンナさんは邸宅のほうへ引き上げていった。
「待っていたよ。きみが、霜月拓郎くんだね」
「はい。霜月拓郎です。よろしくお願いします」
「ジョン・センブルグだ。この街で貿易会社を経営している。よろしく」
差し出された右手に答え、握手を交わした。とても渋みのある、落ち着いた声色のジョンさんの日本語は、日本人そのものだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「よく来たね。ロベルトくんと同じ、神大生なんだってね」
「はい。とは言っても、神間へ来たのは、去年の春で、まだまだひよっこです」
「それはそれは。ようこそ、神間へ。いい街だろう?」
「ええ。そう思います。ちょうど冬季休業にこの街をまわり始めた矢先に、幸運にもお嬢さんとロベルトさんに出会いまして」
会って間もないが、新しい場所で、新しい巡り合わせができたのは、本当に僕にとって幸運だった。
「それは、幸運な出会いだったね。どうだ、二人の様子は?」
「昨日が初めてでしたが、なんだかとても仲が良さそうな感じは伝わってきました。なんだかんだ言って、レヴィーもロベルトさんのことを信用してましたし、逆に、ロベルトさんもレヴィーのことをわかってあげている。いいコンビです」
そう僕が言うと、ジョンさんは笑い、
「その感じなら、分かってくれているようだね。悪い子ではないのだよ。ただ、どうにも口が悪くてね。娘も拓郎くんのことが気に入ったようだし、正式に家庭教師を頼みたいと思っている。できれば、彼女の言葉の矯正も」
「はい。そのつもりで来させていただきました。こんな僕でよろしければ。それに、なんだか、いい出会いとチャンスに巡り会えたような気がしているんです。僕が、変われる一歩になるような気が」
僕がまだ気づけていない、この街の良さや、この街に息づく人々の生活、そして様相。それらを知る手がかりを彼女やロベルトさん、センブルグ家の皆さんが繋いでくれるような気がして。僕には、断る理由なんて見つからなかったのだ。
「こちらは大歓迎さ。ロベルトくんとは、どうにも”でこぼこコンビ”感が強すぎてね。君の方が柔らかい感じもするし、子供の扱いにも慣れていそうだ」
「恐縮です」
僕は苦笑いを浮かべつつ、答えた。
「何か、他に子供を相手にするアルバイトはやっていたのかね?」
「ええ。去年の夏の間、皇子公園駅のほうの動物園でパークスタッフをしていました」
実を言うと、昨夏の二ヶ月間、友人からの要請があり、動物園でアルバイトをしていたのだ。子供連れの家族が多く、動物について尋ねる子供達に教えたり、迷子の子供の案内をしたりする中で、子供に対する接し方を学んだ。そのためだろうか、レヴィーと出会って日も浅いのに、ありがたいことに、彼女から親しみを感じてもらえている。
「なるほど。通りで懐いているわけだ。それで、今は他にアルバイトをしているのかい?」
「いいえ。実を言うと、ちょうど恒常のバイト探していたところでした。ですので、それもあって、良いタイミングでした」
「これも神様のお示し、というやつかもしれないね」
「ええ」
「でだ、本題に入ろう。頻度の方はどうしようかね。休暇中とはいえ、自身の勉学の方もあるだろう」
「そうですね。語学の勉強をしようと思っていますが、冬季休業中はいつでも問題ありません」
「では、本人に聞いてみようか。レヴィー、おいで!」
邸宅に向かって、ジョンさんが呼びかけると、レヴィーがかけてきた。
「どうしたの、お父様?」
「家庭教師の頻度はどうしたい?」
「そうね…、拓郎は冬休みなのよね?」
「そうだよ」
「忙しいの?」
「いいや。この街でゆっくりするつもりだから、いつでも大丈夫だよ」
「じゃあ、わたしが来て欲しい日に連絡するのでもいい?」
「わかった。じゃあ、来た時に次の日を決めることにしよう」
「うん!」
「よし、決まりだな。あとは、給金だが、いくら欲しい?」
「いくら、と言われると、難しいですね」
アルバイトでは、仕事内容、そして募集金額が提示され、納得して応募するわけだが、こうやって、金額を提示されると、自分の仕事量や仕事の質がいくらで釣り合うのか、ということを考えなければならないので、なかなか提示が難しい。
「なに、常識の範囲ならいくらでも構わないさ。仕事は、信頼と技術への敬意で成り立つ。適切な仕事には適切な返礼を。それが私のモットーなんでね」
さすが、この街で長いこと商(あきな)いをしている人は、言葉に芯がある。素晴らしい考えだ。
「そうですか。では、ジョンさんが出していただける額でいいかと思います。どのくらいレヴィーに教えてあげられるのかもまだわかりませんし、こんないきなりあって間もない人間を信用して娘の家庭教師にすることを許可してくださったんです。それなら、僕もジョンさんを信用して、お任せすべきなのかと」
「なんだ、君もまずは相手を信頼するタイプか」
ジョンさんが何か英語らしき言葉で呟いた。しかし、早くて聞き取れなかった。
「えっ? なんとおっしゃいましたか」
僕はたずねると、ジョンさんは笑った。
「君も面白いね。大物になりそうだ。そうだな、ではこのくらいでどうだろう」
手帳を取り出し、ページの隅に円マークとともに、金額を走り書きした。提示されたアルバイト金額は、内心予想した額の倍だったため、肝が冷えたと同時に驚きが表情に出てしまった。
「…いいんですか、こんなに?」
「商売をする人間だからね、人を見抜く力ぐらいあるさ。君の言動、所作には十分資格手当を出せるレベルだ。社会人でも、そう持っていないスキルを持っている。私にはそう見えたよ」
「ありがとうございます」
なんだか過大評価な気がして、少し後ろめたい気持ちにもなるが、ジョンさんのその自信満々な語り口を僕も信用してもいいんだ、そう思えた。
「どうだい、納得してくれるかい?」
「はい。よろしくお願いします」
「よろしく頼むね」
再び握手を交わす。威厳の中にはっきりと伺える敬意。こんな若者に対しても物腰の優しい貿易商の父からの依頼を引き受けられることに、なんだか誇りすら感じられた。
「はい。よろしくお願いします」
「では、私は仕事があるのでこれで失礼するよ。せっかく来てくれたんだ、お茶でも飲んでいってくれ」
手を振ると、ジョンさんは邸宅へと引き上げていった。
「ありがとうございます」
邸宅裏のタイル状の石でできた庭への小道を抜けると、小さな空間に出た。ガーデニングが施されているが、冬場ということもあり、緑の中に咲く花はそう多くない。僕とレヴィーは促されるまま、柔らかい日差しの注ぐ、パラソルの付属した木製のテーブルを囲んだ。
「昼間は意外と暖かいね」
「ええ。冬も外で飲む紅茶は好きなの。ほっとするから」
「少し早めに出回ったものですが、ダージリンのファーストフラッシュです」
「ファーストフラッシュ?」
最初に輝いた葉っぱ? 普段、缶コーヒーばかりの僕には、その用語の意味がわからず、ぽかんとしていると、ハンナさんが教えてくれた。
「一番摘みです。ファーストフラッシュは、本来三月から四月に摘まれるのが一般的ですが、特別に少し早くいただいているんです。とても豊かな香気とキレ、コクがあるのが特徴的です」
「説明、ありがとうございます」
「どうぞ」
見るからに高級な、彫金の施されたカップとカップディッシュに、音を立てないようビビりながら、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。ふわりと鼻先を抜けるフルーティーな風味と、さっぱりとした後味がくせになる。おいしい。拙くも例えるなら、カップ麺とラーメン屋さんで食べるラーメン。加工に際して切り捨てられてしまう繊細な素材の味や風味が閉じ込められており、舌や鼻を通じてやってくる優しい感覚に僕は驚愕した。もちろん、その味をうまく抽出し、カップに注ぐハンナさんの技術もあってのものだと思うが、僕は紅茶というものを初めて知ったようにおもえた。
「初めてこんなに美味しい紅茶を飲んだよ。ハンナさんありがとうございます」
「満足していただけたなら、幸いです」
「たくろう、飲み慣れてないの?」
「普段、コーヒーばかり飲んでるんだ」
「わたしはまだコーヒー飲めないのよ。苦いから。それより、クッキーも美味しいから食べてみて」
言われるままに、テーブルに並べられたクッキーを一つ、手に取った。少し厚みのあるタイプで、中央にはジャムだろうか、赤いジャムペーストが宝石のように埋め込まれている。
一口、口に入れる。じゅわりととろけるクッキーに伴って、甘酸っぱいペーストが味に締まりを与える。美味しい。そして、一口紅茶を含むと、クッキーの後味にさわやかにし、ほのかな甘みが余韻となって、心地よい。
「どう?」
「とても美味しいね。こんなに美味しいクッキーは初めて食べたよ。どこで買っているの?」
「クッキーはね、わたしとハンナで作ってるの」
「すごいね、専門店みたいだ」
「これも、センブルグ家伝統の味なのよ」
いたずらに笑む少女の表情も相待って、初めての茶会は素敵なものになった。
「今日はありがとう。ハンナさんもありがとうございました」
次回の家庭教師の打ち合わせが済み、そろそろ帰らせてもらおうかと席を立つと、レヴィーに引き止められる。
「ねぇ、拓郎。このあと、時間ある?」
「どうしたの、急に」
「じつは、折り入って頼みたいことがあって…」
そう言うと、レヴィーは僕に近づき、耳打ちをした。
「ロベルトにチョコを買いたいの」
「チョコ?」
僕もひそひそ声でレヴィーに返した。
「ほら、日本ではバレンタインデーというものがあるんでしょう」
うつむきながらも照れる少女の姿に、少し微笑ましくも感じた。
「そういえば、もうそんな時期だね」
そういえば、バレンタインデーまで一週間。あまり関わりのないイベントだったので忘れていたが、女性たちにとっては一大イベントだ。本意ではないだろうが、ロベルトに罵詈雑言を撒き散らしていた彼女でも、内心ではちゃんと感謝しているのだと知ると、少し暖かい気持ちになった。
「この後、買いに行きたいんだけど、ダメ?」
僕を見上げる目は、申し訳ないような、懇願するような、感情が入り混じった必死さが伝わった。
『悪い子ではないのです』
加えて、先ほどのジョンさんの言葉を思い出す。きっと、思いをちゃんと伝えることで、優しくなれることだってあるだろう。その彼女の気持ちを僕は大切にしたいと思った。
「いいよ。行こう!」
僕から出た快諾の声には、彼女がくれた、暖かく優しい気持ちが帯びていた。
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