旧センブルグ家邸宅

 レンガ造りの塀を抜けると、石畳が玄関先へと伸びていた。玄関口には、突き出した庇(ひさし)と壁から柱が突き出している。コロニアル様式と呼ばれる建築様式だ。建物を見上げる。突き出した柱の上には、ベランダが組み上げられ、外壁は白、柱と窓枠は黒の二色で構成されている。存在感のある、大きな窓は存分に陽光を取り入れており、風通しも良さそうだ。先に玄関へとかけていったレヴィーはダークチョコレートでデコレーションされたような色合いの木製扉の取手に手をかけた、僕を手招きした。

 旧センブルグ家邸宅。神間が開港されたのち、商人として名を馳せたセンブルグ家の邸宅で、現在では一部が重要文化財として一般向け公開がなされている。本来であれば、入館料がかかるところであったが、迷惑をかけたからと無料で通してもらうことになり、さらには見学後にお茶までご馳走になる流れとなった。

「どうぞ」

扉が開くと、赤暗い絨毯が廊下の先へと伸びていた。故郷であるわけでもないのに、このどことなく香ってくる木材の優しい香りに懐かさを感じる。同時に、どこからともなく甘酸っぱい香りが漂ってくる。その香りに、僕は覚えがあった。

「ジャム?」

果実の爽やかな酸味。優しい甘さ。イチゴのようなベリー系の酸味に振り切った香りではなく、柑橘系のそれともまた違う。リンゴだろうか。なんらかの芳醇なジャムの香りが室内のどこからともなく香ってきていた。

「よくわかったわね。キッチンの方で仕込んでるの」

「文化財なのに、キッチン使ってるの?」

「ほら。うちは他の館と比べて、はずれにあるでしょう。だから、よほど欧風建築が好きとか、ものめずらしい建築が好きな人じゃないとここまで来ないから、結構自由にやってるの。火気使用届も出してるから、キッチンとかも人が来ようと来まいと自由に使ってるのよね」

「てっきり火気厳禁だと思っていたよ」

そう言われれば、かつて友人たちと訪れたメイン通りの邸宅と比べ、なんとなくゆるさを感じる。立ち入りを制限するポールが立っていなかったり、よく見る禁煙の張り紙なんかがなかったり。例えるなら、年季の入った昔ながらの喫茶店、といったところだろうか。文化的重要性が経年によって価値を生み出しているのではなく、生活が積み重なることでその建物の価値が積み上げられてきたように感じられる。

「確かに。なんだか、人が今も生活してるような雰囲気」

「してるのよ」

そう言いながら、彼女はかわいらしく微笑んだ。

「じゃあ、わたしはお茶の準備をしてくるから、呼びに来るまでゆっくり回ってて」

「ありがとう」

「ごゆっくり」

レヴィーは手を振って身を翻し、奥の部屋へと消えていった。

 リビングに入る。オリエンタル調の絨毯が敷かれおり、落ち着いていながらも、華やかで洒落た雰囲気を感じた。室内には、普段座ることのないであろう、緩やかな曲線を描く木枠のソファーや、美しい幾何学模様の刺繍の施されたテーブルクロスが敷かれた丸テーブルが部屋の中央に設置されていた。

 テーブルを見やると、陶器製のティーポットとティーカップ、真鍮製の燭台、花瓶などが並べられている。当時のティータイム風景が、シャンデリアの淡い光に照らし出されており、ベルを鳴らせば、奥からメイドがやってきそうだ。奥の方に目を向けると、今は形だけとなった重厚な暖炉が鎮座しており、暖炉の上には美しい彫刻で縁取られた写真立てがいくつも並んでいる。

 部屋を見渡して思ったのが、これだけ華やかであるにもかかわらず、必要最低限のモノしか置かれていないということだ。狭く、物で溢れた僕の部屋と対照的で、住む世界の違いをまじまじと感じさせられた。加えて、日本にいることを忘れさせるようなその異世界感は、僕の心に日常を忘れさせる癒しを与えてくれた。

 続いて二階へと向かう。木製の階段はきいきいと軋み、ほんのりとニスが香る。登り終えると、小さなテーブル棚が置かれており、真鍮の骨組みに、鮮やかなステンドガラスがはめ込まれたランプが光を灯していた。廊下の壁には、当時の写真やセンブルグ家の先祖であろう、正装姿の老人や、建設に関わったのか何らかの貢献があったのだろうか、日本人らしき顔立ちの老女の肖像画が展示されていた。

 正面の部屋に入る。ひときわ大きな空間で、大きな窓からは柔らかな日差しが差し込み、薄いレースのカーテンがなびいていた。中央には、円卓と六つの椅子が並んでおり、自分の身長よりも高い柱時計が振り子を揺らせ、時を刻んでいた。その緻密な構造、動きに、僕は足をかがめて振り子に刻まれた彫刻を覗き込んだ。数分間ほど、ゆっくりとしたペースで弧を描く振り子に見とれていると、後ろから声がかかった。

「おまたせ。ついてきて」

音もなく現れた少女に少し驚いていると、少女は両手で僕の手につかみかかった。

「どこに向かうの?」

階段をゆっくりと下り、その柔らかな手に引かれて玄関を出る。

「あれ、キッチンで準備しているんじゃなかったの?」

「すぐ隣よ。キッチンもそこと繋がってる」


 見上げると、そこにはバーと書かれたネオンサインの看板が目に入った。まだ外は明るく、灯っていないそれには一体どんな色が灯るのだろうとふいに思案した。大きな窓から見える室内の様子からカウンターバーであることが伺えた。

「ここも、わたしの家なの」

ガラス扉を開けると、カランとベルが鳴る。刹那、ローストされたコーヒーの芳醇な香りが鼻をかすめた。部屋の半分を占める立派な木製のカウンターには様々なウイスキーやウォッカなど、見たこともない酒が所狭しと並べられていた。

「連れてきたわよ、ロベルト」

室内に客はおらず、開店前のほんのりと明かりが灯る、静かな雰囲気が広かっていた。包み込むような豆の香りが心地が良い。カウンターの向こうに先ほどの男性が立っており、少女は僕を残すと、奥の方の部屋に入っていった。

「まぁ、適当なところに座ってくれ」

「はい」

僕は促されるまま、カウンターの椅子に腰掛けた。

「さっき簡単に紹介したが、改めて自己紹介させてもらおうか。私はロベルト・ターナーだ。昼間は、ちょっとした探偵業、夜はここのカフェバーでマスターをやっている。よろしく。まぁ、これはお礼だ」

純白のカップになみなみ注がれたコーヒーを僕の前に置くと、ロベルトさんは胸元のポケットから名刺入れを取り出し、名刺をコーヒーの隣にそっと置いた。頂戴します、と手にとって確認する。さらさらの紙ざわりに驚きながらも、文字を読んでいく。そこには、アルファベットで書かれたロベルト・ターナーの文字の他に、流斗(ながれど)・ターナー・路鳴(みちなり)と書かれていた。

「こちらは?」

僕は日本語で書かれた部分を指差して訊ねた。

「ああ。それは大事な友人がつけてくれた日本の名前さ」

「へぇ、素敵ですね」

「ロベルトの文字から分解と連想でこの苗字と名前にしてくれたんだ。路がロ、鳴るがベル、流れるがル、斗がトらしい。だか、この読みだと、ロベルルトになってしまうんだがね」

ロベルトさんはそう言いながらも、嬉しそうに笑った。

「僕の方は名刺はないんですが、僕も改めて自己紹介させてもらいます。霜月拓郎(しもつき たくろう)って言います。神間大学の一回生です」

僕の紹介にロベルトさんは眉根を上げた。

「ほう、拓郎くんは神間大学なのか。…実は私もなんだよ」

「ほんとですか!」

意外な所にも先輩がいるんだなと僕は偶然に驚く。

「後輩、か。会えて嬉しいよ」

改めてロベルトさんと握手を交わした。

「まさか先輩だったなんて、会えて嬉しいです。それにしても、日本語がお上手ですね。大学からですか?」

「いや、小さい頃に親の仕事で神間に越してきてね。そのおかげで、第一言語が日本語なのさ」

「へぇ、やはりこの街ならではって感じですかね」

「まあ、そんなところさ」

談笑していると、奥のドアが勢い良く開いた。先ほどから一緒にいたご令嬢、レヴィー・センブルグが足でドアを開き、ホールのアップルパイを手に乗せて現れた。甘く芳醇な香りがふわりと部屋に溶け込んできた。

「おまたせ。ロベルトが悪さを働かなかった?」

少し嬉しそうににやけながら、意地悪な表情でロベルトを横目に見た。

「そんなことするわけないだろう」

困惑顔でロベルトさんがレヴィーを見た。

「二人はどういう関係で?」

「まぁ、彼女のお父様からお守りを預かっている、という感じさ」

乾いた笑を浮かべつつ、ロベルトさんはレヴィーを横目で見た。その様子はおてんば娘を介抱する父親のようにも見える。

「失礼ね。わたしが! だらしないロベルトを執事として教育してあげてるの!」

レヴィーは猛反発しながらも、テーブルに乗せたアップルパイを手慣れた手つきで切り分けていく。

「私が教育係として丁寧に日本語を教えてるつもりなんだが、こんな感じでお口が少し出すぎてしまう子でね。もう少しお嬢様らしく、綺麗な言葉で話せるようになってほしいものなんだが…」

と、ロベルトさんは苦笑いを浮かべつつ言った。

「ロベルトの口が悪いのがいけないのよ…。あ、そうだ! いいこと思いついた」

どこか悪だくみめいた表情を浮かべながらレヴィーは言った。

「何だ、うれしそうに」

「拓郎から日本語を習えばいいのよ! はい、どうぞ」

嬉しそうな表情でアップルパイを配りながら、さも当たり前のように彼女は言った。

「ありがとう…ええっ!?」

思わず、声が出てしまった。どういう話の成り行きなんだ。

「いいじゃない。お給料は弾むから」

「君が出すわけじゃないだろう、レヴィー。お父様にまずは聞いてだな…」

「煩(うるさ)いわね、ロベルト。調子に乗っている教育係を交代するいい機会だと思っていたの。これはチャンスなのよ。拓郎は神間大なんでしょう? なら、そのくらい大丈夫よね?」

とんでもないことをいきなり言い出すお嬢様だなぁ、と思った反面、せっかくの出会いだ、新しい繋がりを広げるにはいいチャンスかもしれない、そう思った。それに、異国の人との交流は今後の海外留学や旅行のための良い機会なるだろう。僕は内心、ラッキーだな、とも思った。

「僕は構いません…けど」

僕はそう言いながら、ロベルトさんを横目に見た。正気か、とでも言わんばかりに困惑した表情を浮かべたロベルトさんは、レヴィーを見た。

「決まりね! ロベルト、教育係解雇!」

「えぇ…」

苦笑いをするロベルトは、僕を呼び寄せ耳打ちする。

「…本当にいいのか。大変だぞ」

「せっかくの機会ですし。ちょうど長期休暇に入って予定もありませんし、いいかなって」

「無理は言わないが、嫌になったら辞めてもいいからな。例えば過去に…」

どうやら、ロベルトさんは気を使ってくれているらしく、僕に今までダメだったところを耳打ちした。

「鉛筆で串刺しにされそうになった」

「えっ」

僕は青ざめる。その表情に、誤解だと言わんばかりに彼女が割って入った。

「なによ、二人して。ロベルト、悪口を吹き込んでいるんでしょう」

「違う。レヴィーがいかーにおしとやかなお嬢様かを説いているんだ」

皮肉たっぷりの口調でロベルトさんは言った。

「もういいわ。拓郎、そんな馬鹿馬鹿しい話してるロベルトなんかほっておいて、アップルパイ食べましょ」

彼女の一言でロベルトさんも諦めたのか、丸椅子につき、おとなしくアップルパイの乗った皿を受け取った。

「作りおきを温め直したものだけど、美味しいから、食べてみて」

切り分けられたアップルパイは見事なもので、卵黄の塗られた表面の照りは美しく、一度冷めているのもかかわらず網目状の生地もしっかり膨らんでいた。フォークで切れ込みを入れると、さすがにさくっとした音はしなかったが、それでもアップルフィリングのしっとりとした層からは、甘酸っぱい香りが食指をそそらせた。一口頬張る。

「…おいしい」

これまで食べてきたどんなアップルパイよりもおいしかった。砂糖っぽい、もったりとした強い甘さはなく、りんごの甘酸っぱさが器用に溶け込んでいて、最後にバターの柔らかな風味が鼻を通り抜けていく。

「でしょ。センブルグ家伝統の味なの」

このアップルパイには有無を言わさぬ魅力があるようで、ロベルトさんも恍惚としながら味わいを楽しんでいた。

「そういえば、あんなにリンゴ抱えてましたけど、全部アップルパイにするんですか」

二人に尋ねる。

「お茶会があるの。小学校のお友達と」

そういいながら、レヴィーも紅茶を啜る。ふんわりとストレートの優しい香りが広がる。ダージリンだろうか。さながら貴族の優雅なティータイムといった感じで、西洋少女の雰囲気が絵になる。

最近の小学生はそんな優雅な茶会までするのか、と驚きながらも、

「楽しそうだね。いつか、僕も参加してみたいな」

お世辞のつもりで僕は言ったのだが、レヴィーは屈託のない笑顔を見せた。

「もちろん!」


 冬の夕べはあっという間で、小一時間のおしゃべりで窓辺から見える空は紫に染まり、街灯がほんのりと輝き出した。外の様子に気づいたロベルトさんは店先のネオンサインを灯す。バーの文字は淡いピンクに灯るようだった。

「ありがとうございました。そろそろ帰ります」

僕が席を立とうとすると、

「えー。もう帰るのか」

レヴィーは僕の腕をひっぱり、引き止めた。

「どうだ、せっかくだし、うちの蔵も見ていかない? 悪魔を倒した日本刀なんていういわくつきまであるのよ!」

嬉しそうに、そして名残惜しそうに。彼女は僕の腕に力を入れた。気に入られたのは嬉しいが、髪まであろうと、冬の夜は極めて冷え込むのだ。そろそろ帰らねばならない。

「いいよ。そこまでしなくても。また来るよ」

「明日は空いてる?」

「明日? ちょっと待って」

僕は念のため、スマートフォンでカレンダーを確認し、顔を上げた。

「大丈夫。どうしたの?」

「家庭教師の件で、お父様に会ってもらうかなって」

話が流れたこと、契約をしたわけではなかったことから、てっきり冗談に終わったものだと思っていた。しかし、彼女は本気だったらしい。

「そんな急ぎで大丈夫なの?」

「わたしは大丈夫」

そこに分け入るようにロベルトさんが僕に忠告した。

「拓郎くん、これが最後のチャンスだぞ。いいのか?」

僕はうなづき、

「はい。僕は構いません」

そう言うとレヴィーは喜び、飛び上がった。

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