この街のはざまで、僕は。

秋山津 沙羽

坂の上の異邦人(エトランゼ)

二月八日、午後

 やわらかな斜陽に照らされ、坂道を登っていく。二月の神間(かみま)市は思ったほど寒さを感じず、比較的快適に過ごせている。それはきっと、僕が雪の降る地方の出身だからだろう。凍結する気配すら感じない、坂の入り乱れたこの街にもいつしか慣れており、多少の坂道程度では、へこたれなくなった。

 神間市は海と山の挟間に広がる街で、坂を起点に家屋や建造物が立ち並んでいる。古くは外国人居留地として栄え、旧外国人領事館、レンガの町並みなどが当時の雰囲気のまま文化財として保存されている。

 この地における、もっとも有名な出来事といえば、二十数年前、地域一円で起こった未曾有の大地震・大災害ではないだろうか。広範囲にわたる地割れ、崩壊したビル群。燃え上がる家屋。それらの映像は人々の記憶から忘却されないよう、毎年、ニュース番組などで放映され続けている。被害地域においては、区画の再整備、再興がなされ、今や歴史的事実だけを残すのみとなった。その美しく蘇った街並みとアクセスのしやすさが相まって、毎年、人気観光地・住みやすい街ランキングの上位に軒を連ねるまでとなった。

 そんな、大きな歴史のうねりに身を置くこの街ー神間について、もっと知りたい、もっと理解したい、そう思うようになったのはいつからだっただろうか…。


 一月末日。楽しい大学生活を過ごしていた。いや、まだ楽しさの続く大学一回生の冬。活気に満ちていたキャンパスは各科目の最終講義が終わるごとに閑散さを増していき、休業期間が始まる頃には、、学内に残っているものは建物のみとなった。初めての土地で仲良くなった友人たちは、サークルの冬合宿、実家への帰省や海外旅行など、それぞれが長い長い休暇の中へと消え去っていった。

 一方で僕はというと、初めての土地で冬を迎えることを選んだ。いつか、海外へ短期留学するか、最悪でも海外旅行へ行こうと考えていたので、この多様な文化の混ざり合った街で語学の勉強をしつつ、文化や歴史、そして人々。そんな神間の表情を今一度探訪することにした。

 僕を語学に導いたきっかけは二つある。一つは、遠い昔、親に手を引かれて歩いた遠い異国での記憶だ。ひらがなとカタカナ、そして一部の漢字を覚え、僕は文字が読めるんだぞ、と自信に満ち溢れていた小学二年生の夏、僕は親の出張に付き添い、ヨーロッパのある国を訪れた。

 ボーディングブリッジを抜け、目の前に広がった光景の衝撃はいまだに忘れられない。この世界が日本語だけでできてると思い込んでいた幼い僕の目の前に現れたのは、見たこともない、無数の文字の塊だった。親が教えてくれたそれは壁一面に描かれた、様々な国の挨拶。何十とあったそれらの文字の塊のなかで、唯一読めたのが、『こんにちは』だけだった。小学生ながらにして、僕はその時、自分の無知さを思い知ることになった。

 もう一つは、この街。ここ、神間(かみま)市は近代に入り、いち早く国外へと港の門戸が開かれた。その結果として、街は外国人居留地として栄え、様々な欧米文化が流入した。それから百年以上たった今でも日本文化と海外文化は共存し、街並みには日欧融合した建築物や、外国人の行き交う姿がみられる。修学旅行として訪れた高校生の初夏、この街から漂ってきた異国情緒は僕を存分に刺激し、僕はこの街に戻って来る、そう誓ったのだった。

 そんな強い感情を伴った目標が功を奏し、僕はこの街の大学、神間大に合格し、昨春からこの地に住むことになった。やってきて間もない頃、蘇った驚きと興奮に感動しながら、この街の観光地、風景を新しい友と共に見て回り、喜びに打ち震えていた。

 しかし、そんな新天地への高揚感は最初の数ヶ月だけだった。大学通いとなった僕は、この街について学ぶことよりも学生生活を謳歌するようになり、あれほどの高鳴りを与えてくれたこの街への興味は次第に薄れてしまっていった。

 この街への興味が薄らいでしまったのは、この街を知り尽くしたからなのだろうか。いつからだっただろう、そんな疑問が湧き上がったのは。確かに、大学の友人たちと過ごしてきた十ヶ月間で様々な観光地や景観スポットを見て回り、有名グルメを食べ歩いた。それで、本当にこの街について知っていると胸を張って言えるのだろうか。その自問自答が日に日に大きな疑問となって蛇のように僕を締め上げるようになった。

 期末試験を終えたあの日、友人の言葉が引き金となって、僕の結論が導き出された。試験用紙を回収され、講義室を出た時、何気なく交わしたあの会話だ。

「拓郎はどうすんの、休み」

「まだ決めてない」

「まだ決めてないのか。まぁ、この街も散々観光したし、もう飽きたっしょ。もう、俺たち、なんでも知ってるしな」

「…」

なんでも? 彼の言葉が違和感となって僕の心に突き刺さった。本当に、僕らはこの街を知っているのだろうか。僕は自問自答する。

…いや、違う。むしろ、何も知らないのではないか。観光地や景色といった、よそ者から見たこの街の表層を知るのみで、この街に息づく人、生活、文化、歴史。この街を構成するもの自体を僕は何も知らないのだ。

「どうした?」

返事のない僕の様子に、きょとんとした表情で友人は僕を見ていた。

「ああ、ごめん。考えてた」

僕は我にかえり、彼を見据えて言った。

「残るよ。もう少し、見てみたい場所があるんだ」


 もう一度、この街をこの街の視点で、僕自身の目で見てみよう。二月八日の午後。その強い思いが、僕を神間(かみま)への探訪に連れ出していた。最初の目的地は、異人街にある、とある旧邸宅だ。大きな路地を逸れ、住宅の並ぶ小道に入る。人の姿はまばらになり、この地に生きる人々の生活が散見され始める。二階に干された衣服。子供の遊具の置かれた庭先。観光地の日常がそこにはあった。僕は白い息を登らせ、一歩一歩坂を踏みしめていく

 二人の外国人が通りに曲がってきた。目の前を歩く二人のうち、一人は高身長のスーツ姿の男性。三十代後半ほどに見え、茶色の紙袋を胸いっぱいに抱え、凛々しい表情をしている。隣を歩くもう一人は、淡いピンクのキャミソールワンピースに身を飾る、人形のような少女だ。小学生ぐらいだろうか。彼らとの距離を保ちながら歩いていると、会話が自然と耳に届いてきた。

「本当にこんなに必要なのか?」

男性は苦笑いを浮かべ、紙袋を時折担ぎ直しながら、流暢な日本語を話した。単語の発音、イントネーションはネイティブの日本人そのもので、滞在期間の長さが伺えた。

「アップルパイ作りには沢山いるのよ。知らないの?」

同様に流暢な日本語を話す少女は少し呆れ気味に言った。おしとやかな見た目とは対照的に、口調から気の強さが伝わって来た。

「はぁ、そうかい。それにしても、お嬢さんよ。りんご、落ちそうなんだが、少しぐらい手伝ってくれてもいいんじゃないのか?」

紙袋の口は閉じられておらず、後方からも、歩くたびにリンゴらしき果実がふわふわと上下し、見え隠れする様子が伺える。

「だらしないわね、ロベルト。それでも男なの?」

「それとこれとは関係ないだろう」

痴話喧嘩とも取れる二人の会話に、どのような関係だろうかと勘案していたその時だった。男性を睨み目でみた少女は、男性から半歩下がり、構えをとった。

「うるさいわね。しっかりしなさい」

少女が腰を落とした刹那、華麗な足さばきが空に弧を描いた。ブレのない彼女の蹴りは、ロベルトと名乗る男性の尻を弾き、バコン、と綺麗な快音が響かせた。

「イった!」

と軽いうめき声をあげて体を反らせた。瞬間、袋の中のりんごは大きく舞い上がる。危ない、落ちる。

「あっ、落ちる」

りんごが一つ飛び出した。ロベルトは勢いよく振り返ると、その反動で紙袋から次々と赤い球体が飛び出した。

「まぁ!」

少女も声をあげて振り返った。落ちたりんごの濁流がこちらに向かってくる。

 万有引力。不意に言葉が浮かんだ。ニュートンの抱いた思考を追体験したことに感動する一方、僕の身体は反射的にりんごを受け止めるべく、ホームインを食い止めるキャッチャーのごとくブロック姿勢を取った。

 ころころころころ。スローモーションで坂を跳ね上がるリンゴを一つ一つ目で捉えていく。まずは、上半身。次に右脚。最後に左足。目測十個、すべて押さえきった。

やった。つい嬉しくて笑顔で視線を上げると、おお! と称賛の拍手をもらった。

「こら、おお! じゃないでしょ!」

またも男性に鋭い角度のキックが入った。尾てい骨のあたりを押さえながらも駆け寄ってくると、動けない僕からりんごを拾った。少女もワンピースのスカートを押さえながら、リンゴを拾い上げた。

「止めてくれてありがとうね」

少女と同じ視線の高さで目が合った。サファイアを思わせる澄んだ青い瞳は美しく、その顔は不思議の国のアリスのよう。生きた芸術品とはこの少女のためにある言葉なのだろう。心の底から興奮にも似た感動が押し寄せた。加えて、彼女の幼い笑みには、純粋さ、無垢さといった少女らしさが感じ取られた。

「ご迷惑をおかけしました…ほら」

男性が少女の方に手を当て、謝罪を促した。

「ごめんなさい。お兄さん」

少女は深く一礼する。謝罪に関しては素直なんだな、と感心しながらも、

「いいえ。当たり前のことです」

僕は手を振った。

「旅行ですか?」

男性は僕の鞄に視線を向けて言った。

「いいえ。神間に住んでいます。ただ、この辺りにはあまり来たことがなかったので、散策に」

「なるほど。住んで浅い、ということですか?」

「ええ。とはいっても、もうすぐ十ヶ月ですが。この街のことをもっと知っておきたいと、と思いまして」

口に出してから、自分の言った言葉に恥ずかしさがこみ上げて来る。そんな僕の言葉に男性は優しい笑みを浮かべてくれた。

「いい心構えだと思います。もしかしてですが、この先の旧センブルグ家邸宅へお越しですか?」

「はい。そのつもりです。お越しで、と尋ねられたということは?」

向かわれる、や、行かれる、でなく、お越し、という言葉を使ったということは、邸宅の関係者なのだろうか。すると、少女は嬉しそうに声を上げた。

「おお、うちにくるのか!」

「住んでる方だったんですか!」

僕は驚きの声を上げてしまった。

「そうよ。それなら、一緒に行きましょう」

「ご迷惑でなければ」

「そういえば、名前を名乗っておりませんでしたね。私はロベルト。君は?」

ロベルトさんは手を差し出した。

「僕は霜月拓郎(しもつきたくろう)です」

「よろしくな」

「よろしくお願いします」

男性と握手を交わす。

「ずるい、わたしも!」

少女はそう言うと、ロベルトさんを押し退け、僕に手を差し出した。

「わたしはレヴィー。レヴィー・センブルグ。よろしくね」

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