外編:昔と今のショート・ショート ※くっつく前とくっついた後
それは、スペルビアがアケディアの告白を受ける、数ヶ月前のことだった。
ルクスリアが適当にものを増やした談話室。適当すぎてちぐはぐなその部屋の、無駄に広々としたソファ。
その上に丸まる真っ黒な巨体を前に、スペルビアは沈黙していた。
そもそも、スペルビアには談話室に何か用事があった訳では無い。ただ、その前を通りすがった時にちらりと見えた黒髪が気になってしまっただけだった。
「……んむ」
黒い巨体がもぞりと身じろいで、何かもむもむと口を動かす。夢の中で、何か食べているのかもしれなかった。
――それが可愛いだなんて、断じて思うものか。
そう、スペルビアは己を律する。何せ、今目の前にいる巨体――己を上回る実力者たる怪物アケディアは、スペルビアがアーリマンの次に疎ましい存在なのだから。
『傲慢』たる自分を上回る、アーリマンともう一人。それこそがアケディアであり、アーリマンが認める存在であり、何より、『目覚め』たばかりのスペルビアを、どういう経緯かは不明であるが壁に埋めた相手である。その因縁故に、スペルビアはアケディアが大嫌いだった。
だからそんな大嫌いな相手が寝ていることなどどうでもいいことで、素通りしてしまうべきだったのだが、スペルビアは、あろうことか談話室に足を踏み入れて観察を始めてしまったのである。意味不明、理解不能、あまりにも、矛盾で満ちている。
――だが、まあ、嫌いな相手だからこそ知ることで優位に立てる何かを見つけられるかもしれないものな。
そう自分に言い訳して、スペルビアは改めて目の前の巨体を眺めた。
今は伏せられた瞼の奥の瞳が、とても美しいことをスペルビアは知っている。
嫌いな相手ではあるが、美しいものは美しいのだ。彼の瞳は赤色をしている。宝石よりも深く、鮮血よりも鮮やかで、闇よりも深い色をしたその瞳は、悔しいほどに好ましい。
それ以外に好きな部分はない――と、残念ながらスペルビアには言いきれない。ソファに、黒い髪が散らばっている。
起こさぬように気をつけながら、そっとそれに触れてみた。眠りが深いのを確認して、ひとつかみ、掬いあげてみる。彼の『怠惰』を証明する、手入れの足りない長い髪。
手入れが出来ないのならば切ればいい。そうスペルビアが悪態をつけないのは、その髪が、いつも被っているフードの下に眠るのが好きだからだ。フードを外した時、初めて覗くその糸が好きだからだ。
――いっそ、この僕の手でこの髪を整えて、僕の選んだシャンプーの匂いをこの髪に染み込ませることが出来たなら。
過ぎった思考に、スペルビアは顔を顰めた。そんな考え、まるでアケディアに片想いでもしているようではないか、と。それを否定するように、スペルビアは掬いあげていたアケディアの髪を落とした。ぱさりと小さな音が鳴る。アケディアの寝息は相変わらず健やかだ。
――無防備な奴。
スペルビアはそう、内心で呆れる。もしも目の前にいるのが自分ではなく節操なしの『色欲』であったならば何をされていただろうか。否、この最強たる『怠惰』は、流石にあまり不躾に触れられれば目を覚まし、それなりの制裁を下すのかもしれないが。そういえばアケディアはルクスリアが嫌いだったなと、思い出す。理由は知らないが、ルクスリアのことだから余計なことをしでかしたのかもしれない。
「……んん」
アケディアが身じろいで、顔をソファにぐりぐり押し付ける。そして、また、動かなくなって、寝息が戻る。
――この巨体の、頭の重さは如何程か。
そんなどうでもいいことを考えた。スペルビアは、普段机に向かって書類仕事をする時、膝に黒いクッションを抱え、それを撫でながらが常である。何故そんなことをしているのかといえば、なんとなく、『目覚め』てから初めて机に向かった時、膝が寂しくて仕方なく、集中出来なかったからである。クッションは苦肉の策だ。正直なところ重さが足りないのだが、仕事の邪魔にならないサイズで、となると、他により良いものもないので仕方がない。いっそ犬猫でも飼って膝に乗せておきたいのだが、こんな生活で生き物を飼うわけにもいかない。
――疲れているんだろうな、僕は。
そう考え直して、スペルビアは頭を振った。なんと言っても、そうでなければ、この黒い頭は膝に乗せたら非常に丁度いいだろうな、などととち狂ったことが頭に過ぎるわけがない。
――疲れているのだ。きっと。もうさっさと部屋に戻って一眠りしよう。
スペルビアは溜息をついて、踵を返した。さっさと談話室から立ち去ってしまうつもりだったのだ。
背後で小さなくしゃみが鳴った。
「……君はそんなに筋肉を備えているのだから、どうせ、肌寒さなど大したことないだろう……」
半ば自分への言い聞かせであった。
そんなことを言いながら、談話室の隅にかけられていた毛布を取りに行ったのは、矛盾であった。
「……そりゃあ、矛盾もするよなぁ」
一年前の自分を回顧して、スペルビアは溜息を吐く。自らの仮家、そのリビングでソファに腰掛ける彼の膝にかかる重みは、クッションなどよりもずっと重くて暖かい。実に、実にしっくりくる重さだった。
「んぅ」
一年前と変わらない寝言と共に、一年前よりも幸せそうな顔で、アケディアはスペルビアの膝に頭を擦り付けている。一年前とは違って手入れの行き届いた、スペルビア好みの匂いを纏った髪を撫でると、彼はスペルビアの腹に顔を埋めて動かなくなる。髪の隙間から覗く耳が可愛らしい。そこを撫でられることで得る快感を教えたが、今は健全に頭を撫でてやるべきだと微笑んだ。
あの頃の自分はなんとも勿体ないことをしていたなぁ、なんて、考える。きっとあの頃から好きだったのだ。可愛くて仕方がなかったのだ。それに無自覚すぎて、矛盾したのだ。
今はもう、思う存分に愛でられる。
「アケディア」
案外柔らかい頬をふにふにと弄ると、アケディアが身じろいで、薄らと目を開けた。美しい赤い瞳がスペルビアを映す。
「すきだよ」
その言葉を聞き届けて。
彼は膝の上で、へたくそにわらった。
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