外編:熊は夜音に抱かれる ※くっつく前、匂わせる程度の描写あり

 アレキサンドライトは少々変わった性質を持つ宝石である。

 昼の太陽の元では青緑、夜の人工照明の元では赤色に染まるその石は、あらゆる魔力を吸収する。

 そして、同じ魔力を吸収した二つの宝石は、離れた場所にあっても周りの音や景色をもう片方へと送ることが出来るのだ。

 そのような性質からアレキサンドライトは古くには通信のために用いられ、より通信に適した人工宝石であるジュエルが出来てからは――盗聴や監視に役立てられている。


 そして――アケディアの魔力を注いだ二欠片のアレキサンドライト。その片方が、今、アケディアの目の前にあった。



 ところで、アケディアには長年想いを寄せる相手がいる。その名はスペルビア、『怠惰』を担うアケディアと同じグループに属する、『傲慢』だ。

 アケディアは長年スペルビアに想いを寄せ、されど、スペルビアの目覚めの際に起こったとある一件により――加えてアケディアがスペルビアよりも遥かに戦闘力を備えている事実により――スペルビアからは嫌われている。距離を置かれ、近付けば顔を顰められ避けられて、アケディアは非常に傷心していた。


 故にか――否、本人の気質もあっただろう――アケディアは、とうとう行動に移したのである。


 アケディアの自室には道具を片付けるための棚と、彼の巨躯を包むための巨大なベッドしかない。明かりもつけずにそのベッドに横たわり、仰向けになって、アケディアはアレキサンドライトの欠片を怪力にて潰さないように握りこんで、その拳を額にあてた。

 アレキサンドライトに注がれたアケディアの魔力が、情報をもって、アケディアへと還る。今はここにない片割れが得たそれを、アケディアの脳裏に蘇らせる。

 ――生活音が聞こえる。

 紙をめくる音。吐息の音。たまにやってくる来客に対応する声の音。景色は見えない。それは当然、アレキサンドライトの片割れは『その部屋の主』に見つからないように隠されているからだ。

 ――アレキサンドライトの片割れをアケディアが隠したのは、アジトにあるスペルビアの部屋。

 そこで、彼の生活音を盗聴するということを、アケディアは何十日も続けていた。


 スペルビアは毎日あの部屋にいる訳では無い。任務もあるし、スペルビアには外に一般人を装って手に入れた仮家がある。その仮家にもアレキサンドライトを仕込んでいたことはあるのだが、やめた。あの家には、スペルビアが女を連れ込む。想い人が他人を抱く音は、聞いていて気持ちのいいものでは無い。思わず、相手の女を殺してしまいそうだった。だから仮家に仕込んだそれは、スペルビアが留守のうちに回収しておくことにした。

 ――アケディアがとうにスペルビアの仮家やアジトの部屋の合鍵を手に入れていることを突っ込める者は、残念ながら存在しない。

 存在しないが故に、アケディアは、邪魔が入ることなくスペルビアの立てる音に耽るのである。


 今日はスペルビアが任務で出ることはなく、女との約束も無いのだろう、あのアジトの部屋にいる。もう夜も更けているというのに、がたりと椅子が揺れる音、軋む音、紙をめくる音がする。本を読んでいるのか、書類を片しているのか、そんな想像をしながら、アケディアはその音に意識を集中させていた。

 ――スペルビアが立ち上がる。椅子が揺れる。床を鳴らして彼は彼の部屋に備えている簡易的なキッチンに向かう。

 ――火をつける音がする。珈琲を挽いている。夜の伴にするのだろうか。甘いミルクティーが好きな彼は、しかし集中したい時には黒い珈琲を好むのだ。

 スペルビアの部屋の作りはとっくに頭に入っている。音の情報だけで、スペルビアが何をしているのかを察することはアケディアには容易い事だった。

 ――珈琲が出来たらしい。コポコポとコップに注いで、彼は己の机に戻る。

 ――椅子に腰掛けた。珈琲を啜って、彼はまた紙を鳴らす。

 ――吐息が聞こえる。スペルビアが、その部屋で、息をしている。

 ――スペルビアが、その部屋で、生きている。


 アケディアが息を吐く。熱の灯った息で、アケディアは、己の腹部に手を添える。そのまま、その手は下へと向かっていった。ごろりと寝返りを打って、横向きになる。胎児のように丸まって、片手にアレキサンドライトを握ったまま、また、息を吐く。

「……スペルビア、」

 アレキサンドライト越しに聞こえるスペルビアは平常通りの息をしている。アケディアだけが、荒げていた。

 アケディアの操る闇の魔力は触手となって、ベッド脇の棚、下から二番目の引き出しを開ける。その奥に、隠すようにしまわれていた、小瓶を取り出す。触手は主の焦れを表すように、無造作にベッドに小瓶を放り投げた。濃い青色の硝子の中で、粘着質な液体が揺れる。

 その硝子を、横たわって蹲った、隙間から、アケディアは見上げていた。

 ――コトン、スペルビアがコップを机に置く。珈琲はまだ飲み干されてはいない。彼はゆっくりとその味を楽しむことを好む。

 ――紙が捲れる。一人の部屋で、彼は何も喋らない。ただ息だけがあった。

「スペルビア、すぺるびあ……」

 その息は、女を抱く時、僅かに乱れる。

 虫唾が走る様な音だった。女の喘ぎが邪魔だった。女を殺したくて仕方が無かった。

 それなのに、スペルビアのその吐息が、嘘の甘さを煮詰めた声が、どうしても、アケディアの脳裏にリフレインする。

 目を閉じて、彼の息を聞いて、その息が乱れる妄想をする。

 彼に体を暴かれる妄想をする。

 彼の綺麗な指が己の体を這って、彼の嘘を、耳元に注がれる妄想をする。

 それだけで――簡単に、アケディアは己を慰めることが出来た。


 アレキサンドライトを握ったまま、アケディアは四肢をベッドに投げ出す。荒げた息は、頂点を迎えれば後は静まるだけだった。

「スペルビア……」

 ――彼の息は、ずっと乱れることなく、そこにある。不届き者の事など知らず、飲み干したらしいコップをキッチンにまで運び、水音で流して。

 ――彼は、ただ、何も知らずに。

「――……」

 アケディアの喉は震えなかった。まだ、呼んではいけない名を押し込めて、ただ口を開けたのを、もう一度閉じた。

 目に髪がかかっている。それが鬱陶しくて、軽く首を振った。己の黒髪が視界の端に映る。ベッドに散らばる、長いだけのそれ。スペルビアは長い髪が好きだが、きっとこの髪にフェチは刺激されない。どうして己が髪を伸ばすのか、それはもう忘れてしまった。惰性で、ただ、そこにあった。

 筋骨隆々な己の体は、彼を守ることは出来たとしても、彼に抱き締められることは無いだろう。

 掌を解いて、赤色のアレキサンドライトをぼんやりと眺める。己の目はどんな色をしていただろうか。

 興味が無かった。

 彼に愛されないものに、価値も無かった。

 ――スペルビアの息は寝息に変わる。

「スペルビア、」

 零すように声を落として、アケディアは目を細める。

 溜まった一雫が、シーツを濡らした。

 アケディアは口を開く。だが、発そうとした言葉は言葉にならないまま、口は再び閉ざされる。

「……良い夢を」

 もう一度開いた口は、別の言葉を音にした。




 ――その後。

 スペルビアとアケディアが恋仲という関係になったことで、アレキサンドライトは役目を終えたのだが――アケディアさえ忘れていたその一欠片がスペルビアに見つかることになるのは、また別の話である。

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