外編:彼等が始まる前の小咄 ※告白前
僕の最も古い記憶は、お父様が保有する研究所のうちの一つのとある部屋。棺桶を模した箱の中、数多のコードに繋がれて、一糸まとわぬ姿で、そこで『僕』は目覚めた。
最初に見たものは、赤色。
僕を覗き込む真っ黒な、巨大で分厚い男の、その長い前髪の奥に嵌め込まれた、とても美しい瞳の色だった。
身体を起こした僕を、その赤色はきらきらと瞬いて、じっと見詰めている。
その赤色に、何か懐かしい心地がした。だが、記憶を探っても何も見つからない。そもそも、探る記憶も無い。だから僕はぼんやりとした頭で、口を開いた。
「だれだ、きみは」
妙に呂律がはっきりしなかったが、男にその意図は伝わったらしい。だが、彼は答えるでもなく、愕然としたように瞳を見開いた。
泣きそうな瞳だった。
ただ、僕は、その潤んだ赤色が、なんだかとても綺麗で。
ただ。
――そして、僕に何があったのか、それは定かではない。
どうしてそうなったのかも記憶に無い。
次に目覚めた時、僕は壁の中に半分埋まっていた。前述の通り、一糸まとわぬ姿で、である。
後に悪友となるうちの一人、ルクスリアに助け出されなければもう暫くその状態だったに違いない。
何故そうなったのかとんと検討がつかないが、確実に例の真っ黒な男によるものだとはわかる。
それは紛れも無く、屈辱だった。
それ故に――例の男の名が『アケディア』であることと、僕を遥かに上回る、強大な力を持つことを知った僕が、アケディアを疎むようになることは、当然の摂理だったのである。
そういう訳で、『スペルビア』という名を与えられた僕は早々にアケディアを目の仇にすることとなった。
それがアケディアに伝わっていたのか否かは不明だが、アケディアも僕に必要以上の接触をすることを避けている。ルクスリアが言うにはアケディアはよく僕を見ているのだそうだが、僕はアケディアと目が合ったことはほぼない。僕がアケディアに視線をやった時は、大体アケディアは一人で微睡んでいるか、または――アーリマンと何かを話している。
――そう、アーリマンだ。僕はアーリマンのことも大嫌いなのだ。僕の後に『同胞』に加わったあの少年は、少年のかたちをしながら、『傲慢』を冠する僕よりも遥かに傲慢に、そして癇癪持ちの幼児のように手が付けられない。同じ幼児でもインウィディアは弱々しく、むしろ庇護欲や心配を煽るものだが、アーリマンは駄々を捏ねて辺り一帯を更地にするような奴だ。そんなもの、どうして庇護しようと思えようか。
そんなアーリマンは基本的に僕達を見下しているようだが、アケディアについてだけは例外らしい。恐らくはアケディアがアーリマンに並び――或いはそれ以上に――強大であるからだろう。
アケディアはといえばアーリマンに対しても『怠惰』的に接し、あまり積極的に相手をしているようではない。ただ、稀に――何を話しているのかは知らないが、アーリマンに笑いかける時があった。
それも、僕には妙に腹立たしい。そして腹立たしくさせられることがまた苛立たしい。笑いかけられる側のアーリマンが大体呆れた顔をしている事などはどうでもいいし、何を話しているのかも知ったことではないが、僕とはその赤い瞳を合わせないくせに、アーリマンにはその赤色を細めることが、妙に気に食わない。
それは嫉妬などではない。そんなことは有り得ない。僕は確かにあの赤色だけは美しいと評価しているが、アケディアのこともアーリマンのことも大嫌いなのだ。大嫌いな男と大嫌いな子供が楽しそうにしているのを見るのが腹立たしいのは当然であるだろう。
今日もまた、アジトの片隅でアケディアに構うアーリマンを見ることとなる。アケディアは面倒そうではあるが、確かにアーリマンにその目を向ける。
赤色。
僕が、目覚めて初めに見たあのうつくしい色。
その瞳が僕に向けられるところなど、僕はあの初対面でしか見ていない。
それがアーリマンには平然と注がれている。
腹立たしい。
苛立たしい。
だがこれは決して嫉妬などではない。僕がそんなことをするものか。僕はアケディアのことが嫌いなのだ。
嫌なものを見たから気分が悪くなっただけなのだ。
ああ、苛々する。女でも抱いて鬱憤を晴らそうか。
またアケディアがアーリマンに微笑みかけていた。それを遠目から見てしまって、僕は盛大に舌打ちを落とし、踵を返した。
*
――スペルビアが立ち去ったアジトで、アーリマンは呆れ返っていた。
目の前の巨体が珍しく微笑みまで浮かべて恍惚と饒舌に語ることには、スペルビアが如何に綺麗で素敵であるかという、いつもの話。
アケディアはスペルビアに嫌われている。それを指摘してやれば表情こそ無ではあるが見るからに落ち込むというのに、どうしてそうも嫌われている存在にめげずに愛を注げるのか全く理解が出来ないと、アケディアに言えば「お前が言うな」と言われそうなことを思いながら、アーリマンは溜息をついた。
アーリマンは、アケディアのことは気に入っているがスペルビアのことは嫌っている。それ故に、アケディアがスペルビアを褒め称えるのを聞くのは良い気分ではない。しかしただでさえスペルビアにしか興味が無いらしくアーリマンをさえ相手にしないアケディアの、その話を遮ればアケディアはさっさと自室に帰って寝てしまうだろうということは目に見えているので、アーリマンは渋々その賞賛を聞くしかないのである。
それでも悪態くらいはつきたくて、アーリマンは溜息をついた。
「アケディアってさぁ、趣味悪いよね。スペルビアに嫌われてんのにさ」
「……」
アケディアが口を閉ざす。それを言われてしまうのは、アケディアの現在唯一の弱点とも言えることだった。
――そんなことはわかっている。スペルビアは自分を嫌っている。そして、それはきっと一番の理由として、スペルビアが目覚めたあの時の『失態』によると、アケディアは理解していた。
――目覚めたスペルビアはぼんやりと、寝惚け眼でアケディアを見ていた。アケディアは沢山の感情が渦巻いていて、混乱していた。
だから、スペルビアの動きに気付かなかったのだ。ふんわりと、ぽやぽやと、寝惚けた彼がアケディアの瞳を見詰めて――
ぷちゅ。
そんな柔らかい温度が、アケディアの唇に伝って、やっと気が付いて、
――長年好いていた相手に唇を奪われたと気が付いて、頭が沸騰したとはいえ。
己の怪力を考慮せずに咄嗟に突き飛ばしてしまうなんて、それは紛れも無く、失態だったのだ。
スペルビアはそれを覚えていない。おそらく寝惚けていたことと、突き飛ばされて壁に埋まった衝撃で忘れてしまったし、思い出すこともないだろう。
思い出す度にアケディアは頭を打ち付けたくなる。せめて突き飛ばすのを耐えられれば、スペルビアが『記憶を封じられていても』、まだ良好な関係を築けたかもしれないと。
微笑んでスペルビアのことを語っていた先程と一転して落ち込みだしたアケディアを見て、アーリマンはまた一つ、溜息をついた。
――さて。
そんなアケディアとスペルビアの仲が進展することになるのは、まだ先の話なのであった。
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