番外編・時間軸不確定
外編:酒は飲んでも飲まれるな
始まりは、スペルビアがふと、アケディアの泥酔姿を思い出したことだった。
アケディアの本音を聞き出すために、ルクスリアから勝ち取った酒にスペルビアの魔力を込めて一本まるごと飲ませて泥酔させたのは一か月前のこと。あの時はそれどころではなかったが、あの泥酔姿は思い返すだけでも実に可愛らしかったとスペルビアは記憶している。
あれから、アケディアは素直に甘えるようになった。それは良いことだが、泥酔した姿はあれきり見ていない。そもそも、アケディアは普通ならいくら瓶を開けようと一切顔さえ赤らめない男だった。
――折角だからもう一度あの姿を見たい。可愛がりたい。あわよくば性的に。
そんな完全なる煩悩のために、スペルビアはルクスリアの自室へと足を向け、アジトの廊下に消えていった。
*
明日は休みだから二人で酒を飲もうと、スペルビアに連れ込まれた彼の仮家。その寝室にて、アケディアはベッドに腰掛け、目の前のテーブルの上、ワイングラスに注がれた酒を見下ろした。
スペルビアの瞳によく似た碧色の液体がグラスを満たしている。芳醇な甘い香りはそれだけでアケディアを酔わせそうだ。そして、その液体にアケディアは見覚えがあった。
「……これは……」
「僕の魔力を注いだ酒だが?」
隠すこともなくしれっと言い放ったスペルビアを、じっとりと――スペルビアは未だ立っているので――見上げる。筋骨隆々の大男に眉を寄せられたところで今更怯えた様子など見せず、スペルビアは鼻を鳴らした。
「君、これ気に入っていただろう?」
「……まあ、確かに、今まで飲んだ酒の中で一番美味かったが……」
しかし、この酒は非常に、本来なら酒など水に等しいような酒豪のアケディアを酔わせてしまう。愛しい愛しいスペルビアの魔力で満たされた液体がアケディアの腹に入るなど、その事実を知っているから余計に酔っ払ってしまいそうだ。そう、アケディアは溜息をついた。
飲みたい気持ちは当然ある。しかし、前回酔っ払った時の記憶はないが、スペルビアが録音した記録は途中まででも非常に恥ずかしいことを口走っていた。それを知っているから、飲むのを躊躇ってしまう。スペルビアに情けない姿は――彼がそれを望んでいたとしても――あまり見せたいものではなかった。
「いいじゃないか、明日も明後日も休みだ」
スペルビアはといえばにっこりと笑って、グラスを差し出す。液体が揺れる。同時に魅力的な香りがアケディアの鼻を擽って、アケディアの躊躇いを揺るがせる。
「なぁ、アケディア」
するり、と、歩み寄っていたスペルビアがアケディアの髪を撫でる。耳元に唇を寄せて、低く甘く、テノールを落とす。ぞくりとアケディアの腰が痺れた。スペルビアはこの声がアケディアによく効くと分かってやっているに違いない。極めつけには、距離が近いためにスペルビア自身の匂いがアケディアを襲う。深い甘さのマリンの香水は、スペルビア自身の匂いと混ざってアケディアの鼻を通り、脳を溶かす。酒の一滴も飲んでいないのに、酔っ払う心地がした。
「乾杯をしよう。な?」
そう笑われてしまえば、アケディアに否は無かった。
「しゅぺぅびぁあ……」
スペルビアの膝に頭を乗せて、すっかり酒に呑まれたアケディアが管を巻いている。こうも簡単に酔わせられるとはなんてちょろい奴だと、犯人たるスペルビアは少々心配になった。
ここにルクスリアかグラあたりでも居れば「アケディアがちょろいのはスペルビア限定だろう」とでも言ってくれただろうが、残念ながらこの場にはスペルビアとアケディアの二人しか居ない。故にスペルビアの思考は正されないまま、スペルビアは余った酒を――アケディアが酒の正体を知っているがためのプラシーボ効果のせいもあろうか、今回は前回よりも酔い潰れるのが早かった――ひとつ、煽る。不味くはないが、特段美味いとも思わないのは自分の魔力だからか。ならばアケディアの魔力を溶かしたならば最上の味がするかと、ぼんやり考えた。
「しゅぺぅびぁ、らいしゅきぃ……」
語尾にハートがつきそうな、舌の回らない甘い声でアケディアはスペルビアの腹に擦り寄る。真っ赤な顔は情事中のようだが、その顔は快楽に耐え眉を寄せつつも蕩けたそれではなく、完全に眉を下げてふにゃふにゃと笑んでいた。
アケディアの前髪は長い。普段は顔の半分以上を覆い隠してしまっているそれをかきあげてやると、アケディアの顔がよく晒された。酒の赤らみを除けば目元は隈のように黒ずんでいるが、暇があれば寝ている彼に睡眠が足りないわけではないだろうから元々の性質か。今は垂れ下がった眉は太く、案外彫りが深い。アケディアは『怠惰』に相応しく己を磨くことは――その度を超えたほどの筋肉を除き――少ないが、整えればまあまあ男前になりそうな、精悍な顔をしている。
そう分析しながら見下ろしていると、ふにゃふにゃ笑いながらスペルビアを見上げていたアケディアは、だんだん目を逸らして、やがてスペルビアの腰に腕を回して腹に顔を埋めてしまった。
「どうしたアケディア」
「んぅ……」
ぺちぺちと頬を軽く叩いて答えを催促すると、アケディアはむずがった後におずおずと顔を少し出して見せる。そうして、照れたように目を細めた。
「……しゅぺぅびぁに、みちゅめられぅ、の、はずかし、ぃ……」
どすりと、スペルビアは心臓に矢が突き刺さったような衝撃を覚えた。アケディアはといえば再び腹に顔を埋めてしまったがスペルビアはそれどころではない。
なんだこの可愛い生き物。2mを超えた筋骨隆々の大男の癖に。
アケディアの可愛い姿が見たいがために酔わせたくせに、スペルビアは己の軽率な行動を若干後悔していた。これは破壊力が強すぎる、アケディアの普段の姿とのギャップも相俟って危険すぎる、もっと心の準備をすべきだった、と。
アケディアはぐりぐりと顔をスペルビアの腹に押し付けている。酔っているなりに力加減はしているようで、痛みは無い。それがまたスペルビアの心臓に悪かった。
「んぅ……しゅぺぅびぁ、いーにおい……」
甘く蕩けたバリトンがそんなことを言うから、スペルビアの理性は簡単にちぎれてしまった。
闇の魔力を操ってアケディアを反転させ、ベッドに押し倒す。アケディアはきょとんとその赤い瞳を瞬かせたが、やがて眉を顰めた。
「……うー、しゅぺうびぁ、とぉい……」
どうやら膝枕を解除されてスペルビアが離れたことが不満らしい。こいつは可愛さで僕を殺す気だろうかと考えるスペルビアの脳も、自覚は無かったが大分酒にやられていた。スペルビアに手を伸ばすアケディアの頬を撫で、笑いかける。
「そう拗ねなくても、僕はここに居る」
「……しゅぺるびぁ、だっこ……」
撫でられて気持ち良さそうに目を細めたアケディアが、そう求める。それにまたときめかされながら、スペルビアは笑いかけた。
「ああ、心配しなくても今から抱いてやる、」
から。
そう続ける前に、スペルビアは口を噤むこととなった。それは酔っ払いとは思えないほどの強い力で、アケディアに抱き寄せられたからであった。スペルビアの顔は思い切りアケディアの胸にぶつけられる。力の入らない柔らかで豊満な胸筋に顔を埋めるのは気持ちがいいことではあるが、勢いが強すぎて人より高い鼻が痛んだ。
「えへへぇ……」
アケディアは幸せそうに笑っているが、その腕はビクともせずにスペルビアを捕縛している。酔っ払いとは思えない力だが、その備えられた筋肉量から考えれば弱い力だ。恐らくはスペルビアの骨を抱き折らないよう加減している――アケディアはやろうと思えば人の頭も握り潰してしまえる力があるのだ――のだろうが、それにしても動けない。これから、当然ハグではなくセックスの意味で、抱こうしているのにそれは困ったことだった。
しかし解放する素振りもなく、アケディアは身を屈めてスペルビアの髪に鼻を埋める。すん、と、スペルビアの頭皮に息が吸われる感覚が与えられた。
「おれ、なぁ、おまえのにおい、だいしゅきなんらぁ……」
上機嫌に笑いながら、アケディアは言う。
「こうすいもいーけど、おまえの、あせのにおい、すっごいえろくって……こーふんする……、かみも、いいけど、いんもー、のさぁ、におい、なんか、すごいクるの……」
――アケディアはどうやらなかなかのレベルの匂いフェチらしい。スペルビアにとっては新事実である。そういえばアケディアはスペルビアの『もの』を咥えることや顔にかけられるのが好きだったと記憶しているが、それは匂いに興奮していたようだった。
それを知ってスペルビアに起こるのは驚きと、一種の興奮である。アケディアは筋骨隆々の大男で、怠惰的で、性的なことにも興味が無さそうであるのに、実際の所はスペルビアからの支配を望むマゾヒズムを持ち合わせた、性欲の強い、匂いフェチの変態なのだ。しかもその全てはスペルビア限定で発揮されるものとあらば、愛しさと興奮と支配欲が湧き上がる。
――だから今すぐその体を開きたいのに、抱き締められた腕から離れられない。そう、物理的に。
「……アケディア。君の大好きな匂いを嗅がせてやる。嗅がせてやるから、離せ」
「……」
「アケディア……?」
返事が無い。スペルビアの聡明な脳は嫌な予測を導き出す。そして悲しきかなスペルビアの聡明な脳が導き出したものは、正解だった。
上から聞こえるのは、規則正しい寝息。
眠っているくせに腕の力は弱まる気配もなく、しっかりと抱き締められていて動けない。
「…………生殺しか……ッ」
アケディアの幸せそうな寝息の中で、スペルビアの吐き捨てるような声が響いた。
スペルビアが果たして安眠することが出来たか否かは――スペルビアのみが知ることである。
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