熊の欣幸

 アケディアがどれだけの間スペルビアへ想いを寄せていたのか、スペルビアは知らない。

 だが、インウィディアやルクスリアの口振りからして、きっとかなり長いのだろう。その間、ずっとスペルビアは、アケディアを疎んでいたのだろう。

 愛する者に疎まれるのは、どれだけの傷を負うものなのだろうか。



 アケディアが目覚めたのは、もう正午を少し過ぎた頃だった。見覚えはあるが、見慣れてはいない部屋。寝起きのぼんやりとした頭で、数十秒後にようやくそこがスペルビアの仮家の寝室であることを把握する。そうして、月見酒に呼ばれたことも思い出した。

 月見酒といっても全く月を見た記憶がない。起きようとしたが、ぐわんと頭が揺れてベッドに逆戻りに伏す。二日酔いか、と、冷静に判断した。痛みはそれほどだが、急に動くと脳味噌が揺れる感じがする。

 ベッドからはスペルビアの匂いがして、ゆっくりでも起き上がろう、という決意を揺らがせた。もう少し、もう少しだけ、大好きな匂いに包まれていたい。もう少しだけだから、と、自分に言い訳して枕に鼻を埋める。

 アケディアは匂いフェチだった。スペルビア限定で、だが。

「アケディア、起きたか?」

 ガチャリと扉が開く音と、愛しいテノール。頭が揺れない程度の速度で振り向くと、この仮家の家主であるスペルビアが水の入った吸飲みを手に立っていた。

「……すぺ、る、びあ……」

「ああ、無理に動かなくていい。あれだけ泥酔すればキツいだろう」

 アケディアが起き上がる前に、スペルビアがさっさと歩み寄ってアケディアの頭を撫でて、優しくベッドに戻す。ぽすり、とまた柔らかい枕に顔を埋めた。

「吐き気や痛みはあるか? 水を飲んだ方がいい」

「……そういうのは、ない。少し、動くのが、億劫なだけだ……」

「あれだけ潰れてそれくらいで済むのか」

 流石だな、と言いながら、吸飲みの口を近付ける。素直にそれを咥えて吸うと、冷たい水が乾いた喉を潤した。脳や目が冴えてくる。

「……スペルビア、ごめん……迷惑、かけた……」

 一言、謝る。スペルビアの顔は見れなかった。酒には強いと自負している。酔ったことなど一度もなかった。それなのに、よりによってスペルビアの前で泥酔するなんて。

 もし呆れられていたらどうしよう。もう晩酌に誘ってくれないかもしれない。そう考えると、アケディアの胸は重たくなって、泣きたい気持ちになってくる。実際に泣きはしないが。情けない、というのもあるが、スペルビアはメソメソするような弱い奴は嫌いだから。

 スペルビアは叱責するでもなく、アケディアの頭を撫でる。

「謝ることは無い。君を酔わせるつもりで呼んだのだから」

「……、え……?」

 スペルビアの返事はアケディアには全く予想もしていなかったもので、思わず顔を上げる。アケディアを見下ろすスペルビアは、いつも通り涼しい顔をしていた。

「昨日の酒は美味かったか? あれはな、ルクスリアから手に入れた、魔力を蓄える酒に僕の魔力をたっぷりと注ぎ込んだものだ。まさかそれで、ああも簡単にワクの君を泥酔させられるとは思わなかったが」

 その言葉に、返事も返せずにアケディアは口をぱくぱくと開閉する。昨日の酒は、正直な所とても美味であった。蜂蜜を溶かしたように甘く、それでいて後味はさっぱりと爽やかで。スペルビアの瞳のような碧色もアケディア好みで、ついつい注がれるままに飲んだ記憶が朧気ながらある。

「君としては何故酔わされたのか不思議だろうな。まあ、これを聞け」

 スペルビアが懐からキャッツアイが嵌め込まれたブローチを取り出してサイドテーブルに置く。アケディアの顔から血の気が引いた。キャッツアイは、蓄音の性質を持つ筈だ。酔っている間に一体何を口走ったのか、と。

 スペルビアの形のいい唇が、キャッツアイを撫でながら、呪文を唱えた。

『……じゃぁ、ねぇ……だっこ、して……?』

 アケディアの声が、宝石から流れ出す。アケディアの顔が青くなった。

 だって、ずっと我慢したのに。スペルビアに、もう二度と嫌われたくなくて、疎まれたくなくて、我慢していたのに。

『あたま、なでて、ほしぃ……し、なまぇ、よんでほしぃ……すぺぅびぁの、におい、だいしゅきらから、いっぱいかぎたい、し……』

 バリトンの男の猫撫で声など気持ち悪いだけだ。だから隠していたのに。こんな欲望を知られたくはなかったのに。

『……あと、ねぇ、おれだけ、みててほしい、なぁ……、すぺぅびぁが、ちがうやつのこと、かんがえへるの、』

「やめ、ろ……ッ!」

 頭が揺れるのも構わずに飛び起きて、サイドテーブルに輝くブローチを握り締めた。拳に遮られて、音は聞き取れなくなる。本当は叩き壊したかったが、スペルビアの私物を壊すなどということはアケディアには出来ない。

 アケディアの体は、情けなく震えていた。

 隠していた欲望がバレてしまった。スペルビアはどう思ったのだろう。折角、笑いかけてくれるようになったのに。また疎まれてしまうのだろうか、嫌われてしまうのだろうか。


「アケディア」


 ――震えるアケディアの巨体は、スペルビアには小さく見えた。サイドテーブルに上体を伏せたアケディアは顔を上げずに、「ごめんなさい」と繰り返す。

「めんどくさく、て、ごめん……ちゃんと、我慢、するから、だから、嫌わないで……隣に、居させて、」

「アケディア」

 歩み寄り、伏した顔に掌を添えて上げさせる。見開いた赤い瞳は揺れて、今にも泣き出してしまいそうだった。

「我慢、と言うが、君我慢してないだろう」

「……っ!?」

「我慢というのはな、自分の内に抑え込んで、実行しないことを言うんだ。僕と話す奴を威圧したり僕と別れた女を殺している時点で我慢じゃなく、隠しているだけだ」

 アケディアの瞳が揺れている。垂れ下がった眉は情けなく、沙汰に怯えているようだった。

 スペルビアは堪えきれずに口角を上げる。

「君は我慢するだとか何とか、殊勝なことを言うがな。僕は君が本当は、物凄く我儘なことを知っているぞ。そうして、それを巧妙に隠そうとするくらいには狡猾だ」

 笑って、スペルビアは身を屈める。そうしてそのまま、アケディアの唇に噛み付いた。

「……ぅン……ッ!?」

 寝起きで乾いた唇はカサカサで、別に触り心地は良くない。だけどそれもアケディアらしい。ぬるりと乾いた唇を舐めてやると、アケディアの肩がびくりと跳ねた。くちを離すと、アケディアが目を丸くしてこちらを見ている。間抜けな顔だった。ふ、とスペルビアは自然と笑みを零す。


「そういう所が、可愛いよ」


「……、ふ、ぁ?」

 アケディアがぽかんと、間抜けな顔をしていた。半開きの口さえ愛おしくて、スペルビアはまた笑う。そうして、再び顔を近付けた。

「っん! ……っん、ふぅ、む……ッ」

 ちゅっ、ちゅっ、とわざと音を立ててその唇に何度も口を合わせて、舌を這わせる。ついでに涙を溜めた目尻にもキスを落として、それから頬に、鼻に、と、至る所を可愛がる。

「ああそうだ、抱っこされたいんだったな、アケディア」

「っ……ぅわっ!?」

 ぐい、とスペルビアに腕を引かれて、アケディアが感じる浮遊感。スペルビアに抱き抱えられた、と気付いて、すぐさまアケディアはそんな馬鹿なと慌てた。スペルビアはアケディアよりずっと小さくて細くて、アケディアを抱き抱えられるほどの力は無いはずだ。

 そして、その疑問はすぐに解消された。アケディアの体重の殆どを支えているのはスペルビアではなく、スペルビアの影から伸びる闇の魔力だ。それに気付いて、つい、己の背を支える闇を凝視していると、スペルビアが拗ねたような顔をする。

「仕方ないだろう、僕では光属性の強化魔術は使えん。これが限度だ、妥協しろ」

 そう言って、アケディアを抱き寄せる。闇の魔力の補助があるとはいえお姫様抱っこされるような体勢で抱き寄せられるとスペルビアの肩に顔を埋めることになって、スペルビアの匂いを感じ取れた。スペルビアのセミロングの、柔らかい髪がアケディアの顔を擽る。

「……、……うん、幸せ……」


 ――ああ、彼はやっぱり、変わらない。

 誰よりも格好いい、俺の――


 アケディアがふにゃりと、心から幸せそうに笑う。それを見て、スペルビアが鼻を鳴らした。

 そしてアケディアの額と己のそれをくっつけて、笑う。

「もう隠すなよ。甘やかしてやるから、君の我儘を見せてくれ」

「……ん、」

「あとは何だ、女を殺し回る必要は無い。僕が見ているのはもう君だけだ」

「……考えとく」

 どちらともなくキスをして、笑い合った。





「スペルビアさぁ、アケディアの手綱ちゃんと握っててくれない?」

「なんだグラ、可愛いだろう?」

「あの狂犬にそんなの言えるのスペルビアくらいだと思うんだよね」

 それから数日後、アケディアの自由度と二人のイチャつき度が増して、スペルビアに苦情が舞い込むようになったのは、また別の話である。

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