敗者の謳う幸福論 後
決してアケディアを愛でるのを愉しんでいるのではない。これは苦痛な前準備なのだ。そうだ、苦痛なものはさっさと終わらせてしまおう。相手を支配するのに一番手っ取り早いのは身体に快楽を叩き込んでやることだ。
――そう考えたスペルビアは、その夜、己の仮家にアケディアを呼び寄せることにした。
そうして、スペルビアの寝室――今迄にも女を連れ込んだことがある、勿論そういうことをするので、それなりに広いベッドを備えていた――にやってきたアケディアは、いつもの上着類やタイを脱ぎシャツとスラックスだけの簡易な格好でベッドに腰掛けて手招くスペルビアを怪訝な顔で見下ろす。スペルビアが自身を呼び寄せた理由をいまひとつ理解していないようだった。
「どうしたアケディア。早く来いよ」
「……何の用なの、スペルビア」
「知れたことを。恋仲の二人が夜にベッドのある部屋ですることなんて一つだろう?」
その言葉に、アケディアが眉をさらに寄せる。不愉快そう、というよりは、疑問符を浮かべた様子で。
スペルビアとしては、アケディアがそういう反応をするのが意外だった。微笑みかけて頬に触れてやるだけでその目に熱を帯びさせるほど僕に惚れているくせに、性行為に関してのその微妙な反応は何だ、僕に抱かれたいと思っているんじゃないのか、と。
同時に、何だか妙に不愉快である。求めた反応が無いからだろうか? 少なくともスペルビアは、アケディアはまた、交際を提案した時のように、目尻を赤らめる、あの顔をすると思っていたのだった。だが、実際には彼は眉を寄せて疑問符を浮かべるのである。それが妙に気に食わない、が、何故こうも気に食わないのかは分からない。
――僕の目的はこいつを惚れこませて突き落とすことだ。手っ取り早く快楽に溺れさせようというのに、拒絶されては面倒臭い。ああ、きっとそういうことだろう。
この不愉快さにとりあえずそう理由をつけて、スペルビアはもう一度ベッドを叩いた。
「何だ? 君は僕に抱かれたくないと? 女役を受け入れたのは君だろう?」
「……いや、」
若干苛立ちを含んだ声でそう詰問するスペルビアに、アケディアが何か言いかけて――少し迷うように赤の瞳を彷徨わせた後――また口を開く。
「……お前、俺で勃つの?」
そんなことを言われて、スペルビアはライトブルーの瞳を一つ瞬かせた。
そういえばすっかりと失念していた。何故だろうか。冷静に考えて、いや冷静に考えなくとも、好きでもないガタイのいい大男に勃つわけがない。自身はゲイではない。しかし勃たなければヤることもヤれない。そんな簡単な事、普通、忘れなどしないだろうに――
しかし、そんな動揺を、目の前の怠惰に悟られるわけにはいかなかった。この男を魅了させなければならないのだ。自身の目的を知られるわけにはいかない。女の体でも想像して扱けば勃たないことはないだろう。だから、いつもの笑顔を取り繕って、「当然だろう」と笑った。
「愛しているのだから」
――嘘だな、と、アケディアは密かにフードの下で目を細めた。
スペルビアがアケディアを愛していないことなどわかっている。この狡猾な獅子は、己を突き落とすためだけに恋人ごっこを続けているのだから。大方、抱くことにしたのは、手っ取り早くこの恋人ごっこを終わらせるために、快楽を叩き込むつもりなのだろう。まあ、賢い方法ではある。生き物は快楽に弱い。生き物とは言いがたい自分達もまた、快楽を感じるだけの機能を持つ以上、抗えないものはある。この傲慢な獅子は、とうとう決定的な毒牙を首に突き立てようとしているのだ。
――その全てをわかって、しかし、アケディアは自らベッドの方へ歩みを進めた。この白く広いベッドは言うならば、罠だ。アケディアを引き摺り落とし踏み躙るための、甘く惨い罠。分かりながら、アケディアは、反するつもりは無かった。だって、ずっとずっと望んでいた。スペルビアに触れてほしかった。あの細くうつくしい指で、整った色の薄い唇で、この体に。喩えそれが、致命的な毒針であっても。
――愚かな話だ。だが仕方ない。愛は人を愚かにする。惚れた者が負けだと、よく言ったものだった。
それでも、彼と居るためににんげんを捨てた。ならば、彼に触れられるために、捨てるを惜しむ物があるだろうか。
――実の所、後ろの準備の方は、スペルビアに呼ばれてから、此処に来るまでに済ませていた。あいつが俺を抱くなど有り得ない、と思いながらも、少しは期待していたのだ。浅ましい、と嗤ったが、無駄にはならない、かもしれなかった。
彼の隣に腰掛ける。フードを脱いで、ローブの留め具を外した。ぱさり、とストールを床に落とす。そして、冗談めかして少し口角を吊り上げ、スペルビアに笑った。
「……優しくしてくれよ。洗いはしたけど、一応、初物なんでね」
アケディアの肩を押すと、彼は簡単にベッドに身を沈める。アケディアはいつも複数のケープだのローブだのを重ねて着ていて実に露出が少なく、たまにアジトの共同風呂で鉢合わせる時位しかその肌を見たことは無い。その時もそうじっくり見るものでもないので、今、前を開けさせて露出させた肌が、ある意味初めて見るようなものだった。
筋骨隆々、という言葉がまさに相応しい、完成された身体。太い骨を感じさせる骨格、しっかりついているが均整のとれた筋肉――と、それはスピードタイプであるが故に自身には不必要なものであると分かりながらも実に男としての矜持を刺激するもので、スペルビアは少し複雑な気分を味わうことになる。身体の左側、胸から腰にかけて刺青が入れられていると初めて知った。
男として、素晴らしい肉体だ。しかしそれに欲情するかというとまた別の話なのである。アケディアの乳首が陥没していることに目がいったとかそんなことはない。目がいったとして意外だったというそれだけだと、スペルビアは自分で納得する。
アケディアを押し倒す形になって、脳内で何とか今迄抱いた女の体を想像しようとするが、不自然になるため目を閉じられないのも手伝って上手くいかない。仕方がなくアケディアの肩に顔を埋め、己の視界を遮って想像してみるも、悲しきかな下半身は反応しない。スペルビアは、己が器用だと自負していた。好きでもない不細工な女を仕事のために抱いたことは幾度もある。しかし今回は、いくら女を想像しても反応しない。そういえばアケディアと偽りながらも恋仲になってから性行為から離れていたが、まさか不能になった訳では無いだろう。
密かに焦っていると、アケディアの溜息が横から聞こえた。
「……無理しなくていいよ。勃たないんだろ」
まるで分かっていたように言うので、驚いてスペルビアは顔を上げる。アケディアは相変わらずの無表情で、空を見ていた。
――アケディアとしては事実、予想の範疇である。スペルビアは美しいものが好きだ。潔癖のきらいもある。そんなスペルビアが、自身に勃つとは思わない。結局、まあ、後ろの準備は無駄になるわけであった。くっ、と、密かに自嘲を零す。
「……いや、しかし」
スペルビアが唸った。思えば、こういう仲になってから、珍しいスペルビアが沢山見れている気がする。間抜けな驚いた顔や、こうして困ったような顔。捨てられる前に抱かれるのも良いかと思っていたが、抱かれなくとも、こういう顔を見れただけで成果はあったのだろうか。殆ど勢い任せの告白であったが――そこまで考えて、今度は自嘲ではない笑みが漏れた。
「アケディア?」
スペルビアが眉を顰めた。突然の笑いが理解出来なかったのだろう。
「……別に、良いよ、抱かなくても。俺は、お前が応えてくれると思ってなかったし、こうしてお前の色んな顔や格好見れるだけで、幸せだから――
――喩えそれが突き落とすための偽りだったとしても、十分だ。もうずっとお前に焦がれた馬鹿な男は、それで満足してしまえる」
嗤っていい、と、アケディアは言った。それを、スペルビアは聞いた。
目を見開いているのが自分でもわかる。きっと間抜けな顔をしているんだろう、と、スペルビアは、自分のことなのに妙に冷静な脳の一部で考えた。
偽りだと、突き落とそうとしていたのだと、分かっていたのかなんてそんな事はもうどうでもよかった。目の前のアケディアの笑顔から、何故かスペルビアは目が離せない――その方が重要だったからだ。
柔らかく笑った、少しだけ赤くなった目尻の、いつも無表情な男が湛える愛おしさに溶けた顔。交際を提案した時の顔を彷彿とさせる、何故か少し懐かしいような気もする、そんな――
――ああ、そうか。そういうことか。微妙な反応のアケディアが気に食わなかったのは、女の体の想像で勃たなかったのは。
理解して、スペルビアには笑いがこみ上げた。悔しいことに、ルクスリアは正しかったらしい。腹立たしいが、だが、もう、どうでもいい。
相変わらず自身を押し倒しているスペルビアが唐突に笑ったことで、アケディアは怪訝に眉を寄せた。確かに嗤っていいと言ったのは自分だが、アケディアを嘲笑っている、というのとは、また違う笑いな気がする。
「スペルビア、どうし、……!?」
声をかけて、しかしアケディアは不自然に固まってしまった。それは押し倒されて開かれた股の間に、何か固いものが押しつけられた吃驚であった。
それが何かは、同じ男だ、言われずともわかる。が、このタイミングでそうなった理由が全くわからない。
「アケディア、」
スペルビアのその声で、ぞくん、と背筋に電流が走り抜けたような錯覚に陥る。耳元で囁かれたのは変哲もない自身の名だ。偽りの恋仲になってからは、いやに甘い声で呼ばれて、嘘の甘さと分かりながらも体が跳ねたそれだ。だが、今迄とは全く違う温度を持ったその声に、知らずびくびくと身体が跳ねて、腰に甘い痺れが走る。
――なんだ、この声は。アケディアは混乱の極みに達していた。顔が熱い。首まで熱い。だって、これは、今迄の女に囁いていたそれではなく、偽物の甘さなんかじゃなく、真に、奥の奥まで蜜を詰めた、そんな。
こんな声は知らない。
スペルビアの指がアケディアの腰に回っていた。服の下を這わせ、筋を一つ一つなぞるように、丁寧に嫌らしく撫で、それが刺青に触れた時、またびくりとアケディアの大きな体が跳ねる。
スペルビアのライトブルーと目が合った。ぞくんっ、と、また背筋に電流が走る。
それは確かに、雄であった。
――スペルビアは実に楽しんでいた。目の前の巨体が自身の行動の一つ一つで簡単に揺らぐ。なんと愉しいことか。なによりも、その混乱に満ちた赤い瞳と、同じ色に染まった顔が愛おしい。とても可愛らしい。実に、艶かしい。
熱く固くなった自身を、主張するように押し付けてやれば巨体が大袈裟なまでに跳ねる。
アケディアがいっそ可哀想なほどに顔を赤く染めて、酸素を求める魚のようにはくはくと口を戦慄かせる。だから、その唇を塞いでやった。
「っん……!?」
びくつく巨体は全く力が入っておらず、簡単に抑え込むことができる。思えばキスも初めてだっただろうか。思っていたよりも柔らかく温度の高いそれを、味わい、嬲り、唇だけをそうやって虐めて、それから解放してやる。口内を犯すのはまた後でにしてやろう、と、スペルビアは舌舐めずりをした。
キャパオーバーでも起こしたのか、アケディアは顔を真っ赤に染めたまま、涙の張った目を見開いて、呆然とスペルビアを見上げている。そんな様子に、くつりと笑って、スペルビアはまた下半身を擦りつけた。
「……なぁ、アケディア。勃ったんだ」
もうとっくに分かっているだろうことを、敢えて教えてやると、またびくりと巨体が跳ねる。
「良いんだろう? ……君を僕の、オンナにして」
アケディアは目を見開き、呆然としたまま、しかしゆっくり頷いた。それを確認して、スペルビアは腰に回していた指をするすると撫で下ろしていく。
古来の先人の言うことには、惚れた者が負けらしい。
――さて、負けたのはどちらか。
完
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