敗者の謳う幸福論 前

 古来の先人が語ることには、惚れた者が負けらしい。



敗者の謳う幸福論



 アケディアの告白と、スペルビアの画策によって、二人が名義上『恋人』なる立場になってから、一つの月を巡った。

 それを早いと感じるか遅いと感じるかは当人達次第であろう。ただこの二人に関しては――自身にとっては早く、スペルビアにとっては遅いのだろう、と、アケディアは独りごちた。

 怠惰を冠する彼は、その名にそぐう性格をしていると自負しているが、頭の回転と察しの早さは決して愚鈍ではない。何より、筋骨隆々とした大男が抱くにはあまりにも似つかわしくなく女々しい感情だとは分かっていながらも、長年彼に想いを寄せ彼の事を眺めていたのである。スペルビアのその――ヒステリックな女であれば最低だの最悪だの恋心を弄ぶなんてだのと喚き散らしそうな――企みを察することは、そう難しいことではなかった。

 スペルビアが己の頬を撫でる。微笑みかける。あらゆる者が騙されるだろう完璧な、美麗で情愛に満ちた笑み。それらは全て己を罠にかけるための偽りの仮面であることをアケディアは分かっている。アケディアの首に手に足に、重い球のついた鉄の輪を着けて、いつかどん底に突き落とすための前準備だと分かっている。この目の前の美しく狡猾な獅子は、己を蹴落として踏み躙り嗤う日を想像してはその形のいい唇を舌で潤している。

 これらは全て、スペルビアを、気の遠くなるほど昔から見ていたアケディアだからわかることである。彼は狡猾だ。今は荒み隠された心根の優しさとは別に、敵とみなした相手への容赦のなさも兼ね備えている。

 一体どれほどの女が彼の本心に気付かず騙されて、どん底に突き落とされて悲痛に喚いたのだろうか。実に愚かで、哀れな話だ。

 そして、その愚かな女達と同じ末路を歩むと分かっていながら、獅子の差し出す赤い靴を履く自分自身こそが何より愚かで哀れなのだろうと、アケディアは一人自嘲した。



 ――さて、一方のスペルビアはと言えば、ともすれば笑い出してしまいそうなほど、愉悦に浸っていた。

 アケディアの告白を受けた時ははっきり言って半信半疑だったが、どうやらアケディアの恋心は真なるものであったらしい。スペルビアは長年の経験から、良く己の事を知っていた。己の魅せ方を知っていた。己の顔は髪は声は、良く良く他人を魅了することを知っていた。その経験を遺憾無く発揮して、アケディアの好みそうな顔で素振りで、その頬を撫でてやれば、変わらない無表情の奥でアケディアの赤い瞳が僅かに熱を帯びる。そのことを見た時は、歪に嗤ってしまおうとする口角を抑えるのに苦労したものだ。彼の野暮ったいフードを引き寄せて、その耳元で蜜のようなテノールを吹き込んで、甘い甘い毒を注いでやる。そうすると、この恰幅の良い大男の肩が生娘のように跳ねるのが愉快だった。

 実に順調に、かの『最強』を蹴落とす準備は整っている。一つ問題をあげるとするなら、あの鋼のように動かない無表情を、逞しい巨体を、蜜を注いで乱してやることが愉しすぎることくらいだった。

 そう、あんまりにも愉しすぎて、手放すのが惜しくなってしまうほど――


 ――惜しいだと?


 はて、と、そこまで考えて、スペルビアは機嫌よくアジトの古びた廊下を歩いていた足を止め、首を傾げた。


 ――何が惜しいものか。むしろ、待ち遠しいはずだ。僕の目的は忌々しくも僕の上に立つあの怠惰を、引き摺り落として蹴落としてやることだ。これはあくまでも準備に過ぎない。そう、必要な準備であり、でなければ、自分より大きくゴツく柔らかくも可愛らしくもない男を愛でることの何が――

 ――否、無表情であまり筋肉を使わないからか頬は柔らかかったし手入れもろくにされていない前髪に隠れた顔は案外悪くないというか目尻を赤くして瞳に熱を湛えたそれは中々――

 ――いやそうじゃない。思考が変な方向に行った。話を戻そう。僕は奴を愛でるのが愉しいんじゃない、まんまと策に嵌っていくのが愉快なんだ。そうであるはずだ――


「機嫌良いと思ったら急に一人で頭振って、何してんだよスペルビアぁ」

 横に逸れた思考を戻すためかぶりを振っていたスペルビアは、唐突に聞き慣れた声をかけられてそちらを向いた。そこに居るのは案の定、『色欲』たるルクスリアである。

 見られていたのか、とスペルビアは顔を顰める。実力的にも下にあたるルクスリアが見えるほど近くにいたことに気付かなかったこと、それほどに自分がアケディアに関することに気を取られていたということも含め、スペルビアには気に食わなかった。そんな『傲慢』の機嫌の降下を特に気にすることなく、相変わらずルクスリアはその常人より長い舌を出し、下品に歯を見せてけたけた笑う。

「全く最近の傲慢様は浮かれててよぉ、見せつけてくれるぜ」

「……浮かれているだと? 僕が? 戯言も大概にするんだな」

 ルクスリアの――スペルビアには実に的外れに思える――指摘に、益々その秀麗な眉を顰める。美人の不機嫌な顔は恐ろしいものだが、それさえ無視して、ルクスリアは長い上によく回る舌で己の上唇を舐めた。

「アケディアとくっ付いたんだろ? アイツのブツはさぞや立派だろなぁ、アレに掻き回されたら最ッ高にトべるんだろぉ?」

「……下卑た妄想は止めておけよ、『色欲』」

「おっと、怖い怖い」

 スペルビアの周囲に苛立ちを纏った闇の魔力が渦巻いて、漸くルクスリアは嫌らしい笑みを浮かべたままであるものの口を閉ざした。舌打ちを一つ零して、スペルビアは無駄に引き際の良い同僚を睨む。その長い舌を貫いてやろうか。どうせ死にやしない。そう思うものの、ルクスリアのそういう軽口は言ってしまえばお家芸であり、態々同じ土俵に上がるのも下らないと、溜息を落として殺気を引っ込めた。

「……言っておくが、僕が上だ」

 それだけは訂正しておく、と、ルクスリアはきょとんと間抜けな顔をする。それほど意外だったのだろう。失礼な話だが、まあ、分からなくもない。体格実力共にアケディアの方が上だ。事実、スペルビア自身アケディアに告白された時はアケディアが己を押し倒そうとしているのだと思っていた。

 ――そう言えば、それを否定した彼の、むしろ俺はお前に、と言ったその先、何を言おうとしたのだろうか。話の流れから考えると、あいつは初めから僕に抱かれたかったという意味にも取れる。しかし、相手は『あの』アケディアだ。果たして、そんなことがあるか? だが、君が女役だ、という条件を飲むことに彼は難色を示さなかった――

「はー、まぁた考え込みやがって。恋煩いかよお熱いねぇ」

「……そんなわけがあるか」

 ルクスリアの声で思考の海から引き戻された。苛立ちながらそう言うと、ルクスリアが「そーかよ」と言ってニヤニヤと笑う。信じていないことは丸分かりで、それがまた腹が立った。大体、またと言われるほどアケディアのことばかり考えているわけでは――と、否定しようとして、否定出来ないことに気が付く。そういえば、告白されたあの日から奴のことばかり考えている気がすることは否めない。


 ――いやしかし恋煩いな訳がないだろう、恋をしているのは向こうであって、僕はそう、奴を上手く罠に嵌め、引き摺り落としてやるために、慎重に策を巡らせているに過ぎない。


 そう、一人で考えて言い聞かせる様に内心で頷くスペルビアを見て、やれやれとこれみよがしにルクスリアは肩を竦めた。腹が立ったので闇の刃で舌を貫いておいた。

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