第5話



 ――――――――――――――――――――



 バッティングセンターまでのくだりを読んで思い出したのは、今思えば他愛のないことばかりだった。でも、書いていないといつか忘れていただろうことだったと思う。

 備忘録と銘打っているだけあって、そのほとんどがメモ書きで、内容も簡潔にしか書かれていない不親切なものだから、一ページ読むだけでも苦労してしまう。

 当事者であるから、読んで「ああ、この時の話か」とかろうじて分かるものの、まったく知らない第三者が見たら、訳が分からなくて困り果ててしまうだろうなと思った。


 しかし、この備忘録の関係者であろう北林にも、西宮にも、それぞれ言っていないことがあった。


 それについては、もう少し後の記述に書かれているのだろうかと、ページをめくって再び目を通し始めた。



 ――――――――――――――――――――



「あー、楽しかったな」

「……疲れた」


 休憩を挟んだ後は互いにもう一度ずつ打ち合い、十分に満喫してからバッティングセンターから出てくると、外は随分と暗くなっていた。

 言葉通り楽しそうな声の北林とほとんど同時に、正反対の言葉を自分は呟いていた。

 ちらりとこちらを見た北林が、自分を憐れんでいるのか腹の立つ笑みを向けてきたので、とりあえず睨んでおいた。


「南沢はもう少し体力をつけた方がいいと思うぞ」

「……ほっとけ。ていうか、バッティングセンターに行くんだったら、もっと得意そうな人間が絶対にいただろ……なんで」

「お前がよかったから」


 なんで、の後を遮るように告げた北林の言葉は、こちらの思考を止めるには十分すぎるほどに効果を持っていた。


「――――は」


 おそらく間抜けな表情をしているだろう自分に、北林は再び同じ言葉を口にした。


「お前がよかった。俺は南沢と行きたかったんだよ。だから俺は、他の奴じゃなくてお前を誘ったんだよ」


 いつになく真面目に見えた北林の顔から慌てて目を逸らす。普段言われ慣れていないせいか、心臓の音がいつもよりもうるさく感じた。


「……どうかしてんじゃねえの」

 それだけしか、言葉を返せなかった。


「……ふ、なんだその反応」


 北林がおかしそうに息を吐く。急激に上がった体温を冷やすように缶コーヒーをあおって息をつくと、北林がこちらをじっと見ているのに気付いた。


「……なあ、南沢」


「何だ」と口にすると、北林が首をこてんと傾げて笑いかけてきた。


「俺の親友になってくんない?」

「は?」

「さすがに『は?』はひどくね?」


 自分でも、咄嗟に出た言葉がたったの一文字だったのはちょっとどうかと思ったけれど、北林の言葉が言葉だったからしょうがないと思う。


「……急に親友になってとか言われたら、こんな反応にもなるだろ」

「南沢が言われ慣れてないだけに思うけど」

「喧嘩売ってんのか? そもそも言うべき相手を間違えてるだろ」

「売ってない売ってない。ちゃんとお前で合ってるし」


 ここまで念を押されても冗談にしか聞こえないのは、どこまでも軽い北林の口ぶりのせいだろうか。

 じろりと北林を睨むと、「怖い怖い」と北林は一歩退いた。


「……で、どうだ? 親友の件」

 再び尋ねた北林の言葉に、ほとんど間を置かずに返事をした。


「他を当たってくれ」

「……理由はあるか」

「気が合わないと思うから」

「確かに。それは思う。そっか、やっぱダメかー」


 さして残念でもなさそうに北林は頭をかく。やはり冗談半分だったのだろう。

 間違ってもここで「いいよ」なんて言わなくてよかったと思った。向こうの冗談を本気で受け取っていたなら、しばらく北林に笑い者にされていたことだろう。

 ほっと息をつき、帰ろうと一歩足を踏み出していく。


 しかし、どうやらまだ北林は親友の件を諦めていなかったらしい。


 一向にやってこない北林を不思議に思い振り返ると、北林が何かたくらんだ表情でこちらに駆け寄って来た。


 そして、本日何度見たかも分からない差し出された北林の右手を見て、次に北林は何を言おうとしているか、何となく察することが出来てしまった。


「それなら、いつものようにじゃんけんしようぜ。負けた方は勝った方の言うことを聞く、でいいか」


 大方予想通りだった。どうやら北林の中では、自分といて何か意見が割れた時はじゃんけんすることが定番になってしまったらしい。

 コイツ、自分が勝ち越しているから、じゃんけんで決めることに味をしめているのではないだろうか。いや、それよりも。


「――――冗談だろ?」


 そう呟くと、北林が一度不可解そうに眉をひそめた。どうして「冗談」と捉えられたか、全く分かっていない、みたいに。


「なんで。俺は本気だけど」

「本気なら尚更おかしいだろ。だって――」



 友達のいない自分でも、それくらいは分かる。

 親友になるかならないかなんて大事なこと、じゃんけんで決めるようなことでないくらいは。それが親友じゃなくて友達であったとしても、じゃんけんの勝敗で決められるようなことではないことくらい、自分でも分かる。

 それなのに、目の前の北林がまるで分かってなさそうな表情をしていたのが、どうしても許せなかった。



「そんな大事なこと、運任せにするんじゃねえよ」



 凄むように言ってしまったせいか、北林が一度目を大きく見開き、驚いた表情を見せた気がした。


「……そうか。そうだよな」


 しかしすぐに納得したようで、北林はちょっと残念そうに手を引っ込めていた。


「じゃあさ、代わりと言っては何だけど、別の頼みを聞いてくれないか」

「……何だよ」


「西宮と、一度話してやれよ」


 さっきとは百八十度近く内容が変わった提案に、思わず首を捻る。

 どうして急に、西宮の話が出てきたのだろう。

 何でと頭に浮かんだ疑問はそのまま、言葉として口に出ていた。


「何で」

 その言葉に北林は、特に驚く様子もなく同じ口調で話し続ける。


「なんとなく。前も言ったけど、多分気が合うよお前ら。雰囲気とか似てるし」


「……全然、似てない」


 西宮は、自分と違って友人がちゃんといる。どうして北林がそんなことを言うのか理解出来なかった。

 けれど、北林の願いが叶えられることはないだろうな、と思う。


 北林は知らない。だから、理由は言えない。

 黙っていた自分に、北林の表情がわずかに曇る。


「……お前も、もし明日世界が終わるってくらいの危機にならないと、声はかけられないのか」


「……え」


 ぼそりと呟いた北林の言葉の中に、一週間前、北林の目の前で借りた本のタイトルに似た言葉を言ったような気がした。

 聞き返そうと口を開いた時、ハッとした表情で北林が一度顔を歪ませたように見えた。


「……いや、何でもない。今のは忘れてくれ」


 忘れてくれと言われても、と思いながらも、北林の声があまりにも切なげで、それ以上追及する事なんて出来なかった。

 そしてそのままの気まずい雰囲気で、北林とはそのまま別れることになってしまった。


「また明日」と、北林がひらひらと手を振って遠くへと歩いて消えていく。


 その姿を、何をするでもなく、しばらくじっと見つめていた。



 二日後の水曜日。その日は当番の日ではなかった。

 しかし、だからと言って北林にまた「どこかへ行こう」と言われない保証はなかった。

 だから授業が終わってすぐに、北林に何か言われる前に、わき目を振らずに帰ろうとしていたのだ。


 玄関で靴を履き替え、いよいよ帰ろうとしていた時だった。


「……南沢」


 背後から名前を呼ばれ、動きを止める。自分を呼び止める同い年ぐらいの声の男なんて北林しかいない。

 そう思い振り返るが、目に映った姿は北林ではなかった。


「…………西宮?」


 短く切りそろえられた髪がわずかに乱れたまま、西宮は「間に合った」と一言口にして、こちらに向かって一歩足を進める。

 きりっとした眉と目、そして青縁のメガネをかけた西宮の姿はまさに優等生といった出立ちで、実際のところ本当に頭はよかったはずだ。

 そう中学の頃は記憶していた。一歩進んだ西宮が、どこか戸惑いがちに口を開いたように見えた。


「……あのさ、南沢」


 しかし、西宮がその先を言うことはなかった。

 言葉の途中で、西宮を呼ぶ誰かの声によって遮られたからだった。声色からして急ではなさそうだが、早く言った方がいいだろうと思って念押しのようにして声をかける。

 半分は気遣いだったが、半分は早く学校を出たいという魂胆からだった。

 こうして西宮と話している間に北林に追いつかれてしまっては元も子もない。

 西宮には申し訳なかったが、当番の時以外で北林と関わらないようにするには、早く話を切り上げたかったのだ。


「……呼ばれてんぞ、西宮」


 しかし、一度呼ばれた声の方を向いた西宮は何も言わず、分かっていると言いたげにもう一度こちらに向き直った。


「……ああ、そうだな。でもその前に、南沢に言いたいことがあるんだ」



 ――西宮くんに近づかないでよ。あなたの暗いオーラが移っちゃうでしょ。



「――――――あ、」


「…………南沢?」


 思わず一歩後後退さった自分を、西宮が心配そうに見つめていた。

 それとかぶさるように、中学時代の嫌な記憶が目の前に浮かび上がってくる。



 ――最近あなたがずっと西宮くんと一緒にいるから、西宮くんと全然話せないの。



 だから分かるよねと、可愛いに分類される笑みを浮かべながらも、目は全く笑っていなかったあのクラスメイトは、別の高校に進学したからこの学校にいないはずだった。

 それ以前に、西宮への興味自体一時的なもので長く続かず、今ではそんな時期があったことすら覚えていないのだろう。

 西宮のことが気になると言っていたクラスメイトの女子。嫉妬の矛先が自分に向かったのは、おそらくタイミングが悪かったのと、自分の立ち回りが上手くなかったからの両方だ。

 自分に嫉妬するなんて相当だと思ったけど、わざわざそんな自分にすら釘を刺すくらい、外堀を埋めることに必死だったのだから、当時の彼女にとってはそれが全てだったのだろう。

 彼女に言われた言葉はどれも言いがかりに過ぎず、ただの一方的な逆恨みだったのは、誰の目から見ても明らかだったはずだった。


 その、はずだったのに。この期に及んでも、西宮に近づくことが怖いなんて、自分でも笑えてくる。


 ――南沢も、このシリーズを読んでいるのか?


 あの日、興奮気味に話しかけられた中学時代の西宮の顔が、目の前の戸惑った表情の現在の西宮の顔に塗り替えられていく。

 確かにあったはずの思い出が、あのクラスメイトの手によって塗りつぶされていく感覚がした。


「……悪い、今日は早く帰らないといけないんだ」


 咄嗟に口をついたのは、その場を乗り切るだけの真っ赤な嘘だった。

 早く帰らなければいけない予定なんてない。強いて言うなら北林に声をかけられる前に出て行こうとしたくらいだ。

 でも、西宮はそれを真面目に受け取ってくれたようだった。


「……そうなのか。いや、でも、ちょっと待っててくれないか。今日じゃないと……」


 普段あまり表情を崩さないはずの西宮の表情に焦りが生じる。

 それと比例して、チカチカとあの日のことが、頭の中でフラッシュバックしていく。


「……ごめん、今日は」


 西宮の静止を聞かず、靴を履き替えて一目散に玄関口に向かう。さすがに玄関を出た後も声をかけてくるなんてことはなかったのでホッと息をついた。


 家に帰るとすぐに自室に向かい、本の世界に没頭して忘れてしまおう。そう思ったのに、戸惑った西宮の顔が頭から離れなくて、内容がほとんど頭に入ってこなかった。



 どうして西宮が今日という日にこだわっていたのかは、次の日になったら分かった。



 次の日、西宮は学校に来ておらず、欠席になっていたからだ。

 北林の言っていた入院だ、とすぐに分かった。

 北林の言葉は本当だったんだな、と元々嘘だとは思っていなかったけれど、いざ目の当りにするとそんな感情が湧いた。

 高校ともなれば、休んだ理由をいちいち先生がクラスに伝えることもないのだろう。

 西宮の欠席の理由には特に触れず、故にほとんどのクラスメイトは一日限りの体調不良だろうと受け取って、教室ではいつも通りの授業が行われた。

 眠気を抑えながら授業を受けていると、ふいに昨日玄関前で話した西宮の言葉が頭に浮かんだ。



 ――その前に、南沢に言いたいことがあるんだ。


 西宮はあの時、何を言うつもりだったのだろう。



 木曜の昼休みは、西宮から引き受けた図書当番の時間の内の一つだった。

 昼休みになって図書室に向かうと、すでに北林はカウンターに座っていた。

 相変わらず北林はいつ教室から抜けているのだろうかと思う。

 今回はまだ本を読み切っていないので、返却箱に何か返すことなく、そのままカウンターに向かうことにした。


「……西宮、入院したみたいだな」


 カウンターの内側に回って椅子に座ると、座っていた北林がこちらに顔を向けず小声で話しかけてきた。


「……そうみたいだな」

「だから言っただろ、西宮と話しておけって」

「……知っていたのか」


 驚いて北林の方を向くが、北林はカウンターに頬杖をついたまま、まっすぐ正面の本棚の方を見つめていたので、視線が合うことはなかった。


「おおよその予定で、だけどな。その時一緒に、入院する期間自体は短いとも聞いたからさ、その内戻ってくるだろ。その間の辛抱だ」

「……辛抱って」


「だって、後悔してんだろ?」


 それには答えずに、代わりに昨日の西宮の様子を頭の中で思い出す。

 明日にしてくれと言った時の焦った表情。明日からは学校を休むと分かっていたから、あれだけ西宮は慌てた様子を見せ、多少無理な願いだと思いつつも、待っていてほしいと言ったのだろう。


 ……聞いておけばよかった。北林の言う通りだ。後悔したってもう遅いが、次に会った時に聞けば、西宮は教えてくれるだろうか。


 ――聞いておけばよかった?

 ドクン、と嫌な方向に脈が動く。


 おかしい。今までこんな風に思うことはなかったはずなのに。

 最近の自分は、少しおかしい気がする。おそらく、北林と関わってしまったあの日から、きっと。


 黙った自分に、隣にいた北林はしばらく不思議そうな表情を浮かべていた。

 しかし、何かを思い出しかのように立ち上がり、こちらに屈むようにして耳元に顔を寄せてきた。


「――南沢、今日の放課後も行きたいところがあるんだけど、一緒に来てくれよ」


 耳元をくすぐる北林の低い声。否定も肯定もしていないというのに、北林は「じゃあ玄関前で」と勝手に話を進め、そのままカウンターから出て行ってしまった。


 北林の背中を目で追うことなく、途中で顔を伏せて、自分の両手を見つめる。

 気のせいなんかじゃない。あの日、北林とカウンター越しに目が合ってしまった時から、何かが変わり始めている。

 あの頃は変化が怖くて仕方なかったというのに、北林が拒否する暇もないくらいの勢いで来るから、半ば押されてる形で今の今までに来てしまったのだろう。



 ――一度、北林の真意を聞こう。



 変化が表れ始めた今、こちらからも何かしら行動を起こさなければいけない気がする。


 そう決意して顔を上げると、ちょうどこちらを見ていたらしい北林と目が合って、北林がどこか照れたように笑いかけたように見えた。

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