第4話


 週明けの月曜日は、なんとなく教室の空気も気だるげに思える。

 鞄の奥にしまわれた図書の本は、先週の金曜日に借りていたものだ。借りていた本は二冊とも、土日の二日間で読み切ってしまっていた。

 後で返しに行こうと念頭に置き、教室をあとにして移動教室に向かう。

 いつもの如く一人だ。

 つい一週間前まではそれが当たり前だったはずなのに、と一度息をついて考える。

 カウンター越しで北林と対面したのは、ちょうど一週間前の月曜日の放課後だった。

 北林の言っていたクラスごとに割り当てられた図書当番の時間の内の一つだったから、何度も図書室に通っていれば、いつかは北林と出会っていたのだろう。

 ただ、もう少し早かったり遅かったりすれば、誰かを巻き込もうと北林が思うことなく、目が合った自分がじゃんけんを挑まれることもなかったんじゃないかと思わなくはなかった。


 あれからまだ一週間しか経っていないというのに、自分を取り巻く環境は随分と変わってしまったようだった。


「南沢、覚えてるよな? 今日の放課後の当番」


 これだって、そうだ。おそらく、今までの自分だったなら、こうして誰かに呼び止められることもなかっただろう。

 倒置法みたいな言葉が聞こえ声のした方を向くと、そこには数人のクラスメイトと共に歩いていた北林がいた。相変わらず人望があるようで、と一人で感心してしまう。


 随分と省略された言葉でも、北林の言いたいことは理解出来た。

 忘れっぽいと思われているのか、とつい皮肉が飛びそうになったが、すんでのところで止めた。一人で移動していた自分とは違って、北林の周りには自分たちの関係を知らないであろうクラスメイトが数名いたからだった。

 当番のこと、特にじゃんけんのくだりを知らなければ、北林はほとんど関わりのないクラスメイトに何かを教えている親切な男に見えるはずだ。

 ここで冷たい反応を返して、わざわざ自分の印象をこれ以上下げることはないと、意識して口元を引き締める。


 当番の経緯などを抜きにすれば、こうして親しくもないクラスメイトに対し、律儀に確認をとってくれること自体は素直にありがたいと思う。

 ただ、よりにもよって大勢の生徒が行き交う廊下で呼び止めることはないんじゃないかとは少しだけ思った。

 しかも、向こうが他のクラスメイトと騒がしく話しながら歩いている時に。

 北林が足を止めたせいで、連れ立っていた他のクラスメイトもなんだなんだと足を止めて、こちらをジロジロと見てきたから、居心地が悪いことこの上なかった。


「……覚えてるよ。わざわざどうも」

 なんとかそれだけ口にしたが、北林はほとんど無表情でそれを聞いていたように思えた。


「どういたしまして」


 北林の目が、スッと細められる。

 連れのクラスメイトたちは北林より少し後ろにいる。どこか無機質にも思える北林の目が見える位置にいるのは、残念ながら自分しかいないようだった。

 教室で見かける時とも、図書室にいる時とも違う北林の目がなんだか怖くて、わずかに視線を逸らしてしまう。

 北林の頬あたりに焦点を合わせていると、我慢ならなかったのか、北林の少し後ろにいたクラスメイトの内の一人が口を開いた。


「――信久、南沢とどっか行くのか?」

 声を聞いた北林が、そちらの方を向いて答える。

 いつの間にか表情も、教室でよく見かけるいつもの北林に戻っていた。


「図書室」

「似合わねー」


 すぐさまツッコミが飛び、ははは、とクラスの中心人物特有の騒がしい笑い声を上げて北林たちは遠ざかっていった。

 行こうとする目的地は同じだからと、数秒遅れて彼らの背中を追い始める。

 何人かで固まっていても目立つ北林の後ろ姿を見ながら思う。やっぱりあんな生き方、どうやっても自分には出来ないだろうと。



 放課後になり、北林の言う通り図書室にやってくると、既に北林はいて、本を五、六冊抱えて本棚を行き来していた。

 とりあえず借りていた本をカウンター横の返却箱に入れて北林の元へ歩いていく。

 挨拶もそこそこに「分担しよう」と手を差し出して、北林から二冊ほど本を受け取った。最後の本を受け取ろうとした時、北林が少しだけ顔を近づけてきたのが、息のかかり具合ですぐに分かった。


「なあ、南沢」

 そう言って、いつか見たような笑みを浮かべた北林が、まるで内緒ごとをするみたいにこちらの耳元に口を寄せる。



「当番が終わったら、俺とデートしようぜ」



 その言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった気がした。


「…………正気か?」

 やっとのことで口にした言葉が、今の感情をそのまま乗せていたと思う。


「正気だよ」

 しかし、そんな自分の言葉を聞いても尚、表情を変えることなく正気だと口にした北林が何を考えているか、全く読み取ることが出来なかった。



「なんだ、てっきり快諾してくれたと思ってたのに」


 返却された本を棚に戻し終え、カウンターへと戻ってきた時を見計らって「なんで、やだよ」と返すと、北林は全く残念そうに思っていない声を出してカウンターに座った。

 週明けの月曜日だからか、放課後の図書室の利用客は数えるほどしかいなかった。小声だから大丈夫だろうという謎理論で、カウンターの奥で北林とひそひそ会話を続けていく。


「どうしたら快諾したと思うんだ。お前の思考回路どうなってんだよ」


 どこか不満げな表情をしていた北林を見て、自分も意識的に眉を寄せる。「じゃあ」とそのままの表情で北林は口を開いた。


「……じゃあ、いつも通りじゃんけんしようぜ。それで、勝った方の言うことに従う。それでいいだろ」

「いつも通りって、別に定番でもないだろ」

「嫌なら勝てばいいんだよ。三回先取な。はい、じゃんけん――」


 小声で唱えたじゃんけん、の掛け声とほとんど同時に北林は拳を振り上げた。



 滞りなく本日の図書当番が終わり、北林や司書の東山先生と共に図書室を出ていく。

 他の先生に用があると言っていた東山先生とは途中の階段で別れたものの、北林とは荷物を取ってからも別れることなくそのまま北林の後ろを歩いていた。


 自分のじゃんけんの弱さを恨むしかない。三回先取で見事に負け、大股で歩いて行く北林のあとをとぼとぼとついて行く。

 途中クラスメイトの一人と出会い、「なんでこの二人が……」みたいな顔をされたのは、望んでこうしているわけではないから不本意だと思った。

 ただ、北林にだけ「じゃあな」と声をかけたのは、普段通りだったので特に何とも思わなかった。逆に声をかけてきたら相手が引くレベルで自分が驚いてしまうと思う。絶対ないと思うけれど。


「じゃあ、俺にちゃんとついてこいよ。とっておきのデートスポットに連れて行ってやるからさ」


 勝って上機嫌なのか、北林の声も若干浮ついているように聞こえた。一体どこへ連れていかれるのだろうか。


 もうどうにでもなれと思いながら、北林とともに玄関から外へと出て行った。



「……びっくりした。デートとか言うから変な場所に連れ込まれるのかと思ってたわ」

「どこを想像していたんだよ」


 間髪入れずに北林が尋ねてきた。なるべく頓珍漢な返事をしようと思い、一瞬だけ悩んでから、一番無いであろう場所を口にする。


「……カジノとか?」

 北林の眉が、への字に動く。

「……南沢ってだいぶ発想がぶっ飛んでるよな。どんな生き方をしていたら、デートって単語を聞いてカジノなんて思いつくんだよ」

「うるさいな。今読んでいる本の主人公がヤクザなんだよ」


 咄嗟に本のせいにしたが、ヤクザが主人公の小説なんて読んでいない。

 先ほど返却した小説も、返却と同時に借りてきた小説もジャンルはミステリーだったが、そんなこと北林が知っているわけもないので、北林は素直に自分の言葉を受け止めたようだった。


「……本からの影響受けすぎだろ」


 どこか呆れたような北林の言葉で、本に対して熱い風評被害に若干の申し訳なさも抱いたが、それを悟られては嘘をついた意味もなくなってしまうだろう。

 何ともない顔をして、北林の後に続いて自動式の扉をくぐり、別の話題に話をすり替えておくことにした。


「……でも、ここもなかなかデートって単語からは想像出来ないと思うけど」


 デート、の言葉に北林が一度こちらを見たが、すぐにまた正面に視線が向いた。


「別にいいだろ。俺とお前は別に恋人同士じゃないんだから」

「そうだな。でもとりあえず、北林は一度デートって単語の意味を調べたらいいと思うよ」


 じゃんけんに負けて北林に連れてこられたのは、街の外れにあったバッティングセンターだった。

 こんなところにバッティングセンターなんてあったのかと、店の看板を見て驚いたものだ。生まれも育ちもこの場所の自分が知らなかったのに、転入生の北林がよく知っているなと思う。どこかで野球に詳しい誰かに連れていってもらったのだろうか。

 受付を済ませ、二人して廊下を進んでいく。


「一人が打ってる間は一人が休むって感じで、交代で打っていこう」と向かう途中で北林に提案される。特に異論もなかったので、北林の言葉に従うことにした。

 ちなみにどちらが先に打つか、その順番を決めるじゃんけんでも、北林はチョキを出して勝っていた。

 イカサマをしているんじゃないかと疑うレベルの負けなしぶりだったが、負けてしまった自分が今更何を言っても、負け犬の遠吠えになってしまうだけだろう。


 勝った北林が後攻を選択したことで、先攻の自分が初めに打席に立つことになった。

 ネットで仕切られた空間に入り、先ほど北林に手渡されたバットを構えて正面を見据える。

 正直に言うと、中学校での体育以来バットは久しく触っていなかった。体育の選択授業では野球以外を選択していたし、そもそも運動が得意なら日常的に図書室に通うようなインドアな生活はしてないし、と誰にともなく言い訳しながら、奥に見えるピッチングマシンからボールが発射されるのを待つ。


 発射されたボールの勢いに驚き、最初の一球は振りかぶりすらも出来なかった。

 後ろのベンチで座っているであろう北林の笑い声が背後から聞こえてきて非常に腹立だしかったが、時間をおいて次々とボールが発射されるのだから、振り返っている余裕はない。

 最初はかすりもしなかったものの、十何球目にはポコンとバットに当たる感触を覚えた。

 そこからは少しずつバットにボールが当たるようになり、最終的にはマトモに打ち返せるようにまでなっていた。


 一ゲーム分が終わった頃、ネットの奥、後ろのベンチに座っていた北林が「おお」と言葉を漏らした。


「南沢、意外と運動出来るんだな。正直意外だった」


 意外だ、と嫌味ったらしく言われたので、こちらも精一杯の嫌味で返しておいた。


「……ただの根暗読書オタクだと思っていたなら、当てが外れただろうな」

「別にそこまで言ってないだろ。まあ、運動出来なさそうとは思ってたけど」


 じっとこっちを見ていた北林から一度目をそらして、小さく口にした。


「……自分のせいで負けたって責められたくないから、最低限は出来るようにしてんだよ」

「……どういうことだ?」


 眉をひそめた北林が、訝しげに尋ねる。

 もしかすると、北林にはこの感覚は分からないのかもしれないなと思いながらも、やや簡単に理由を説明した。


「北林には、分からないかもしれないけどさ。普段一人でいる人間が、体育とかの団体競技で何かドジを踏んだ時、庇ってくれる人なんていないんだよ。全部自己責任なんだ。そういう扱われ方にしたのは自分自身だから、特に気にしてはいないんだけど。でも、なるべくなら責められずに時間を過ごしたい。だから、自分の不利益にならない程度には練習して、可もなく不可もなくくらいの力で、周りの足を引っ張らないようにしてんだよ」


「……マジか。なんかすげえな、南沢って」

 一通り聞いた北林が、感心したような声で呟いた。


「何がだよ。北林の方がすごいだろ。友達も多いし」

「友達の有無じゃ……まあいいや、そういうことでもいいよ」


 最後明らかに飽きたような口調で北林は床に置いていたバッドを持つ。


「……今、完全に喋るの飽きたな」

「まあな。それより身体動かしてる方が性に合う」

「じゃあ交代する」

「おう」


 位置を交代し、さっきまで北林が座っていたベンチに、今度は自分が腰を下ろした。

 一息ついて顔を上げると、ちょうど北林がバットを構えているところが視界に映った。その後断続的に向かってくるボールを、第一球から北林が何でもないかのように打ち返していく。

 先攻で発射されていたボールの速さを見て、ある程度タイミングを掴んでいたのだろうか。それにしても鮮やかだった。鮮やか過ぎて、ため息が漏れてしまうほどに。

 野球のプロではないので、振りかぶり方がどうとかと口に出せるほど詳しくはないけれど、北林のフォームは素人目からもとても綺麗に見えた。

 圧倒的に北林の方が打ち返した数が多いまま最初のゲームが終わる。

 打ち終えた北林がこちらに向かって歩いてきて、交代かと思って腰を上げようとした時、ふいに「よし」と突然声が聞こえたことで思わずもう一度座り直してしまう。


「……よし、一旦休憩しよう。喉乾いただろ、南沢。じゃんけんして、今から自販機まで行ってジュースを奢る方を決めようぜ。ま、俺が勝つだろうけどさ」

「なんで北林が勝つ前提で話してんだよ」

「だってじゃんけん弱いじゃん、南沢」


 確かに今まで北林としたじゃんけんはどれも負けていたけれど、断定されるとそれはそれでむかつくものがあった。


「たかが数回勝った程度でイキってんじゃねえぞ。しかも最初のは急に挑まれたから考える余裕がなかったんだ。実質ズルみたいなものだろ」

「……百歩譲って、最初の不意打ちをノーカンにしても、相当弱いと思うぞ」


 若干呆れたような口調だった北林は、そのまま右手を前に突き出した。


「それだけ言うなら、勝って証明してみろよ。いくぜ、じゃんけん――」


 十分に考えて出した手はチョキだった。北林の方を見るとグーだった。つまりまた北林が勝ったことになる。

 思わず頭をかかえたくなった。北林もまさかここまでとは思っていなかったのか、口の端がひくひくと動いていた。


「……南沢、本当にじゃんけん弱いな」


 心から憐れんでいるように言われているのが、余計に悲しくなってしまう。


「わざわざ言わなくてもいい……」


 そう言ってジュースを買いに行こうとベンチから立ち上がろうとしたら、立っていた北林に両肩をつかまれ、再び座らされる。これでは買いに行けないじゃないかと、立ったままの北林を下から見上げる。


「……何だよ、新手の嫌がらせか?」

「別に俺、負けた方がおごりだなんて言ってないけど」

「……は?」


「思い出してみろよ。俺は一言だって、負けた方がおごりなんて言ってないぜ。じゃんけんに関しては、俺が勝つだろう、とは言ったけどな。で、俺は今じゃんけんに勝って気分がいいから、南沢に一本奢ってやるよ。勝者の意見は聞くべきだぜ。南沢、何がいい?」


 一息で話した言葉を聞いて、北林の意図に気付く。コイツ、初めからおごるつもりで。


「……最初から、そのつもりだったのか」

「そのつもり、ってなんだよ。早くリクエストしろ」


 わずかに眉を吊り上げた北林が、事ある毎に立ち上がろうとする自分を執拗に座らせようとしてきた。

 結局立ち上がるのを諦めて、小さく「コーヒー」と告げる。

 口角を上げた北林が、なんだか満足気で若干腹立たしく感じた。


「ホットでいいよな」

「馬鹿たれ」


 ほとんど反射的に悪態をつくと、「冗談だよ」と言いながら、北林は腕をひらひらとさせて歩いて行く。

 数分後、缶を二つ持った北林が「受け取れ」とその内の一つを投げてきたので、どうにか両手でキャッチして受け取った。

「苦さのリクエストは聞いてなかったから、イメージで選んだ」という北林の言葉を聞き、缶の表面に視線を移すと、砂糖やミルクが一切入っていないブラックだと缶に表記されていた。

 ブラックであろうがカフェオレであろうが、別にどれでも飲めるから何を選んでくれてもよかったのだけれど、北林の中の自分のイメージはどんなことになっているのだろうかとは少しだけ思った。

 缶を開けて喉に流し込む。ブラック特有の苦みが、なんとなく疲れた身体をすっきりさせてくれたように感じた。

 北林の方はコーラらしい。勢いよく泡が吹き出していそうなほど軽快な音で缶を開けてから、北林は缶に口をつけていた。


 互いに一息ついてから、先ほどの北林のフォームを見て浮かんだ疑問をぶつけてみると、すぐに回答が返ってきた。


「……北林って、どっかで野球習ってたのか?」

「いや、別に。小学校の時に友達と遊んでたりはしてたけど」

「その結果があのフォームか……」

「お気に召していただけました?」

「突然のお嬢様言葉やめろ」


 北林がくつくつと笑っていたのが視界の端で見えた。


「……そもそも、習い事自体やったことがないな。その内転校するかもしれないのに、やろうと思えなかったから。中途半端に身につくだけになるだろうし」


「……そういえば、転勤族だったけか」


 思い出したように口にすると、北林が意外そうな表情を向けた。


「よく覚えてんな。そうだよ、俺の家は転勤族だからさ。長くても同じ土地に数年しかいないんだ」

「へえ、そりゃ凄いな」

「全く心がこもってなさすぎて引くんだが」

「そんなに興味もないからな」


 ペットボトルから口を外した北林が息をつく。


「……ホント、南沢って他人に興味ないよな」

 ペットボトルから、北林がこちらに再び視線を移して口を開いた。


「そういえば、ずっと聞きたかったんだけど」


 なんだろうと思い目を合わせると、北林の目がキュッと悲しそうに細められた。


「……南沢は、なんで一人で平気なんだよ」


 バットを振り過ぎて疲れたのか、声もわずかに低く聞こえた。

 なんとなく見ていられないと思い、視線を外す。両手で持った缶コーヒーをじっと見つめ一度息を吐いてから、小さく理由を口にした。


「……たかが数年の付き合いになるような奴に、好かれようと努力することに意味があるとはどうしても思えないんだよ」


「……ぶっ飛んだ思考してんなあ」


 北林が感心半分、呆れ半分の声色で反応を示した。


 今言った言葉自体は、嘘ではない。ただ、他にも理由はいくつかあって、その中では比較的どうでもいい寄りの理由がそれだったのだけれど、大きな理由をわざわざ北林に告げることでもないだろうと判断して、説明しやすい理由を選んで述べたのだった。


 まさか言わなかった理由の方が、その後何日かして再び自分の目の前に現れてくるとは、その時の自分は全くもって予想していなかったのだ。


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