第3話


 自分たちが所属している二年A組の図書委員の担当当番の日は、月曜日の放課後と木曜日の昼休みの二回だけだと、図書委員の代理を引き受けたその場で北林は教えてくれた。と言っても、まだ自分も引き受けてから日が浅いし、仕事もそんなにやっているわけじゃない。

 だから、詳しい仕事内容とかは先生に聞いてくれと、最初に北林は断っていたものの、北林がしてくれた説明はかなり分かりやすかったように思う。

 今までは、かなりの頻度で自分は図書室に通っていたから、そこらの生徒よりは図書室のことに詳しいと勝手に自負していたけれど、改めて説明を聞くと、内部事情については全く知らず、まだ井の中の蛙だったのだなと感じた。


 図書委員の主な仕事は、カウンターでの受付や返却された本を元の位置に戻す作業や、予約していた本が来た時、その相手にその旨を伝える紙を記入して渡すこと、その他細々とした作業で構成されているらしい。

 期限が過ぎても返却されない本に対しての何かしらの注意喚起は、だいたい期末前とかにまとめて行うらしく、今の時期は関係ないのだそうだ。

 もっとも、期限が過ぎた云々の話は滞納したことがないからあまりイメージは掴めなかったけれど、どうやらそういう仕組みになっているらしかった。

 だから、利用者として目に見える仕事をやればいいのだと、北林は最後にまとめた。


 じゃあ、次の木曜からよろしくなと、北林が右手を差し出してきたが、頷くだけでその場を去った。


 そうして北林との、図書委員を代理でこなしていく短い日々が始まった。

 本当に笑ってしまうほど短かったけれど、自分にとってはかなり中身の濃い時間だったように、今になって振り返ると感じるのだ。



 北林に、一緒に図書委員の仕事をしてくれと頼まれてから、はや数日。

 その数日間で、何かクラスで大きな出来事が起きたということもなく、ただ淡々とその日その日が過ぎていた。

 変わったのは、ほとんどはめられたと言っても過言ではない、自分と北林との約束事が増えたというくらいだ。

 元々任されていた人から別の人に委員が変わったとしても、よほど重要な役割でなければ、言わなくても困ることはないだろう。そう思って、委員会のことはクラスの誰にも言わないままだった。

 自分は特に言う相手がいないというのもあるのだが、北林も誰かに言いふらしていないらしく、委員会の話が話題に上がることもなかった。


 そういえば北林の話だと、クラスメイトの西宮は近々入院するということだったが、教室にいる西宮はこの数日の間に何度か見てもいつも通りにしか見えなかった。

 ……西宮は本当に入院するのだろうか。

 入院しなければいけない程となると、何か目に見えるような病気や身体の不調だってあるだろうと思うのに、そんな素振りは全く見られない。余りにも西宮がいつも通りすぎるから、入院の話そのものの信憑性を疑ってしまいそうだった。

 もっとも、西宮本人に聞いたらすぐに真偽が分かるような嘘を、わざわざ北林がつく理由はないとは頭では分かっているけれども、普段一緒に授業を受けているクラスメイトがもうすぐ入院するというイメージは沸きづらかった。


 そうこうしているうちに、自分にとっては初めて、北林にとってはすでに何回目かの図書委員の当番の時間がやってきた。

 授業が終わってからしばらく時間を置いてから、そっと教室を出て図書室に向かってみると、いつの間に抜けて来たのか、北林がすでにカウンターに座っていて「よう」と片手をあげてきた。

 その挨拶を無視して隣に座る。顔を上げてみると、普段なら見えないカウンターの内側から見る図書室の風景に、感嘆の声が漏れそうになった。

 普段の自分は、この場所には借りたい本を手に持ってくる立場なのに、今の自分はカウンターの内側で本を借りに来る利用者を待っている。なんだか不思議な気持ちになった。


「そういえば当番のこと、西宮に伝えたんだけどさ」


 しばらくすると、手持ち無沙汰なのか、北林が小声でこちらに声をかけてきた。


「……何か言ってたか?」

「南沢と二人で引き受けるって言ったら、めちゃくちゃ驚いてたよ」

「……だろうなあ」


 真面目な西宮が動揺する様子が安易に想像出来てしまい、不覚にも笑ってしまう。

 そんな想像に割り込むように、北林が身を乗り出して尋ねた。


「なあ、西宮と中学が同じだったんだろ? 何か話したことはなかったのか?」


 なぜだか食い気味に北林は尋ねてきたように見えて、なんとなくの違和感を抱きつつ、ここが図書室なので周りに配慮して小声で答えておいた。


「……確かに中学は同じだったが、ほとんど話したことはない。顔は知ってるくらいだな」

「……意外だな。西宮は図書委員を務めているくらいだから、おそらく本が好きだろう? 図書室の住人の南沢とは、気が合うんじゃないかと思うんだけどな」

「図書室の住人ってなんだよ……」

「お前が来る前に司書の先生から聞いた。ほら、いつもカウンターにいる東山先生」


 ついさっき図書室に戻ってきた先生の名前をあげて北林は答えた。

 物腰の柔らかそうな二十代後半くらいの女性の先生だ。確かに受付で借りる時に声をかけられたりすることもあったから、よく図書室に来る自分のことを覚えていても不思議ではなかったが、そんなあだ名をつけられているとは思っていなかった。


 ――南沢って、本が友達なんじゃねえの?


 ――人間の友達がいないから、本しか友達になるものがいないんだろ。


 ――本の方から願い下げだろうにな。


 小学校の時に聞いた陰口を思い出す。

 自分に聞こえるように言っていたのは向こうの顔を見れば明らかだったので、仕返しに向こうの悪口を大きな独り言として言ったら、案の定大きな喧嘩になって先生に怒られたような記憶がある。

 あの頃の自分が今のあだ名を聞いたら、どう思うのだろうか。

 なんだか気恥ずかしくなり、慌てて別の言葉を付け足した。


「……それに、人にあまり興味がないんだ。全員が全員、お前みたいなコミュニケーションお化けだと思うなよ」

「そうか。悪い」


 言葉では謝りながらも全く申し訳なさそうな表情をせず、北林はおとなしく引き下がった。それはそれで腹が立つなと思ったが、口にはしなかった。

 コミュニケーションお化けには、何を言っても上手く交わされてしまう気がしたのだ。

 転勤族で、この学校は何度目かの転校先だと自己紹介の時に言っていた北林とは、人との交流や振る舞い方において、あまりにも踏んできた場数が違っているのだろうから。



 北林は元々、この学校に中学受験をして入学した生徒ではない。高一の途中で転入してきた、いわゆる転入生に当たる生徒だった。

 そんな転入生の北林は、数か月このクラスにいなかったというブランクを感じさせないほどの速さで周りに馴染んでいき、今ではクラスでも中心人物の一人にまで成り上がっている。

 北林のことをコミュニケーションお化けと呼んだのは、それが理由だった。

 何なら入学当初からクラスにいた自分の方が、今では浮いている存在なのだが、これ以上は悲しくなるので言わないでおく。

 だから、図書室のカウンターで目が合った時、そこまで話したことのない自分を見て、クラスメイトの一人だと判断し、すんなりと名前を呼んだことに驚いたのだ。



 そこまで考えて、ふいに思い出した疑問が自然と口をついた。


「……なあ、北林」

「なんだ?」

「……北林は、西宮とは仲がよかったのか?」


 隣の北林が不思議そうにこちらを見た。なんでそんな質問をするんだ? とでも言いたげな表情を浮かべて。

 そんな反応をされても、気になったのだから仕方ない。

 見落としている可能性も十分にありえるが、北林が普段からつるんでいるクラスメイトの中に、西宮の姿はなかったように思ったのだ。

 それなのに、委員会の代理を頼まれて引き受けるなんてことは、よほど仲が良くなければ成立しないだろう。

 その程度の興味で質問しただけだった。


 その内理由を聞いてきそうな北林に、先手を打つように「単なる興味だけど」と告げると、北林は「あ、そう」と心底どうでもよさそうに呟いてから、しばらく考え込む素振りをして答えた。


「……西宮と仲がいいか、だったな。何度か話をしたことはあるが、あくまでもクラスメイトとしての事務的な話ばかりだったから、友達か、って聞かれるとだいぶ微妙だな。どこまでを友達と呼ぶかにもよるし。ただ、俺はそこまで親しいとは思っていなかったな。だから、こうして仕事を頼まれた時は驚いたよ」


「……そんな奴から仕事を頼まれて、よく引き受けようと思ったな」


 自分なら絶対に引き受けない。突然じゃんけんを挑まれて、半ば強引に引き受けさせられたとかなら話は別だと思うけれど。


「だからだろ。向こうからすれば、そこまで親しくはない、でも知らない顔ではないクラスメイトなら、委員会の仕事なんて面倒な役目、罪悪感なく押し付けられるだろ」


「……お前、性格ねじ曲がってんじゃないのか」


 呆れ声で呟く。なんでコイツ、クラスで人気者なのだろう。

 そんな考えが表情に出ていたのか、北林が黙ったまま突然自分にデコピンをしてきた。

 地味に痛い。思わぬ攻撃に「何すんだ」の声が出そうになったところに、北林が口元に人差し指に手を当てて「図書室ではお静かに」と片方の口角を上げた。

 それなりに大きな声が出そうになったのは北林のせいだというのに、そう言われたら黙るしかない。

 黙った自分に、北林が満足そうな表情をする。


「よく出来ました」


 そう言って笑った北林は、さっきとは打って変わって、教室で見かけるいつもの北林に戻っていた。

 さっきまで感じていた薄暗さはまるで感じられない。いつの間にか場の雰囲気も元に戻っていた。

 場を操るのが上手い、処世術に長けている、とぼんやり考える。

 同時に、自分には一生出来ないなとも思う。いつからか人との交流を断ち、勉強することか、図書室で本を借りていくことでしか学校へ行く目的を見いだせない自分には、きっと一生出来ないだろう。


 ――南沢も、このシリーズを読んでいるのか?


 興奮気味に声をかけられたあの時。もう少し自分の立ち回り方が上手かったなら、と考えなかったわけじゃない。

 でも、自分はこういう人間なのだからしょうがない。そう思うことでしか、あの日の自分を正当化出来ないのだから。

 黙ってしまった自分に気を使ってか、それからしばらく北林が話しかけてくることはなかった。時々カウンターの元に訪れる生徒の貸し出しの処理を行いながら、時間は少しずつ過ぎていった。


「そういえば南沢は、俺が受付をした時に借りた本はもう読んだのか?」


 当番の時間も終わりかけになり、いつの間にか図書室にいる生徒は自分と北林だけになっていた。

 先生は先ほど別の先生に呼ばれて席を外していた。もし昼休みが終わる十分前になっても帰って来なかったら、鍵をかけて職員室に預けて欲しいと言われていたので、カウンターの上には図書室と書かれたタグのついた鍵が置かれている。


 ふと返却箱の中を見ると、かなりの数の本が溜まっていた。先生が来るまでに棚に戻そうかという話になり、二人して両端の棚から本を抱えてさばいていく。その途中、誰もいないことをいいことに、北林は自分に声をかけてきた。


 北林に聞かれて、一瞬何の本か分からなかったが、記憶を辿ってようやく思い出すことが出来た。


『明日世界が終わるなら』


 確か、そんなタイトルの本だった。最後まで読むことなく返してしまい、既に別の本を借りていたので、すっかり忘れてしまっていた。

 すぐに返したことに対し、北林はどんな反応をするのだろうか。文句を言われそうな気はしたが、特に嘘をつく理由もなかったので、正直に答えておいた。


「……一章までは頑張って読んだが、それ以上がどうしても読めなくて返した」

「……そうなのか? もったいないな。せっかく借りたのなら全部読めばいいのに」


 驚いた様子の北林には見えない位置なのに、おおげさに肩をすくめてしまう。


「……どうしても、あの文体が受け付けなかったんだ」


 人によって、好きな文体や嫌いな文体は少なからずあると思う。

 教科書のような硬い文体が好きだという人もいれば、話し言葉に近い柔らかい文体が好きだという人もいるだろう。

 北林がカウンターにいた時に借りたあの本は、後者の、しかもその中でもかなり砕けた文章の本だった。

 そういう文体の方が読みやすくて好きだという人もいるだろう。ただ、自分には合わなかった。それだけのことだった。


「文体、ねえ……」

 北林は納得していない様子だったが、それ以上何か言うことはなかった。

 話しながらも手は動かしているようで、定期的に本を棚に差し込む音は静かな図書室内でやけに大きく響いていた。


「気になるのなら、借りて読めばいいだろ。誰かに借りられていなければ、棚に戻されているはずだ」


 何列か向こうにいるだろう北林に向かって声を出すと、思っていたよりも大きな声になって自分で自分の声の大きさに驚いてしまった。

 そんな自分の様子には北林は気付かなかったようで、少しだけほっとした。


「いや、いいよ。俺にはゆっくり本を読む時間がないからな」

「あるだろ、登校中の電車の中とか」

「その時間は小テストの勉強に充ててんだよ」

「……じゃあ、帰りの電車の中とか」

「無理だな、だいたい疲れて寝てるからな」

「……お前一ミリも読む気ないだろ」

「よく分かったな」


 口調からして適当感が否めなかった。コイツ真面目に聞いてないな。別にいいけど。

 北林の言い訳を話半分で聞いていた中、不意に本が差し込まれる音が止んで、代わりに移動する靴音が聞こえた。

 どうやら本棚を一つ挟んで正面にいるらしいというのが、北林の影と気配で分かった。


「でも、あのタイトルはよかったな。『明日世界が終わるなら』。あの文字を見るだけでも、色々考えることが出来る」


 並べられた本の隙間から、北林の姿が見えた。

 なんとなく目で追うと、ちょうど北林もこちらを見ていたようで、なんとなく居心地が悪くなって目を逸らしてしまう。



「――南沢は、明日世界が終わるなら何をしたい?」



 唐突な質問に、反射的に顔をあげる。

 さっき目が合った時のまま、いたって真面目な顔をしてこちらをじっと見ていたが、自分の顔を見てか、くしゃりと表情を崩して笑った。


「何不思議そうな顔してんだよ。一章は読んだって言ってたけど、本当に一章もちゃんと読んだのかも怪しいな。そういう問いかけの本だったんだろ?」


 北林の言っていることは正しいのだが、本のタイトルだけで決めつける北林も、それはそれでどうかとは思う。


「そういう北林はあるのかよ。明日世界が終わるなら何をしたいか」

「ある」


 即答だった。さすがに恥ずかしかったのか、北林は一度咳払いをしてから言葉をつけ加える。


「……何かは言わないけどな。俺にはある」

 その目がどこか遠いところを見ている気がしたのは、自分の気のせいだったのだろうか。


「――なあ、南沢。来週もちゃんと図書室に来てくれよ。待ってるからさ」


 そう呟いた北林の言葉に、戸惑いながらも頷いた。

 半ば無理矢理だったとはいえ、頼まれたことを無視して逃げ出してしまうほど、自分は図太い人間ではない。

 頷いた自分を見た北林が、笑みをこぼす。


「そうか、やっぱり南沢を巻き込んで正解だったな」


 北林の言い分に色々言いたいことがあったが、言ったところで丸め込まれそうだったので言わないことにしておいた。

 次に図書当番としての北林と会うまでにはまだ日はある。

 次の当番が回ってくる前に、読んでしまった図書の本を、北林のいない間に返してしまおうと思いながら、そっとカウンターへと戻っていった。

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