イレイザー

ノブ

長らく雨の降り続いた日々も終わり、ジワジワと暑くなってきたある日の午前。

兄と妹。少年少女ふたりが自宅の近くにある壁の前で呆然と立ちつくしている。

「これまたすごい力作が来たね……。消すのにかなり時間かかりそうだよ……」


だいぶ続いた雨の日々でたまった、鬱屈とした精神が作者を突き動かしたのか。

最近で人気のアニメに出てくるロボットたちが、壁一面に力強く描かれていた。

執念を感じるほど丁寧に描かれている。一体、何本のスプレーを消費したのか。


「そうだね、お兄ちゃん。早くやっちゃおう。今日だけで終わらせたいもんね」

うんざりした顔をしながら、妹がバケツの中からスポンジと石けんを取り出す。

僕も自分のバケツの中から、同じようにスポンジと石けんのペアを取り出した。


昔はこの組み合わせで壁の汚れなどをこすり落とす時は水が必要だったらしい。

飲んだりアトラクションで使う以外に、掃除に水を使う事なんてあったんだね。

そう話した時の祖父の顔が懐かしい。じいちゃんもその時代を見てないくせに。


親は本当はロボット達にやらせても良かったらしいけど、そうはさせられない。

いつも掃除を頑張ってくれてるし、たまにはロボット達を休ませてあげようと。

確実に駄賃を貰える方向へ持っていった。兄妹の貴重な臨時収入を逃すものか。


落とす事のできない汚れは無いらしい、どこでも簡単に手に入る固形石けんを。

同じく、こすり落とす事のできない汚れは無いらしいスポンジにこすりつけて。

壁の端からお互いに絵をこすり落としていく。しかし、いつ見ても大きな壁だ。


昼に近づき気温が上がっていくが、頭上の橋が影になってくれてるので大丈夫。

それでも暑い事に変わりないのでこまめに水分補給する。人間は本当に面倒だ。

反対の端にいる妹も、僕のより高価なジュースで水分補給しているようだった。


細かく繊細に描かれてる事にあらためて感心しつつ、スポンジでこすり落とす。

この絵の原作は、十数年ぶりに人工知能の要素が全く入ってない作品だそうだ。

ストーリーに音楽、もちろん絵も全て人間のクリエイター達による作品らしい。


そんな手間暇のかかった作品に、どこぞの絵描きが感化されたのかもしれない。

昨今でよく見るような人工知能ロボットを利用してでの筆跡は全く見られない。

一晩で完成させたらしいこの絵を見つけた父はよく描けたな、と感心していた。


街の中は、昼夜を問わず超小型の警備ロボットがフワフワ飛んで巡回している。

その警備の目をかいくぐり、見つからず描ききったのは凄い執念と情熱である。

それでも、力作であっても放置すれば罰金を取られてしまう落書きでしかない。


後ろを振り向くと、昼休みの時間なのか。自動車たちがたくさん移動していた。

ジリジリと照りつける熱で地面の上の空気が揺らめいている。少し休憩しよう。

いちど家に帰り兄妹そろって昼食をとる。そしてまた、再び壁画の除去に挑む。


スポンジに石けんをつけてはこすり、石けんの効果が薄れてきたらまたつける。

それでまたこすり……となかなか消えない絵だったが、だいぶ消す事ができた。

兄妹ともに頑張っている。このペースならば、日が沈む前には終わらせられる。


よほど消されたくなかったのか、消されにくい特殊な塗料を使っていたらしい。

なおかつ、壁面に染み込ませるような独特な描画方法も活用してたと思われる。

何にせよこのスポンジに消せない汚れはない。石けんとの組み合わせは最強だ。


それでも今回の除去作業では、ひどいダメージを受けてしまう場面が多かった。

自己修復はされるので問題ない。しかし、消耗したものは消耗したままである。

石けんのほうは今回で、急激に消耗してしまったようだ。かなり小さくなった。


「おぉっ。だいぶ消せたね、お兄ちゃん! 暗くなるまでに終われそうだね!」

端の遠くにいた妹も今やほぼ隣だ。石けんも同じほど消耗しているようだった。

おそらく今回の作業が終わる頃には。どちらの石けんも消えて無くなるだろう。


何年前になるだろう。初めてこの石けんと一緒に除去作業をした時を思い出す。

今回ほどじゃないが、あの時もだいぶ消すのが困難な内容だった事を思い出す。

あの時の内容は何だったか。確か、妹の描いた落書きを消したような気がする。


そうだ。兄の大事にしていた木製の自動車の玩具に、妹が落書きしたのだった。

わんわん泣き出す兄の横で、妹もわんわん泣き出し。その兄妹たちの横に座り。

このスポンジと石けんがあれば消えないものはないのだ、とニコニコしながら。


丁寧に自動車の落書きを消していった、シワシワの手の感触をよく覚えている。

原理は不明だが、一番最初に使った組み合わせが最高の除去効果を出すらしい。

その共同作業から十数年。この相棒の石けんと一緒に色々なものを消してきた。


兄の自動車から始まり、両親の乗っていた本物の自動車に描かれた妹の落書き。

祖父の大事にしていた壺や、祖母の大事にしていた器に描かれた妹の落書きに。

家中の壁に描かれた妹の落書きなどである。ほぼ、妹が原因の除去作業である。


そんな妹も、兄と一緒に家の近所の壁の落書きを消すほどに立派に成長された。

少年らしいツヤツヤした手の中で、必死に壁の絵を消している妹の姿を眺める。

もう片方の手に握られてる石けんが何か言っているようだが、全く聞こえない。


「ぼけーっとしてないで、ちゃんと仕事しなさいよ! もう最後なんだよ私!」

ここまで近づいて、やっと聞こえるほどに。彼女は小さくなってしまったのか。

石けんの頭をなでる形で、スポンジの自分の表面に石けんの効果が適用される。


「うん。よしよし! それでいい。しっかり頑張ってよ! せっかく私の石け」

最後のほうが何と言っているかわからない。少しでも離れると聞こえなくなる。

あと百回も彼女に接触すれば、声はおろか姿さえ見えなくなってしまうだろう。


辺りはすっかり夕暮れの淡い光に包まれ、空の色が反射された影が伸びている。

兄妹の手も。擦りむけていたり爪先が軽く割れていたり、すっかりボロボロだ。

もはや壁の絵も、攻撃力の高そうなロボットの手の一部分を残すのみとなった。


手に握っている武器が微妙にスポンジのようにも見えるのが何とも皮肉である。

壁面の絵に接触する瞬間に、自身の表面の石けんの洗浄効果をフル稼働させる。

もはや、至近距離でも石けんの声が何とか聞こえるかどうかといったレベルだ。


夕暮れの光に満ちた風景が、近づきつつある夜の色にだんだんと染まっていく。

夕方で疲れているのだろう。ガードレールや電柱などのため息が聞こえ始める。

人間には認識できない非生物たちの声、音が大型自動車の騒音にかき消された。


石けんは。いつ消耗して無くなるかわからないほどに、小さくなってしまった。

何か言っているかもしれない。言ってないのかもしれない。もはやわからない。

絵を消し終わるのが先か、石けんが無くなるのが先か。全力で絵を消していく。


残る絵はわずか、ひと拭きほど。少年の指先でつまんだ石けんが近づいてくる。

このひとなでで、石けんの洗浄力を受け取ると同時に。彼女は消滅するだろう。

いよいよ最後だ。もはや何も聞こえない彼女の頭をなでようとした、その瞬間。


「今まで本当にありがとう。この十数年、楽しかったよ。もしまた生まれ変わ」

自身のスポンジ表面に全て吸収される寸前で。石けんの、彼女の声が聞こえた。

最後の部分を聞き取る事ができなかった。彼女は何と言いたかったのだろうか。


俺に搭載されている人工知能の、感情面での性能は高くはないが。推測するに。

もしまた生まれ変わ……もしまた生まれ変わ……。もしまた生まれ変わったら。

もしまた生まれ変わったら、スポンジになりたい。そう言いたかったのだろう。


ならば。相棒の最後の力を使い、自身の極限の除去力で仕事を終わらせるのが。

スポンジになりたかった彼女への最大限の感謝。何よりの報いとなるであろう。

妹からも石けんの姿が消えた。向こうもきっと別れの言葉を交わした事だろう。


最後はお兄ちゃんが消していいよ! と妹に肩を叩かれ、少年が絵に向き合う。

石けんの力を最大出力で高めていく。相棒の最後の力を決して無駄にはしない。

少年の手が、ぎゅぎゅぎゅと力強く俺を握りしめる。いよいよこれで、最後だ。


次の日の朝。兄妹で学校へと向かう。今日は気まぐれで通ってみたかったのだ。

超小型の警備ロボット達がフワフワと浮いている。大型のも今日は多いようだ。

学校はまだまだ先にある。子供の数が減り、もはや街に一個しか無いのである。


「えー! あの絵、消しちゃったのかよ! めっちゃ、かっこよかったべや!」

偶然、道の途中で会った僕ら兄妹の絵描き仲間が、心から残念そうにそう話す。

「確かにあの絵は消されるべきだった。お前ら兄妹は最高にかっこいいぞ……」


でも、その除去作業のおかげで僕たちの手にアイスがあるのだと仲間に告げる。

駄菓子屋の老人ロボットにアイスの袋を回収してもらい、再び学校へと向かう。

午前なのに、ジリジリと照りつける熱で地面の上の空気が揺らめき始めている。


昔は涼しく快適だったらしい北海道の暑い夏は、すぐそこまで来ているようだ。

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イレイザー ノブ @nobusnow198211

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