軽食亭ボン=ボン
小さな店の中を、囁き声のような灯りが、照らすともなく照らしていた。
男は所在なげに座っていた。
まばらな客は皆ぶつくさと小さな声で注文をしていた。男もそれに従って、呟くような声で注文を終えたばかりだった。
煙草の香りが漂い、紫煙に零れた光は、夢の中のような不安げな色を帯びる。
スープを待ちながら、灯りのもとでふわふわと揺れる自分の細長い影を、男は不思議なものでも見るような目でじっと見ていた。
やがてカウンターに置かれたのは、バジルの散った白いスープだった。もう冷めているようだった。湯気を上げていなかったから、手に取らなくても判った。
少し迷った後、男はカップの取っ手にそっと指を絡ませ、おずおずと口元へ持っていった。薄く曇った口髭に白い泡をこびりつかせながら、男は少し咳き込んだ。香辛料が効きすぎていた。
カップを置くと、カウンターの向こうから、店主がちらと男のほうを見やり、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。少なくとも男にはそう見えた。
男は目を丸くして、しかし直接目を合わせることはせずに、視線をカウンターに落としてもう一度咳をした。カップから離れた右手は男自身と同様、居場所がなさそうに動くともなく動いている。
喉を押さえて黙りこみ、男は、店の灯りの柔らかさだけを意識しようと努めた。そうしていると周りの話し声が言葉ではなくふつふつという音として耳に入って来て、男はぼんやりとそれを店の灯りが立てる音だと思い込んだ。男の頭はしんとした熱を持って痺れていた。痺れは奇妙に眠気に似て、火照っている頭をまどろませた。
しばらくそのまま、男は、スープの二口目に手をつけようともせずにじっとしていた。
午前二時の時計がボーンと鳴った。
はっとして、男は自分の掌を見た。
掌には、びっしりと、細かい汗の玉が浮いていた。男は、もう片方の手で右のポケットを探った。しかし、目当ての物はなかなか見つからなかった。ポケットの中で、煙草の滓と、いくつかの紙切れの間を、男の手は行ったり来たりした。誤って紙切れを引っ張り出そうとすることを何度か繰り返して、苛立たしげに左のポケットに手を突っ込んだ。
その瞬間、中のものに手が触れた。男はびくりと身を震わせた。そして、すぐにポケットから手を出した。もう少しで声を上げる所だった。冷たい感触。それの存在を男はいつの間にかすっかり忘れていた。
青褪めた顔を上げると、カウンターの向こうの店主と目が合った。店主は扁平な顔に陰気な視線を絡ませたまま、男のことをじっと見ていた。
男は慌てて眼をそらし、何かを拭おうとするように、ポケットから抜き出した手をズボンに擦りつけた。それからはっと思い出して、胸ポケットを探った。ハンケチはそこに入っていた。男は汗に湿る両手を拭きながら、ふと、自分はひどく馬鹿らしい真似をしているのではないかと思った。そして、曖昧な笑みで再び顔を上げた。
店主はまだ男の方を見ていた。
男は黙りこんだ。ポケットの中に蘇ってきた冷たい重みを意識しながら、酒を一杯注文した。
店主は男を見て一拍を置いた後、酒瓶を取る為にゆっくりと背を向けた。
男は得体のしれない恐怖感を覚えていた。店主の目つきは、腹の中にまで入り込んでくるようだった。
無言のまま、店主が酒を注いだコップを置いた。男は、杯を取ると、ゆらゆら揺れる琥珀色の液体を一気に干した。カッと頭が熱くなった。その熱がまた頭を痺れさせた。男はその痺れにすがろうとして、スープには手をつけないまま、立て続けに酒を注文した。
二杯――三杯――四杯と、頭の中に熱が広がり、麻痺していく。考えようとする思考が鈍くなる。
六杯目の酒を飲み終える頃、男はようやく、心が落ち着いて来たように感じた。左ポケットの中の冷たい形と重みが、再び意識の中から薄れてくれそうだった――少なくとも、男はそう思い込もうとした。
店主の視線にしても、自分の考えすぎだと、鈍麻した思考で理性的に考えてみる。初めて来た店で、だれも知り合いなどいない、わかるわけがない、そう、わかるわけがないのだ、と自分に言い聞かせた。そして、それを証明しようと顔を上げた。男は、店主に七杯目の酒を注文した。
店主は動こうとしなかった。
黙ったまま、暗い目つきで、男を見下ろしていた。そしてぼそりと言った。
「わかってるんだ」
男は目を見開いた。そして次に口をぽっかりと開けた。
「わかってるんだよ」
店主は男の目をジワリと見据えたまま、もう一度言った。
男は目と口を大きく開けたまま、ふらふらと立ち上がった。灯りがぼやけていた。静かだったはずの店の中に、いつの間にか、時計の音に被さるようにして、ゴグンゴグンゴグン……と奇妙な音が鳴っているのに、男は気づいた。それは痺れた頭の芯に重たく食い付いてきて、思考を包んでいた熱を急速に奪い去り、薄れかかっていたはずの左ポケットの形と重みを再びくっきりと際立たせていた。
ゴグンゴグンゴグン……
男は後ずさった。かすれた声で、この音は何だと問おうとして、周りを見渡した。そして悲鳴を上げた。
店の中にいる全員が、男の方を見ていた。
ゴグンゴグンという響きにぼやけた灯りの中で、それらの顔は全て輪郭が滲んで影がなくなり、のっぺりとした能面のようになっていた。わかっているんだよ、皆そう言っていた。
助けを求めるように、男は思わず左ポケットに手を入れ、中のものを出そうとした。けれど指が勝手にぶるぶると蠢いて、まるでそれを掴めなかった。
そうしているうちに能面たちは一斉に笑い始めた。ゴグンゴグンゴグン……と鳴り響く音にかき消されて笑い声は聞こえず、それらは顔だけで、わかっているんだよ、と確かに笑っている。
やがて、一番手前の能面の口端から紅いものがツウと垂れた。つられるように、その向こうの奴の唇からもツウと垂れた。垂れたかと思うとボタリと落ちた。手を伸ばしていた左ポケットから唐突に、血の匂いが香った気がした。能面たちは笑いながら、次々と紅いものを口から溢れさせた。知らないと思っていた沢山の顔が知っている一つの顔に化けていく。男は悲鳴を上げた。そして、足をもつれさせながら逃げ出した。横から手が伸びて腕を掴もうとしたが、男はそれを振り払い、必死に戸口に向かって走った。開き戸に体当たりをして押し開け、外に飛び出した。
誰かが追いかけて来るのが分かった。男は、塗り込めたような闇の中をがむしゃらに走って逃げた。右へ左へ、壁にぶつかりながら、わき道に飛び込みながら走った。店から出たのに、ゴグンゴグンゴグンという音は消えることなく、むしろ一層激しくなっていた。追いかけて来る足音と叫びは、その音に飲み込まれて聞こえなくなった。しかし男には、追ってくるそれが何を言っているかわかっていた。わかっているんだ、お前は人殺しだ、わかっているんだよ……。
助けてくれ、許してくれと叫びながら、男は音から逃げようと狂ったように方向を変え変え走り続け、やがて闇の中で自分がどこをどう走っているのか分からなくなった。路地を曲がった瞬間に、何かに足を取られた。バランスを失った男の左ポケットから冷たい重みが飛び出して地面に落ちた。そして男は、道の脇に開いていた溝に思い切り頭を突っ込んだ。首の骨が砕ける鈍い音がして、男の体は頭を支点にだらしなくねじくれた。そうして、ゴグンゴグンゴグン……とうるさく鳴り響いていた心臓の音は、ようやく止まった。
左ポケットから飛び出した折りたたみ式のナイフは、カランと音を立てて男の体の傍らに転がった。それは、黒い血のこびりついた刀身を、音のしなくなった闇の中でただ静かにじろりと光らせた。
そのころ店では、男に振り切られ、汗だくになって戻ってきた店主が、ワインで程よく出来上がった馴染みの客たちの笑いの種になっていた。客たちは、唇からこぼれる赤ワインを嘗めながら口々に、おれも飲み逃げしてやろうか……などと言ってげらげら笑った。店主はカウンターの中で顔中に噴き出た汗を拭っていた。そして、やるだろうやるだろうというのは途中でわかっていたんだ、安酒の代金も持たねえのに入ってくる奴は顔でわかるんだ……と呟いた。
三時の時計がボーンと鳴り、囁くような小さな灯りは、店の中の影を照らすともなく照らしていた。
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