存在の砂
ナナシイ
存在の砂
男は砂漠を歩いている。男の他にあるのは、ただ砂と青い空と、灼熱の太陽だけであった。
男は一人であった。
されど男の歩みは確かであった。男は自らの足跡を、砂の上に刻み付けて行った。
「震える天よ我を見よ。虚妄の砂に寄る辺無し。前に、前に、ただ右左と足を出せ。」
男の目には時折先を征く旅人達の列が映じた。旅人の列は規則正しく、整然としていた。
男はその列を美しいと感じた。
しかしその列は幻であった。
決して届かぬ先人達の歩みであった。
男もそのことは分かっていた。されど、男はその列の後を追っていた。なればこそ追っていたのだ。
その列こそ、男の道標であった。
「栄光の同胞よ、非天の膝元で私を待ち給え。」
ある日のことである。男は砂漠の真ん中に毛深い何かが転がっているのを見つけた。
猫であった。
猫は砂の上に倒れていた。意識は無いようだ。
男はその猫を抱き起し、水を含ませてやった。猫は息を吹き返し、男に向かってにゃあと一声鳴いた。
男は猫の顔をじっと見つめた。
やがて男はその猫を背負った。
「歩けよ仁者、希望に符号、未来が見えり。」
男は猫に向かって話をした。
猫は必ずにゃあと返事をした。猫は男の話を解していた。
男は喜びを感じた。
「勝ち得よ存在の粋、救済の内にぞ。」
男は猫を背負って歩き続けた。
男は時折猫の頭を撫でてやった。その度に猫はにゃあと鳴いた。にゃあと鳴くだけであった。
その男を、日の光が照らし続けた。
「万歩の歩行が功徳を果たす。まず右、そして左……。」
男の汗が、砂の上に落ちる。
猫はじっと男に背負われていた。
砂漠に果てはなかった。先人の列が見える事も少なくなっていた。
男は膝に手をつき、肩を落とした。視界一面が砂に埋められた。
男は恐怖した。
「停止は虚、前進は実、我が血肉よ正気を絞れ。」
男は休むことが多くなった。
留まり、動かぬ時間が増えれば増える程、男の体は砂に埋もれて行った。動くことを完全に止めれば、やがて男の全身が砂に埋もれることになるだろう。
男はそうなることを恐れた。
しかし、男は休まねば動けなくなってきていた。疲労が彼の体を蝕んでいた。
相変わらず、猫は彼の背中に張り付いていた。男も強いて降ろそうとはしなかった。降ろしてしまえば、猫は死ぬと思ったからだ。いつしか猫と出会った時の記憶が、彼の脳裏にこびりついていた。
「意志は霞み、義務は重く、慈悲が我が身を焼く。」
男は天に向かって叫んだ。
しかし、天は何も示さなかった。
男は幻の列に向かって呼び掛けた。
しかし、応える者はいなかった。
男は猫に話しかけた。
しかし、猫はただにゃあと答えるだけであった。
「近づく景色は砂の海……。理想の末路はまだ遠く、かかりし負担の大きさに、萬の気力は途絶えけり……。」
そして男は諦めた。
男は猫に謝り、背中から降ろした。
猫はその場を動かず、彼をじっと見つめていた。
男は砂の上に寝転がった。彼はもう疲れ果てていた。
段々と、砂が彼を覆っていった。
猫がにゃあと鳴いた。しかし、彼は動かなかった。
やがて男は砂に埋もれてしまった。
男は砂の中で呟いた。
「存在する、故に存在せり……。」
男は砂になった――。
存在の砂 ナナシイ @nanashii
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