暑中

ナナシイ

暑中

 夏の盛りの事である。

 何やら和服姿の妻が冷房の前に突っ立っていた。

「どうしたんだ。」

 尋ねると妻は冷房の真下を指差した。

「うん?」

 私が近づいて見てみると、そこには大きな水溜まりが出来ていた。どうやら冷房が壊れてしまったらしい。冷房の口から水滴が落ちてきていた。

「冷房、動かないか。」

「ええ……いえ、動くには動くけれど、ちっとも効いてくれないわ。」

「参ったな。」

「ええ……。全く、こんなに暑い時に……。」

彼女の声はどことなく、暑さによる疲れが見えた。

「仕方ない、修理屋を呼ぶか。」

「私これ拭いとくわ。」

「頼む。」


 私が修理業者に電話を掛け終え冷房の場所に戻ると、そこに妻はいなかった。代わりに冷房の下に大量の雑巾が敷かれていた。

 切りが無いと諦めたらしい。

 探してみると、彼女は縁側に腰掛け涼んでいた。団扇で自分を扇ぎながら、庭を眺めているらしい。こちらには気づかなかった。

 私は何となしに、彼女の後ろ姿を眺めた。彼女はその長い黒髪を頭の後ろで一本に束ねていた。彼女の髪の束が左右に揺れるにつれ、襟と頭の間に、女の真白なうなじが露わになる。そしてそのうなじの上を、珠の様な汗がつうと降りて行く――。

「おい。」

 彼女はゆっくりと振り返った。

「修理屋、明日の朝に来てくれるそうだ。」

「そう。では、明日までの辛抱ね。」

 彼女の前髪は汗で濡れ、黒光りしていた。頬も、熱で上気し赤く染まっている。

「大丈夫か。」

「ええ、まあ、大丈夫です。」

 私は彼女に近づき、その額に手を当てた。手が汗でじっとりした。

「熱でもあるのかという位熱いぞ。そう我慢するものじゃない。ちょっと待ってろ。」

 そう言い置いて私は台所に向かった。戸棚からガラスのコップを取り出し、冷蔵庫を開いて氷を入れた。氷とガラスがぶつかり、からんからんと音を立てた。次に私は水道の蛇口を捻り、コップに水を注いだ。ぴしりぴしりと氷が溶ける音がした。一杯になったコップを傾けると、氷同士がぶつかる音がする。私は妻にそのコップを持って行った。

 台所から戻ると、妻は前と同じように縁側に座って自分を扇いでいた。私は妻にコップを手渡した。

「ほら。」

「ああ、ありがとうございます。」

妻は団扇を膝に置き、コップを手に取ると、コップの淵に唇を当て水を飲み始めた。ゴクリゴクリと彼女の喉が鳴る。水は少しづつ、無くなって行った。

彼女が飲み終えると、コップの底に幾つかの氷の粒が残っていた。

「少し、楽になりました。」

「ああ。」

 私は妻の右に腰を下ろした。妻は再び団扇で自分を扇ぎ始めた。

「暑いですね。」

「ああ。」

 空が青かった。雲も殆どなかった。その青い空の中を、飛行機がゆっくりと飛んで行った。

 ふと、妻の方を見遣ると、彼女は左手で胸を開け、右手で団扇を振るって服の中へ風を送っていた。その開いた胸の隙間から、彼女の丸い乳房と、すこし黒ずんだ乳首が見えた。

 彼女は私の視線に気付いたのか、慌てて胸を隠した。

「どこを見てるんですか、そんな年にもなって。」

「ははは、いや、まあなんだ。今からするか。」

「嫌ですよ暑苦しい……。」

 そう言って彼女は私の背を団扇で軽く叩いた。

「……そう言えば貴方、何か仕事があるって言ってませんでした?」

「……ああ、そうだったそうだった。いやすまんすまん。」

 私は仕事を思い出し、書斎の方へと向かった。


 私は仕事を終え、書斎の中で椅子に座って窓の外を眺めていた。

 既に空は紅く染まっている。

 書斎の中は蒸し暑く、私のシャツはじっとりと汗ばんでいた。しかし、仕事を終えた疲労で、別の部屋に移動する事が億劫であった。少し腹が空いてきている。私はぼんやりと待っていた。

 やがて扉を叩く音がした。

「貴方、仕事は終わりました? お夕飯の用意が出来ました。茶の間にいらすって下さい。」

「ああ分かった。」

 私が応えると、彼女が立ち去る気配がした。

 私は腰を上げ、扉を開いた。彼女はもういなかった。私は彼女の言う通り茶の間に向かった。

 茶の間では、妻がちゃぶ台の上に配膳を行っていた。今日の主菜は鮭の塩焼きであった。

「……重いな。」

「いいんですよ、食べなくても。」

「食べないとは言ってない。」

 私は座布団を敷き、ちゃぶ台の前に座った。妻がごはんをよそぎ、私に茶碗を手渡した。配膳を終え、妻が私の対面に座する。

「頂きます。」

「頂きます。」

 私達は黙々と食べ始めた。

 鮭とごはんを交互に口に運ぶ。米の旨みと、鮭の塩辛さが口の中で混ざっていく。

 すぐに茶碗は空になった。

「お代わり。」

「はい。」

二杯目を受け取り、また食べ始めた。

ふと妻を見遣ると、妻も一心に口を動かしていた。その唇が鮭の油で光っていた。

やがて彼女は頬に米粒を付けた。

「おい。」

 私は私の頬を指差す。

 妻はそこを手で探った。

「あら。」

妻は米粒を取り、口の中へ放り込んだ。妻の頬がわずかに赤めいた。


「お茶どうぞ」

私が食べ終えると、妻は熱いお茶を私に差し出した。私はそれを受け取り、息を吹きかけ少し冷ました後、一息にそれ飲み干した。

「御馳走様。」

「御粗末様です。」

 妻は食器を片付け始めた。私はする事もないので、適当な本を持って縁側に行き、それを読み始めた。


 その後風呂に入り、私と妻は共に床に入った。私も彼女も浴衣を着ていた。

風を入れるため襖を開け放しておいた。そのために、部屋の中は月光でうっすらと明るかった。だが、部屋の中に風は入って来ず、夜だというのに蒸し暑かった。

 とても寝苦しかった。汗がじっと寝巻に染み込んでいった。布団を被る事など出来そうになかった。

 妻もまた、眠れない様子であった。彼女は何度も寝返りを打っている。そのせいか、彼女の寝巻ははだけていた。

「眠れんな……。」

「ええ……。」

 彼女ははあとため息を吐いた。そのため息は汗と熱を帯び艶めいていた。そのため息に、私は女を感じた。

 私は彼女の手を取り、自分の方へ彼女を引き寄せた。

「あっ、ちょっと。」

「どうせ眠れんのだし……。」

「しょうがないですね……。」

 彼女の体から力が抜けた。

 私は彼女の帯を解き、肩に手を掛けた。するりと浴衣が脱げ、彼女の裸体が月光に晒された。

「……まだ、綺麗だね。」

「お世辞を言って、もう年増ですよ。」

 そう言って彼女は少し膨れた。

 私も服を脱ぎ、裸になった。

 私が妻に近づくと、急に妻は私の手から逃れようとした。

「あっ、襖、閉めて下さい。外から見えてしまいます。」

「何、ついたてがあるのだから、覗こうとしなけりゃ見えはせん。それに見られたって構いやしないよ。」

 私は彼女に覆い被さった。


 

夏の夜に、男女の荒い息遣いが聞こえる……。


2017/06/13

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暑中 ナナシイ @nanashii

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