片目
ナナシイ
片目
「貴方、私の目、持っていってくださらない?」
私の彼女である雪子が、突然言い始めた。彼女は今、病床に臥している。
「どうせ明日は何処に行く予定もないし、面白いものは見られないと思うよ。」
「それでもいいわ。私はここから出られないのだし、外の世界を見られるだけでうれしいわ。」
「そうかい。」
「持っていってくださる?」
「ああ。」
彼女はうれしそうに微笑むと、自分の左目をそっと抜き取った。
「はい。」
私の手のひらに、彼女の目玉が置かれた。私はそれを自分の顔に近づけ、まじまじと見つめた。
「そんなに見ないで。何だか恥ずかしいわ。」
「見える?」
「ええ、貴方の顔が、とても近いわ。」
私が彼女の目玉を見るのをやめ、ポケットにしまおうとすると、彼女は慌ただしくそれを制止した。
「待って待って、それじゃあ見えなくなるじゃない。」
「ああ、すまん。しかし手に持って歩くわけにもいかないし。」
「……ちょっと待っててくださいね。」
そう言ってから、彼女は部屋の中を探り、一本の紐を取り出してきた。彼女は私の手から自分の目玉を取り、紐で目玉を軽く結び、目玉のネックレスを作った。
「はい。」
彼女は私の首に、そのネックレスをかけた。
「これで大丈夫ですね。」
「ああ。ちゃんと見えるかい?」
「大丈夫ですわ。」
「二重に見えて、混乱しないかい?」
「ええ、少し。でも今日はもう寝るだけだし、明日はできるだけ右目をつぶっておきますわ。」
「体に障らないといいんだが……」
「少しくらい、大丈夫ですわ。目薬、たまに差してくださいね。」
「わかった。」
私は雪子の部屋を後にした。外に出ると、秋の夜風が身に染みた。既に夜の十二時を回ろうというのに、街は明るかった。
私は手近な薬局に向かった。人を癒すはずの薬局も、今や休まず働いていた。私はそこで目薬だけを買い、さっさと店を出た。目薬は高かったが、彼女のためであるから仕方がなかった。
私は薬局の前の駐車場で目薬を箱から取り出した。目薬の容器は小さく、その値段と不釣り合いであるような気がした。私はその目薬を、胸元の彼女の目玉にさしてやった。
その後、私は脇目も振らず自分の家へと向かった。町の明るさがもの憂かった。鬱陶しかった。
家に着くと、私は目玉のネックレスを首から外し、枕元に置いた。そしてすぐに眠ろうと、寝台に入った。
目をつぶると、雪子の視線が感じられた。どうにも気になって眠れない。私は目を開いた。そして彼女の目を見た。彼女の目は私の方を向いていた。私は彼女の目に、再び目薬を差してやった。そして、私は彼女の目にそっと口づけした。私はかすかに口を動かし、お休みと呟いた。ふと気が付いて、彼女の目にハンカチをかけてやった。これで眠れるだろう。私は再度目をつぶった。今度は穏やかに眠ることができた。
翌日、眠りから目覚めた私は、まず雪子の目玉からハンカチを取り、目薬を差してやった。そして、彼女の目玉のネックレスを、首にかけた。
私は、彼女が見えるようにしながら、朝食をとった。トースト一枚と、一杯のコーヒーのみである。トーストには何も塗っていない。
ふと、雪子も今、何か食べているのだろうかと考えた。すると、何故か彼女と一緒に朝食を食べているかのような気分になった。
朝食をとり終えると、私は水族館に行くことにした。彼女が昔、海月が好きだと言っていたことを思い出したのである。彼女は、
「海月って何も考えずにただふわふわ浮いているだけみたいでしょ?なんだか平和で、いいじゃない。」
とそう言っていた。私はその時、その考えにさして共感しなかった。だが今、彼女に海月を見せてやろうという気になったのである。
私は財布と目薬、そして彼女の目玉だけを持ち、家を出た。
水族館へは電車で向かうことにした。私は家の近くの駅まで行き、切符を買って電車に乗った。人の入りはまばらで、私は席に座ることができた。
私はぼんやりと、流れ行く街の風景を眺めた。電車の窓からは様々なものが見えた。ビル、道路、家、田んぼ。私はなぜこうも種々雑多なものがひしめきあっているのだろうかと思った。しかし私はあの風景の中にはおらず、また雪子もそこにはおらず、私と彼女はただそれを見ているだけなのだということが少し不思議に思えた。
突然、電車の中を何者かが走り回る音が聞こえてきた。一人の男の子であった。親らしき者の姿はなかった。うるさいなぁと思って私はその子のことを眺めた。その子は、走りながら電車の中を行ったり来たりしている。何故そんなことをするのか、何故そんなに元気なのかと思った。しかし、その子は急に私の前でピタリと止まった。その子の視線は、私の胸元にある雪子の目玉へと注がれている。
「おじちゃん、それ、本物?」
その男の子が口を開いた。私は少し嫌な気がしたが、なるたけ穏やかに、
「そうだよ。」
と答えた。
「やっぱり見えてるの?」
「見えているよ。」
「この目の向こうに、誰かいるの?」
「そうだよ。」
「ふぅん。」
男の子は下を向いて何かを考え始めた。しかし、すぐにまた顔を上げた。
「おじちゃん、何でその人、そんなことするの?」
「えっ。」
「別に目玉だけになんかならなくたって、僕やおじちゃんみたいに、自分で歩いていけばいいじゃん。」
私は嫌なことを聞いてくる子供だと思った。
「いいかい、人にはね、事情ってものがあるんだ。」
「じじょう?」
「そう、事情だ。この目玉の持ち主はね、重い病気でね、あまり外には出られないんだ。だからこうして私が目玉を持ち歩いて、外の世界を見せてやっているのさ。」
「その目玉の人、外に出られないの?」
「そうさ。」
「何だか、かわいそうな人なんだね。」
そう言って、男の子は少し寂しそうな表情をした。しかし、また突然男の子は明るい表情になった。
「でも、じゃあ、おじちゃんはいい人なんだね。」
「えっ。」
「そんなおじちゃんと友達なんだから、その人、そんなにかわいそうじゃないのかもしれないね。」
「……。」
私は頷くことができなかった。男の子はそのまま笑顔で走り去っていった。私はもうその男の子を嫌な子供だとは思わなかった。しかし、その男の子は私の心に沈痛なものを残していった。
やがて私は電車を降りた。水族館は駅のすぐ近くにあった。私は彼女の目玉に目薬を差し、水族館に入っていった。
水族館の玄関で、私はまず入館券を買おうと、チケット売り場に向かった。窓口の上には料金表があった。入館券は一枚千五百円で、私は少し高いなと思った。しかし、そこに目玉の料金は書かれていなかった。
「あのう。」
「はい、何枚でしょうか。」
受付嬢ははきはきと答えた。
「大人一人と、それと目玉一つなんですけども。」
「それは本物でしょうか?」
「ええ。」
「当館では目玉に対して料金は課さないものとしております。ただし、貴方様のように正直に申し出た者に対しては、ですけれど。」
そして彼女は私の服装をちらと見て、
「訳ありなのでしょう?」
と言った。受付嬢は終始営業スマイルを崩さなかったが、しかし最後のこの言葉から、マニュアルから外れた温もりを感じた。
「それでは大人一人、千五百円でございます。」
私は入館料を払い、そして入館券を受け取った。
そして私は入場口へと歩いて行った。ふと、受け取った入場券を見ると、大人一人という文字にボールペンで線が引かれていた。加えてその下に、
『正直者一人と目玉一人』
と書かれている。女らしい、丸みを帯びた文字であった。その文字にも、私は言い知れぬ温もりを感じた。
入場口の係員もまた女性であった。彼女に入場券を渡すと、彼女はそれを見て、
「ふふっ。」
と笑った。私が怪訝に思うと、彼女はそれを察したのか、
「あ、失礼いたしました。」
と言った。
「あの人、こういうところに気が利くのだから……」
あの人というのはおそらく先にチケット売り場の受付嬢のことであろう。彼女は入館券を見て、笑ったのである。
「マニュアル通りの対応ではないのですか。」
「え、ええそうなんです。あ、目玉が無料というのはマニュアル通りなんですが。この水族館の館長も彼女と似たような人なんですが、ええと、しかしこの文字は気が利いているでしょう。いるんですよ、やっぱり。目を隠し持っている人が。」
「はぁ。」
「あ、すいません。不快に思われてはいないですか。」
「はい大丈夫です。むしろこういう対応は有り難い位で。」
ふと後ろを見やると、一組のカップルがこちらに向かって歩いてきている。
「あの、そろそろ……。」
「あ、失礼いたしました。」
彼女は慌てて入館券にスタンプを押し、私に返した。
「それではどうぞごゆっくり、ええと、お二方様。」
どうやらそそっかしい人のようだ。私は水族館の中へと入っていった。
もう、沈痛な気持ちは残っていなかった。
館内は、青を基調とした落ち着いた色彩をなしていた。私は雪子に見えるよう気をつけながら、館内の水槽を見て回った。
初めの方の水槽は小さく、その中にそれぞれ別の生き物達がいた。色とりどりの魚がいた。貝がいた。奇妙な姿形の深海生物もいた。これ程多くの種類の生き物が地球上に存在することに、私は少しばかりの驚きを覚えた。
やがて海月の水槽にたどり着いた。私は雪子にしっかり見せてやろうと、海月の水槽の前で立ち止まり、彼女の目と共に、じっくり海月の姿を眺めた。海月は、白く半透明なその体をくねらせながら、水槽の中をふわりふわりと浮かんでいた。海月のその姿は、ある種奇妙であった。しかし、何の表情もなく、その頭部を揺らしながら浮かぶその様は、雪子が言っていた様に平和そのものであった。彼女が言わんとしたことがわかった気がした。
私は海月の前から立ち去り、次の場所へと向かった。水槽の大きさは次第に大きくなり、一つの水槽の中にいる生物も、多種多様なものになっていった。
途中、私の目を特に引いたものは、イワシの群れであった。そのイワシ達は、水槽の中を埋め尽くす程の大群であった。しかも彼らは、何故か、水槽の中を止まることなく回り続けているのである。それなのに、彼らがぶつかり合うということは一切ない。一見乱雑な編隊が、鮮やかな円軌道を描いているのである。私は彼らを驚嘆の目で見つめた。そして、彼らは何故回り続けるのだろうかと思った。
或る時、一匹のイワシと目が合った。私は、イワシもまた私を見ているのだと思った。そう、イワシもまた何かを見ているのだ。イワシが見る景色はどんなものであろうか。彼らが回り続ける故に、世界が回り続けているように見えているかもしれない。彼らが回り続ける故に、彼らが見る景色は、移り続けているのかもしれない。だとすれば、彼らは電車の中で座席に座って窓の外を眺めていた私と同じなのではないだろうか。私もこのイワシ達も、等しくガラスの向こうに世界を見ている。しかし、そのガラスの向こうの世界に、等しく己の姿はないのである。私は、ぼんやりとイワシに共感を覚えた。
雪子はこのイワシ達を見ているだろうか。きっと見ているだろう。彼女だって何かを見ているのだ。確かに、そう思った。
水族館の最後には、これまでで一番大きな水槽があった。その中には、多くの生き物達が共生していた。マンボウがいる。エイもいる。サメもいる。そしてそれらの大きな魚の周りをうろつく小魚達もいる。私はそれを雪子と見ていた。私は一人ではなかった。
私は多大な満足を得て水族館を後にした。既に夕暮れであった。水族館からでると、私はすぐに雪子の目に目薬を差した。私は彼女に目を返そうと、彼女の家へと向かった。
合鍵を使って彼女の部屋に入ると、部屋の玄関に彼女が立っていた。
「駄目じゃないか、寝ていないと。」
「だって私の家が見えたから……。」
「ああ、なるほど。」
私は私の首にかかっている目玉のネックレスを外し、彼女にそっと手渡した。彼女は目玉にかかっている紐を解き、目玉を元あった場所へ戻した。
「大丈夫かい?」
「ええ。」
「痛くないかい?視力は落ちてないかい?」
「大丈夫ですわ。貴方がちゃんと目薬を差してくれましたからね。」
私たちは部屋の中に入った。彼女は床に入り、私は椅子に腰かけた。
「今日は楽しかったわ。」
「そうかい。」
「何処にも行く予定はないと言っていたのに、わざわざ水族館に行ってくれたのね。」
「ああ。」
「貴方、私が海月が好きだってこと、覚えていたのね。」
「ああ。」
「ちゃんと長いこと立ち止まってくれて……。そういえばイワシの前でも長いこと立ち止まっていたわね。」
「いや、何、ぐるぐる回り続けているのが面白くってね。」
「ふふっ、そう。」
彼女は少し遠い目をした。
「今日は楽しかったわ――。」
「今度は二人で行こうな。」
「ええ。」
「ちゃんと、治すんだぞ。」
「ええ。」
私は彼女の夕食を作り、彼女の部屋を後にした。
夜にも関わらず、やはり街は明るかった。ふと空を見上げると、空まで明るく、星は一つも見えなかった。だが、そんな夜空の中、ただ月だけは、その金色の光を冴え渡らせていた――。
2016/10/13
片目 ナナシイ @nanashii
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