新興宗教旅立ち教

ナナシイ

新興宗教旅立ち教

 私の彼女である佐伯理恵が、何やら新興宗教にはまったらしい。彼女は、旅立ちの日が訪れるとか、この世界から抜け出さなければならないとか、そういう奇妙な事を言い始めたのだ。その話をする彼女の目は、キラキラと輝いていた。しかし、彼女の話を聞いても、私の内に釈然としないものが残った。彼女にそのことを伝えると、それは教祖の話を直接聞いていないからだという。そして、週末に教祖の講演があるから一緒に行かないかと言われた。私は冗談ではないとも思ったが、しかし、その教祖の話というのが下らないものだったならば、それを真っ向から否定し、彼女の目を覚まさせてやろうと思った。

彼女に同行する旨を伝えると、

「よかったぁ。一人で行くと心細くって。前の方で聞こうね。」

と彼女は言った。


 週末、彼女に案内された建物は、鼠色の、みすぼらしいコンクリート造りの小さなビルであった。外壁のそこかしこにひび割れがあり、その色もどこかくすんでいた。築何年の建物なのだろうか。十年や二十年は下らないだろう。普通の教会や神社のような神聖さなどどこにもない。まさにどこにでもあるビルであった。思わず、理恵に尋ねた。

「ここ……?」

「そう、ここ。ここの二階。質素でしょ。」

「質素って……。しかもビル全部ですらないのか。」

「まあいいでしょ。早く行こ。」

 理恵に促されビルの中に入る。

 ビルの中は薄暗く、埃臭かった。窓はくすみ、天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。

「本当に、ここなの?」

「そうよ。」

「宗教ってもっとこう外観とかにも気を遣うものなんじゃ。」

「そういう宗教とは違うのよ。まあ教祖様の話を聞けばわかるわ。」

「はぁ。」

 困惑したまま私は理恵と共に階段を登り、やがて二階の一室に案内された。

 その部屋は、やはり宗教という名には程遠い、薄汚れた部屋であった。広さは学校の教室二つ分位であろうか。コンクリート造りの壁にはやはりひび割れ。木製の床には、至る所に埃の塊が転がっている。そして、部屋の中にあるのは、部屋の前方に置かれた演壇と、それに向かって並べられている多数のパイプ椅子だけであった。

まだ私たち以外に人はいなかった。

「その演壇に立って教祖様が話をするの。」

 しかし、それにしては椅子と演壇の距離が近すぎる。先頭に座った者が立って手を伸ばせば、その教祖とやらに触ることも出来そうだ。教祖というのはもっと高い所から見下ろしてくるものではないのか。

「さ、前に座りましょ。早く来たから、一番乗りみたいよ。」

 私と理恵は、演壇の正面、最も近い椅子に座った。


 十分程経つと、他の信者らしきものがぞろぞろと入ってきた。そしてすぐに室内の椅子は、信者で埋め尽くされてしまった。三、四十人はいそうである。

 理恵が腕時計を見て言った。

「そろそろよ。」

 私は幾何か身構えた。

 しかし、やがて部屋に入って来て、演壇に向かった教祖と思しき男は、丸顔で背の低い、気のよさそうなおじさんであった。頭は坊主。上着に薄っぺらそうな灰色のコートを着ていた。私は幾らか拍子抜けした。

 私は彼女に囁いた。

「彼が、そう?」

「そう。彼が教祖様。」

 威厳の欠片も有りはしなかった。

 彼は演壇に立ち、大声で喋り始めた。

「お集まりの諸君、今日はよく来てくれた。これから私はいつもの、下らない話をさせてもらう。眠らずに聞いてくれたら幸いである。所で先頭の君、今日が初めてだね。」

 突然、私は彼に指差された。

「あっ、はい。」

「そうか。よく来てくれた。誰の紹介かね。」

「私でーす。」

 理恵が手を挙げた。

「おお理恵君か。よしよくやった。彼に見込みはあると思うか。」

「あると思います。実は彼、私の彼氏なんです。」

「ほーそうかね。それで君、名前は?」

「田中啓ですけど。」

「よしよし、覚えておこう。」

 やたらフレンドリーな教祖である。私はさらに困惑した。

「まあつまらない話はここまでにして、いつもの話を始めよう。」

 教祖は全員の方へ向き直った。

「さてお集まりの諸君。まず、諸君らの中に己がマジョリティ、即ち大衆の側に属していると思っている者がいるならば、すぐにここを出て行って欲しい。私が今からする話は、マジョリティのためのものではないのである。私がする話は、悉くマイノリティ、特に絶対的なマイノリティのためのものなのである。」

 彼はそこで一旦喋るのを止め、部屋の中を見回した。

「……よし、我々の敵はいないな。よろしい、ではいつものように空を舞うエレジーをお聞かせしよう。」

 彼は語勢を強めた。

「諸君、世の中やれ民主主義だやれ人民の権利だと何やら浮かれているが、しかし我々は幸福だろうか。否、否である。我々は不幸だ。さてそれは何故だ。我々だって民衆の一人だ。民衆の一人なんだから、我々は国を動かす力を持っているはずだ。そんな我々が不幸である筈がない。にも関わらず、不幸だ。ということは我々に国を動かす力なんてないんだ。何故か。それは我々がマイノリティだからだ。結局、選挙なんてものはマジョリティがマジョリティの意見を通すだけのもの。我々マイノリティの意見を汲み取るためのものなんかじゃあない。いいか。王様が民衆を虐げていた時に比べれば遥かにマシだとかいう奴がいる。だがそんなのはまやかしだ。昔は王が上で民衆が下。今は大衆が上で我々少数が下だ。結局虐げられる者からすれば何一つとして変わっちゃあいない。強者が上で弱者が下。それが世界の真実。それが世界のルール。この世に、救いなど有りはしない。」

 私は何かの政治団体の集会にやってきたのだろうか。新興宗教の集会に来たのではなかったのか。しかも、これはまごうことなきアナーキズムではないか。

「諸君、イエスが生まれてから何年経っただろうか。二千年だ。彼は何と言っただろうか。ただ隣人を愛せと言ったのだ。そして彼は、全人類の罪をその一身に背負い、虐げられたのだ。彼は己が虐げられる最後の人であろうとしたのだ。だが、それでも世界には虐げられる人がいる。何故なのだ。彼が生まれる前も、そしてその死の後も、それは変わらなかった。知を愛した者は毒杯を仰ぎ、兼愛の武闘家は忽然と姿を消し、清貧の修道士は火刑に処された。史上、あらゆる者が虐げられ、ある者は苦しみ、そしてある者は断末魔すら上げずに死んでいった。そして、この我々も、現にまた虐げられている。何故だ。何故なんだ。我々が道を誤ったというのか。否、そうではない。我々は自立し、自ら思考し、そして自我を得た瞬間からマイノリティなのである。己はただ一人である。故に己が確立されたならば、人は一人になるのである。自我を得し者は、マジョリティではいられないのである。」

 私はここへ来たことを後悔し始めた。理恵は一体何を思って私をここに連れてきたのだろう。ちらりと理恵を見ると、彼女はまっすぐに教祖を見つめていた。その瞳は爛と輝いていた。

「諸君、これだけは記憶してくれ。この世界は我々が生きていけるような場所ではない。この世界はクソッタレだ。幾ら修正を加えようと、幾ら革命を起こそうと、絶対に変わりはしない。いつだって弱者は虐げられるのだ。壊しても壊しても無駄である。それに我々弱者の何処にそんな、壊すための力があるのだ。」

 そこで彼は大きく息を吸った。

「故にだ、諸君。我々は旅立たなければならない。こんな世界など捨てて旅立つのだ。南方の、楽園へと。我々は海を渡らなければならない。誰の力も借りずに。モーセは海を割ったが、しかしそんな力私にはない。諸君らにもない。だから我々は海の中を進まなければならない。故に肉体も捨てねばならない。全てを捨て、魂だけとなって楽園に至るのだ。だが、もしかしたら我々は輪廻の輪に捕らわれているかもしれない。しかし、もしそうだとしても、我々は旅立ち続けなければならない。何故なら、この世界に留まっていては我々が救済されることはありえないからである。よいか諸君。私と共に、この世界を捨て旅立とうじゃあないか。もし諸君の隣人に、我々のような人がいるのならば、是非私の講演に連れてきてほしい。そして共に、旅立ちの日に備えようではないか。」 

 彼が話終えると、聴衆から拍手が沸き起こった。そしてそれは数十秒もの間、鳴りやまなかった。

 拍手が止むと彼は言った。

「では諸君、質問はないかね。」

私は手を挙げた。

「何かね田中啓君。」

「あのぅ。その楽園とかいうのは本当にあるんですか。」

「知らん。あるかもしれないし、ないかもしれない。」

「そ、そんな無茶な。」

「それでよいのだ。少なくとも、我々はこの世界から出て行かなくちゃならん。そうしなければ我々に救済はないからだ。それなら、どこを目指したって構わないだろう。だったら、あるかないかわからん場所でもよいではないか。あると信じて、ただ祈ればよかろう。」

「……。」

 暴論である。少なくとも私はそう思った。反論するのも、馬鹿馬鹿しくなった。

「他に質問はないかね。よし、それでは次回の講義は再来週の日曜日、場所は今日と同じだ。では解散。とっとと帰りなさい。」

 彼は部屋から出て行った。後に続くように他の信者も部屋を出て行き始めた。

「これで終わり?」

「うん終わり。さあ帰ろう。」

 理恵とは、もう別れようと思った。


 

一ヶ月後、私は理恵とは別れていた。

あの、強烈な教祖の演説は、ぼんやりと頭の片隅に引っ掛かり続けていた。しかし、彼らの考えに共感することはなかった。

私は何より、この世界にそこまで絶望していなかった。私は自分が幸福だと、そう思っていた。


それから更に半年後、私の下に手紙が来た。手紙の封自体の差出人は理恵であった。しかし、中には二通の手紙が入っていた。

 一通は理恵からである。それには次のように書かれていた。

『 田中君へ

私が入った宗教に貴方が幻滅したことはわかっています。それで私と別れたことも、わかっています。それは仕方のないことだとは思います。でも、私たちは明後日、旅立つことになりました。出来れば貴方に私たちの旅立ちを見に来てほしい。そう思って手紙を出しました。私たちの宗教をあなたが理解する必要はありません。それでも、あなたには見に来てほしい。見送ってほしいのです。厚かましいこととは思いますがお願いします。場所は……。』

 もう一通は例の教祖からであった。

『 田中啓殿

私は貴方が理恵君と一緒に来た講演の、講演者です。理恵君が貴方に手紙を出すというので私の手紙も同封させて頂きました。貴方は、あの一度だけしか来てくれませんでしたね。私の話が、面白くはなかったのでしょう。でも、これだけは知っていて欲しい。私は辛いのです。苦しいのです。この世はあまりにも生き難い。だから、私達は明後日、旅立つことにしました。私は出来れば誰かに見送って欲しいと思います。お時間がございましたら、よろしくお願いします。

 追伸・彼女を連れて行くことをお許し下さい。』

 読み終えると、私は大きく溜息をついた。全く、何て奴らだ。

 しかし、彼らが本当に旅立つのか、本当にあの話のような自殺行為を行うのかどうかということが、気になっていた。

 

 二日後。私は車を南の浜辺へと走らせていた。どうやらその浜辺に信者達が集まるらしい。

 旅立ちとやらに相応しく、その日はよく晴れていた。

 浜辺に着くと、七人の人間が輪になって集まっていた。皆裸足であった。その中には、例の教祖と、理恵もいる。海開きはまだであり、彼らの他に人はいなかった。

 私は車を降り、彼らの方へ歩いて行った。すると、教祖が私に気付き、駆け寄ってきた。

「どうも、田中さん。よく来てくれました。」

「あぁ、はい。本当に行くのですか。」

「もちろんです。」

「しかし、講演の時より遥かに人数は少ないようですが。」

「ええ、まあ、仕方のないことです。我々はマイノリティですから。でも、人数は問題ではないでしょう。何より、貴方が来てくれた。これは大きい。お見送り、よろしくお願いします。」

「はあ。」

 彼は、私を他の人々に紹介した。すると、人々は口々に、

「よろしくお願いします。」

と言った。老若男女問わず、そこには様々な人がいた。そして最後に理恵が、

「よく来てくれたわ。ありがとう。」

と言った。

 信者達はどことなく皆晴れやかな顔をしている。決して、これから死のうという顔ではなかった。

「田中君、これを見てくれ。」

教祖は砂浜の上に置かれた、白い、ブーツのようなものを指差した。何となく、いびつな形をしている。色もペンキで塗られたようで、むらがあった。それはぴったり七足分置いてある。

「何ですか、これ。」

「これは鉄で出来ていてね。これを履いて海に入るんだ。ちゃんと重量も計算して、海底まで沈むことが出来て、なおかつ、歩くのがしんどくないようにしたんだ。」

「自分達で作ったんですか。」

「そうそう。」

「ははぁ。」

 私は少し感心した。

「ああ、そろそろ時間だ。田中君、最後にこれを受け取って欲しいんだ。」

 彼は懐から一冊の手帳を取り出した。

「いいかい。これには今日旅立つ我々の、名前とか、住所とか、職場とか、要するに我々の身元がはっきりする情報が書いてある。もしかしたら、我々がいなくなることで、悲しむ者があるかもしれない。だからもし、君がそういう人を見つけたら、伝えて欲しいんだ。今日、我々がどのように旅立ったのかを。そして、我々は悲しみを抱いて旅立ったのではない、希望を抱いて旅立ったのだと。頼むよ。」

 そう話す彼は微笑んでいた。そして、彼は私にその手帳を手渡した。

「よし、皆靴を履け。」

 信者達は一斉に白い靴へ足を入れ始めた。

 最も早く靴を履き終えたのは、理恵であった。彼女は私の方へ近づいてきた。

「田中君、わざわざつきあわせて、ゴメンね。私たちはもう終わってるのに。」

「いや、いいんだ。本当に君らが旅立ちとやらをやるのか、それが気になっただけさ。」

「そう。私たち、行くわ。きっと楽園に、行くわ。」

 そう言う彼女の瞳はやはり輝いていた。

そして、彼女は海の方を見た。私もつられて海を見る。波がほとんどない、穏やかな海であった。鳥も船も通らない、静かな海であった。

「ああ、行けるといいな。」

 私は何故か、本心からそう言った。

 教祖が声を張り上げる。

「よし、皆靴を履いたな。皆一列に並べ。いよいよ出発だ。」

 信者と教祖は波際に、横一列に並んだ。

「手を繋げ。」

 すると彼らは、隣同士手を繋いだ。

「諸君。いよいよ我らは旅立つ。この世界を捨て、我らは旅立つのだ。我らは十中八九死ぬことになるだろう。だが恐れるな。肉体を捨て、魂だけとなっても、さらに歩き続けることが出来れば、やがては楽園に至ることが出来るだろう。それに皆一緒だ。ここにいる七人は、運命を共にするのだ。さあ、行こう。旅立ちだ。」

 七人は歩き始めた。

やがて白い靴が海に沈む。そして海は、ひざ、ふともも、尻と次々に彼らの下半身を飲み込んでいった。だが、七人の歩みは弛まない。その列も乱れはしない。

 彼らの肉体は遠ざかるにつれ、小さくなっていく。さらに腰が沈み、背中が沈み、腕が沈み、そして肩まで沈んだ。もう、小さな頭だけが海に浮かんでいる状態となった。 

 そこで、理恵が振り返り、私の方を見た。もう、よく見えなかったが、しかし彼女はにっこりと笑ったように見えた。

そして彼女は再び前を見る。もう二度と振り返らなかった。

 海面に浮かんだ七つの小さな頭が、次第に海の中へと沈んでいく。そして、私が瞬きをした瞬間に、それらは完全に見えなくなってしまった。

 後には静けさだけが残った。彼らは、行ってしまったのだ。


 一週間後、彼らが旅立った場所とは別の浜辺に、七つの水死体が打ち上げられたというニュースをテレビで見た。警察は身元確認を急いでいるという。

 私は教祖に貰った手帳を持ち、警察署へ向かうことにした。

 彼らは一体何者であったのだろうか、それはわからない。だが、間違えられては欲しくないと、私はそう思っていた。


2016/10/14

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