生命の雪

ナナシイ

生命の雪

「胡蝶の夢ってご存知かしら。もしかしたら、私達のこの世界は蝶が見る夢の世界なのかもしれないって話よ。だからこの夢から覚めたら、私は蝶になってふわふわと宙を舞えるかもしれないのよ。それって、何だか素敵じゃない?」

 そんな事を言っていた私の妻、綾子は、十月の初めに死んだ。癌であった。発見した時には既に手遅れであった。まだ若いというのに、あっけなのない最後であった。

 妻の葬式に、私は何の感慨もわかなかった。魂が抜けた妻の肉体に、妻は存在していなかった。墓に入って行った骨や灰にも、彼女は存在していなかった。

 私達の間に子はなかった。彼女の両親も、私の両親も、既に他界していた。兄弟もない。義兄弟もない。妻を失い私は一人になったのだ。

 私は妻の後を追い、死のうと思った。しかし、自分で自分を殺める気にはなれなかった。私は、弱い人間であった。

 だから私は、雪山に己を殺して貰おうと思った。吹雪の中、寒さによって死ぬことが出来れば、眠るように死ねるだろうと、そう思ったのである。

 十二月の中頃、諸々の手続きを済ませた私は、雪山の麓にある小さな温泉街に泊まった。死ぬのに良い日を選び、山に入るためである。

 その温泉街は雪に埋もれていた。まばらにある商店や宿の屋根には雪が積もり、庇からはつららが伸びている。路上はその大部分が白く染まり、土が覗くのは、人が繁く通るであろう場所のみであった。

 戸を開け放っている商店はほとんど無い。人通りも少ない。その小さな温泉街はひっそりとしていた。活気というものが感じられない。どこか寒々しい感じがした。

 しかし、にも関わらず、所々にある湯が貯められた場所に近づけば、何だか暖かいような気がする。あべこべであった。こういう、ある種不思議なことに出会えば、何だか頭がもやもやとした。

 私はどうせ死ぬのであるから、その街で最も良い宿、最も良い部屋に泊まった。後の事は考えなかった。

 一人の私に部屋はとても広かった。他に客もいないらしい。この宿もまた、ひっそりとしていた。

 私は誰にも邪魔されず、ぼんやりとしていた。考えることは何時死ぬか、それだけであった。何のしがらみも無い。すると妻の、胡蝶の夢という言葉がどうしても思い出されてきた。

 何一つ、確かなものがない。ここは夢の中なのではないかと、そう思われるのである。

 湯に浸っても、食事を取っても、この幻想は晴れなかった。透明な湯は、さらさらと手の間をすり抜けた。美味い食事は、しかし、食べ終えると、曖昧な記憶をしか残さなかった。

 やはり死ぬべきなのだろうと、そう思った。


 或る日、明日、山の上は吹雪になるという予報をテレビで見た。

 遂に死ねるのだと思った。


 翌日、まだ日が昇りきらぬ内に私は目覚めた。そして、山に入る準備をした。しかし、準備と言っても大層な事はしていない。机の上に遺書を置き、普通の服を着て、その上から一枚外套を羽織っただけである。まともな防寒具は用意していない。死ぬために生きるための装備を用意するなど、馬鹿馬鹿しい事だと思った。用意したのは唯一、雪道を滑らずに歩くための、アイゼンだけである。

 私は、準備を終えると、誰にも見つからないように静かに宿を抜け出した。何一つ荷物は持たなかった。

 街は静まり返っている。ひどく肌寒かった。

 誰にも会わない、そう思って歩いていると、街の外れで薪を割る音が聞こえてきた。

 しかし、山に至る道はその道しかなかった。仕方がないからそのまま進むと、案の定、斧を振るう老人に見つかってしまった。彼は私を見つけると、遠間から声を掛けてきた。

「おい、おめえ。今日の山は吹雪くぞ。そんな軽装で山に入りゃあ、死んじまうぞ。」

「わかってます。ちょっと入り口まで行って様子を見てくるだけです。」

「こんな朝早くにか。本当か。」

「本当です。大丈夫です。」

「……ならいいが。気い付けるんだぞ。死ぬんじゃねえぞ。」

「はい。」

 どうやら老人は私の言葉を信じてくれたらしい。

 私は山の中へと入って行った。


 山の中では、あらゆるものが死んでいた。木々の葉は枯れ、木々の上で囀る小鳥の姿も、地を這い回る虫達の姿も、今は何処にもない。全てが、雪に覆われていた。私もいずれこの雪の中に埋もれることになるのだと、そう思った。

 暫く、山頂に向かって歩いていると、日が昇り始めた。木や雪が、日差しに照らされていく。しかし、それでも 山は蘇らない。何一つとして動くものはない。私は一人であることを感じた。

 空を見ると、よく晴れていた。雲などほとんどない。予報は外れたのだろうか。もしそうなら、とりあえず山頂まで行き、それから大人しく帰ってこようと、そんな呑気な事を考えた。


 だが、山の天気は変わりやすい。

 私が、頂上を目指して歩き続けていると、突如、暗雲が空を覆い、穏やかな雪が降り始めた。そうかと思っていると、直ぐに強風が吹き始め、辺りは吹雪となった。

 豪と音を立てながら、私の体に猛烈な風が吹き付けた。肩やコートのボタン、更に耳元にまで雪が積もっていった。それらの雪は、私の体温を奪いながら溶けていく。冷たかった。水となった雪は、更に私の衣服に染み込んで行った。それがなお冷たかった。

 私は遂に死ぬのだと思った。

ふと、山頂で死ななければ妻に、綾子に会えない、そんな考えが脳裏をよぎったのである。私は、天に近づかなければならないと思った。歩き続けねばならなかった。

吹雪は次第に強まって行った。視界はどんどん白くなり、何も見えなくなってきた。遠方にある木の姿が、雪で遮られ、霞んでいく。

 風と雪が吹き荒び、私の体温を、命を奪っていく。全身がぶるぶると震える。とても寒かった。ただただ寒かった。

 それでも私は、山頂を目指して歩き続ける。

 やがて、本当に何も見えなくなった。視界は完全に白く染まった。顔を打つ雪のせいで、ほとんど目も開けていられない。方角もわからなくなった。山頂がどっちにあるのかも、わからなくなった。

 それでも、ひたすらに歩き続けた。

 やがて、冷たさや寒さが、痛みへと変貌していった。手先が凍え切ってしまい、下手に動かそうとすると痛みが走った。

 痛みが走る部位は更に広がっていった。手先だけであった痛みは、耳や鼻、手先や足先などの先端部から、段々とその根元にも伝わっていった。腕を振るう度、歩みを進める度、私の体は悲鳴を上げた。痛みが襲ってくる度、私の力は失われていった。

 私は、なおも歩こうとした。しかし遂に歩けなくなった。私は雪に足を捕られ、そのまま雪の中へ倒れ込んでしまった。

 私はもう一度立ち上がろうとした。しかし、腕に力が入らない。それでも無理に力を入れようとすると、激痛が走った。私にはもう起き上がる力も残っていなかった。 

しかし、その痛みも、段々と失われた。

寒さも感じなくなってきた。手足の感覚が無くなり始めている。いや、体中の感覚が無くなり始めている。

 私は、なんとか頭を持ち上げ辺りを見た。真っ白であった。何一つとして見えるものはない

そして、もう、何も、感じなくなった。


(ああ、これは夢だ。何もない。全てがぼやけていく。)

 瞬間、私の脳裏に、暖かい春の野を舞う二匹の蝶の姿が浮かんだ。片方は私、もう片方は綾子だと思った。二匹の蝶は、仲良く一輪の花の周りを回っている。

 私は力無く、雪の中に顔をうずめた。

(綾子よ、もうすぐだ。もうすぐ会える。この夢から覚めれば、またお前と一緒だ。)

 涙は出なかった。ただ、私は、はあと一つ、溜息をついた。

 すると、半開きになった私の口の中へ、雪が入って来た。

 口の中に、雪の冷たさが広がった。

 私は、冷たいと思った。

(あれ……。)

 もう一度私は雪を食んだ。冷たい。冷たいのだ。それは確かな感覚だった。

(私は、まだ、生きているのか。)

 私は必至で口を開き、雪を喰らった。口内でとけ、水となった雪を飲み下した。己の内に、その冷たさが響き渡った。

(ああそうか。私は、夢の中でも、生きているのか――。)

 しかし、段々と意識が遠のき始めた。

 雪も、もう食えぬと思った。

 己の体が、雪に埋もれていく。

(駄目か……。)

 しかし、そう思った矢先の事である。何者かが近づいてくる気配がした。

 私は最後の力を振り絞り、その方向へ目を向けた。雪の内より、人間が現れた。麓の薪を割っていた老人であった。彼は、きっちりと防寒具を身に着けている。

「やっぱりおめえ死ぬ気だったか。幾ら待っても降りて来ねえ。心配になって来てみたら、案の定だ。だがこの山では死なせねえ。ここは俺の山だ。」

 老人の顔が間近に迫る。私はか細い声を絞り出した。

「老人……。わかったのです……。」

「おい、何がだ。」

「わかったのです……。私は生きている、生きているんです……。」

「何訳わからねえ事言ってやがる。いいか、死ぬんじゃねえぞ。おい、ぉぃ、……。」

 老人の声が遠のく。

 私は意識を失った。


 私が意識を取り戻すと、私の前には真っ白い天井があった。見れば、私は白いシーツにくるまれている。ここは雪の中ではない。病院の中であった。私は助かったのだ。

「お目覚めになられましたか。」

 ナースがやって来て、私に声を掛けた。

「ええ。もう夢は覚めました。いや、たとえこれが夢の中でも、それは関係ないのです。」

「はあ。……貴方、死のうとなされたんですって?何故そんなことを。」

「もう、そのことはいいのです。私は生きてみせます。生きてみせましょう。」

 窓の外には、穏やかなる日の光があった。

 直、春が来る。私は、春の野に立つ私を見た。その姿は、まごうことなき人の姿であった。


2016/10/13

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