ナナシイ

 私は勉学において諸々の失敗をし、地元を離れ、地方の大学に進むことになった。私は地元に留まることを欲したが、やむを得なかった。親元を離れ、一人で暮らすことが不安であった。

 私の新居は十畳もの広さがあった。さして汚いところもなく、清潔であった。家賃は四万円であり、破格の安さであったが、一人で暮らすにはあまりにも広かった。家具も最低限のものしか置いていなかったから、なおのことであった。この新居への引っ越しが終わり、手伝いに来ていた家族が帰ってしまうと、私はこの広い空間に一人取り残された気分になった。

 大学が始まるまでは間があった。私はすることもなく、本を読むかネットを見るか、ぼんやりと外を眺めるかして暮らした。私の部屋は国道に面しており、窓からはそこを走る車の列が見えた。それらの車はどこへ行くのだろうかなどと、途方もないことを考えたりした。しかし、一台一台車が去っていくにつれ、取り残されているという感覚は一層濃くなっていった。また、そのようなことを考えている自分にも嫌気が差した。こんなに遠い所まで来て私は一体何をしているのであろうかと。しかし、ただただもの憂かった。どこかに行こうという気にも、何かをしようという気にもなれなかった。


 或る朝、私は部屋の中に一匹の虫が飛んでいるのを見つけた。蠅であった。しかもそれは大きな黒い、家蠅であった。その大きさは、蠅の目や、体毛がはっきり見えるほどであった。私はその蠅をとても不潔に思った。その蠅は、清潔な部屋に突如として現れた黒いシミのようなものであった。だが、私はその時、蠅を殺しにかかることすらもの憂かった。蠅を見つけたその時は放っておくことにした。

 しかし、蠅というものは一体全体何を考えているのか、人間を挑発するようなことばかりする。飯を食えばその飯に止まらんとする。本を読めばその本に止まらんとする。また眼前をかすめたり、わざわざ顔目掛けて突進してくることすらある。私はこの蠅が何かするにつれ、段々、腹が立ってきた。そして、夜になって私が布団に入り、いざ眠らんと目を瞑っていた時のことである。突然、この蠅は私の耳元で羽音を鳴らし始め、私の眠りを妨げたのである。その時、遂に私はキレた。

(畜生、この蠅め。こっちが何もしないとみていい気になってやがる。よし、そっちがそこまで人間様を怒らせたいなら、乗ってやろうじゃないか。お前を殺してやる!)


 私は布団から抜け出し、ティッシュを手に取った。その蠅は素手で潰すにはあまりに大きく、不潔に感じたからである。しばらく、私は蠅が壁に止まるのを待った。そして蠅が壁に止まった瞬間、私は蠅目掛けて全力でティッシュを叩き付けた。しかし蠅はそれをサッとかわし、宙に逃れてしまった。私は軽く舌打ちした。私の手から逃れた蠅は、宙を悠然と飛んでいた。その様子には尚腹が立ったが、しかしどうすることもできなかった。私は大人しく、蠅が再び壁に止まるのを待った

 蠅はゆらゆらと電灯の周りを飛んでいたかと思うと、突然下に降りてきて、やがて壁に止まった。私はあまりに早く叩こうとすると、蠅は風にあおられ逃げてしまうのではないかと考えた。そこで今度は非常にゆっくり、ティッシュを近づけていくことにした。段々、段々と、私は息を殺しながら、蠅にティッシュを近づけていった。しかし、あと少しというところで、またも蠅は私に捕まることなく飛び立ってしまった。私は地団駄を踏んだ。何という虫であろうか。わざわざ壁に止まって無防備な体をさらしながら、私が捕らえようとするとサッサと逃げてしまう。宙をぐるぐると回る様は、まるで私をあざ笑うかの様であった。

 その後も、私は蠅に向かってティッシュを振るい続けたが、蠅は一向に捕まらなかった。気が付けばティッシュなど捨て、素手で蠅を潰そうとしていた。しかし結果は同じことであった。私は、そのうちに疲れ果てて寝てしまった。


 翌日、朝早く目覚めた私は、すぐに蠅の存在を思い出した。蠅は今日も今日とて部屋の中を飛び回っていた。私の脳内はすぐにやつを如何にして仕留めるかということで占められた。

 しばらく考えた結果、私はテレビのある番組で、蠅の駆除方法が紹介されていたことを思い出した。その方法とは、蠅にドライヤーの風を当てるという方法である。どうやら蠅を含む小さな羽虫は、風に対して踏ん張り、その場に留まろうとする性質があるらしい。その踏ん張っている間蠅は動くことができず、完全に無防備になるのである。私は早速その方法を試さんと、ドライヤーを取り出した。そして、またも蠅がどこぞかに止まるのを待った。

 やがて、蠅は本棚の上に止まった。瞬間、私はドライヤーの風口を奴に向け、風を吹き付けてやった。蠅の羽が風で震えた。所が、蠅がその場で踏ん張るということなどなかった。蠅はまたも宙に飛び立ったのである。風で逃げたのか、ドライヤーの音で逃げたのか、それは判然としなかった。しかし、私は例の番組に騙されたと思った。私は幾度か風を吹き付けてやったが、何度やっても結果は同じであった。

 そこで次に私が頼ったのはインターネットであった。私はしばらく、私の周りをうろつく蠅を無視してキーボードを叩いた。結果、私が見付けたのは置き罠であった。これは、蠅が好む種々の液体をペットボトルに入れ、そこへ洗剤を少したらすというものである。液体の匂いに引き寄せられた蠅が液中に入ると、その羽が洗剤の界面活性剤によって濡れ、蠅は飛ぶことができなくなる。結果、蠅はそのままその液の中で溺死するという寸法である。私は蠅が液の中でもがき苦しむ様を想像し、少し愉快な気分になった。私はその罠をいくつか作り、蠅が止まりそうな場所に置いて行った。液にはめんつゆを選んだ。

 私はその日一日、蠅が罠にワクワクしながら待った。蠅が顔の前を通ろうと、お前はもうじき死ぬのだと思い、さして気にならなくなった。やがて日が暮れ夜となった。蠅はまだ死んでいなかったが、私は明日の朝には死んでいるだろうと思い、その日は穏やかに眠ることができた。


 次の日の朝、私が目にしたのは宙を元気に飛び回る蠅の姿であった。私は落胆した。奴は罠にかからなかったのだ。念のため罠を一つ一つ確認したが、そのどれにも蠅の死骸は浮いていなかった。奴は確かに例の一匹の蠅であった。私はこの蠅のしぶとさに辟易してきたが、すぐに気を取り直し、気長に待つことにした。そのうち罠にかかるだろうと思ったのである。

 一日経ち、二日経った。時折私は一部の罠の液の配合を変えてみたり、めんつゆから別の種類の液に変えてみたりもした。しかし、どうやっても奴が罠にかかることはなかった。そして三日経った或る時、私は床に置いた罠の一つに気付かず、それを蹴り倒してしまった。床にめんつゆがぶちまけられた。私は床にこぼれた大量のめんつゆを見て、自分が蠅以下であるような気がした。ひどく、みじめであった。私は床にこぼれためんつゆを拭き取った後、罠を全て撤去してしまった。


 私はそれ以後初心に還り、奴を手で仕留めることにした。奴が壁に止まれば壁を叩き、近くに来たなら手を叩いた。蠅が捕まる気配はやはりなく、腕を振るう度、私はクソッと思った。しかし、蠅はそんな私を気にせずに、悠然と飛んでいた。

 また日が経ち、腕を振るうことは私の日課となっていた。私は部屋の掃除も徹底して行い、奴の餌となりそうなものは全てなくしてやった。しかし、蠅が衰える気配は一向になかった。蠅の生命力に、私は怒りを通りこして驚嘆すら覚えるようになってきた。思えばこいつは私の魔の手から、鮮やかに逃れて生き延びてきたのである。そして、ふと疑問に思った。何のために奴はこうもしぶとく生きているのだろうかと。私は何となく蠅に直接尋ねたいような気分になった。

「蠅よ、お前はどうしてそうやって電灯の周りをぐるぐる飛んでいるのだ。全く、何の意味もないだろうに。そこに餌があるわけでも、まして繁殖相手がいるわけでもなかろうに。いや、この部屋全体にも、そんなものは有りはしない。そう、お前は無意味にこの部屋の中で生きているのだ。それにも関わらず、お前はかくもしぶとく私の手から逃れてきた。そしてお前は、今もこうして平和に、あまりにも平和に、何をするでもなく、ただただ宙を飛んでいる。何なのだ、お前は。一体何がしたいのだ。何の為に生きているのだ。」

元より、ただの蠅である。答えられようはずもない。しかし蠅はいつも通りふわふわと宙を飛んでいた。その姿に、焦燥も倦怠も、ましてや苛立ちも感じられなかった。そして私はハッとした。己は蠅以下なのではないのかと。私は部屋の中を見回した。何も、なかった。ここには何もなかったのだ。私は蠅と同じであった。しかし、明らかに蠅とは異なっていた。私は蠅以下であったのだ。はっきりとそう確信した。だが、みじめではなかった。私は蠅のその姿に、大きな満足を得た。私はその日は一日、蠅を放っておくことにした。

 

或る日、蠅は突如として部屋からいなくなった。私は部屋中探し回ったが、奴の死骸をすら見つけることはできなかった。私が直接手を下す前に、奴は消えてしまったのである。私はまた取り残されたと思った。しかし、前のように暗い気分ではなかった。その日はよく晴れていた。私はどこかへ遠出しようと思った。


2016/6/10

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