Episode4 あどけなき皮
夕方4時。
現在の外の気温は30℃。
数週間前までの、夕方であっても肌を焦がさんばかりの猛暑と比べると、太陽が少しばかり手加減してくれているかのようだ。
マンション5階のベランダにて、洗濯物を取り込んでいる31才の主婦・平良葉子(たいら・ようこ)も、そのことを感じずにはいられなかった。
あと数週間もすれば、このうだるような暑さの中に落とし込まれた夏も終わり、秋がやってくる。そして、冬……と。
しかし、今はまさに夏の真っ最中であるはずなのに、葉子の胸中はあと数カ月後の冬を表しているかのように冷え冷えとしていた。気持ちの悪い”何か”をたくさん詰め合わせて氷漬けにしたものを、胸の中に放り込まれて、ジワジワと溶かされているかのような気持ち悪さであった。
突如、下から聞こえてきた赤ん坊の泣き声に、葉子は思わず手のタオルを落としそうになった。
自分と夫と娘が暮らすこのマンションからは、下の公園が見下ろせた。さらに言うなら、娘・実葉(みは)が通う予定である公立小学校も、2ブロックほど先に、その姿を残留している熱気とともに見せていた。
葉子が”ごく自然に見えるようにつとめて”下の公園へとチラリを目をやると、ベビーカーに子供を乗せた2人の母親が――面識のない彼女たちの服装や遠目でも黒でないことが分かる髪の色からすると、葉子より一回りも年が違うかもしれない母親たちが、赤ン坊が火がついたように泣いていることにも構わず、立ち話に花を咲かせているようであった。
――あなたたちも母親なら、一昨日、この公園近くで何があったのかを知っているでしょう? なぜ、普通に子供を連れてきているの? それも、赤ちゃんを……”あの子”と同じ、まだ自分で歩くことも、逃げることもできない赤ちゃんを……!!
防犯意識が欠けているとしか思えない若い母親たちに”咎めの視線”を向けてしまっていたことに葉子は気づく。
慌てて、元の表情に――いつも通りに日々を過ごしている表情を取り繕い、残りの洗濯物を取り込むことに専念した。
そして、考えずにはいられない。
――いえ、あの赤ちゃんたちは、”あの子”のような目に遭わないわ。絶対に遭わない……だって、あの子をあんな目に遭わせたかもしれない”真犯人”は、今、この家の中にいるんだもの……!!!
取り込んだ洗濯物を抱えた葉子は、エアコンを利かせた室内へと戻る。屋外とは比べものにならないほどの涼しさが、葉子の全身の肌を瞬く間に包む。
だが、その涼しさは快適さではなく、葉子の胸中に沈殿している”冷たい気持ち悪さ”を増大させる役割を果たしていた。
「今から私は、一昨日起こった事件の”真犯人”と正面から向き合わなければならない――」と決心した葉子の胸中だけでなく、下腹部までズシンと重くなった。
生理痛による痛みなどではない。
5年前まで、自分は”真犯人”を子宮に宿していたのだ。そして、”真犯人”を生んだ母であるのだ。
その痛みは”母としての本能なるもの”が、自分の推測は推測では終わらず、事実であったということを確定づけているように思わずにはいられなかった。
葉子は、いつものように取り込んだ洗濯物をすぐにたたむことはしなかった。
まず、押入れへと直行する。押入れの奥深くに隠しておいた黒のポリ袋より、女児用の夏用のワンピースを取り出した。
スカイブルーのノースリーブワンピース。ボタンは前開きで、襟にはオフホワイトの丸襟を付けている。
このワンピースは、市販のものではなく、葉子が学生時代に数回履いただけのロングスカートを娘・実葉(みは)用にリメイクしたものであった。
葉子は実葉のために、このワンピースを作った。だが、ある事情によって、実葉にはこのワンピースを家の中であっても、着せることはできないでいた。そして、実葉もこの”ワンピースを着たことはないはずであった”。
しかし――
フーッと息を吐いた葉子。
――怖い、逃げ出したい。逃げ出したい、怖い。でも、私は逃げちゃいけない。世界中の者が逃げ出したとしても、私だけは逃げちゃいけいない……だって、私は母親なのだから……!!!
母性とそれに付随する責任によって、自らを奮い立たせた葉子は、エアコンのきいたなか、テーブルの上に画用紙を広げ、色鉛筆を使ったお絵かきに熱中している娘・実葉のところへと向かった。
「実葉ちゃん……ママ、ちょっと実葉ちゃんにお話あるんだけど、いいかな?」
※※※
「なあに? ママ」
葉子に声をかけられた、わずか5才の娘・実葉は画用紙から顔を上げた。
年相応のあどけない顔立ちをした実葉であったが、母・葉子の手にスカイブルーのワンピースが握られているのを見た瞬間、わずかにその丸い頬が引き攣った。
新しい可愛い服――しかもママの手作りをプレゼントされるという単純なうれしさなどは微塵もなく、確固たる証拠品を明示された犯人の表情であるとしか、葉子には思えなかった。
だが、すぐに元の表情へと戻った実葉は、ちいさな手の内の赤い色鉛筆を静かにテーブルの上に置いた。どうやら、実葉は太陽を描いている途中であったらしいが、今の葉子にとっては、実葉が握っていた色鉛筆の赤は一昨日起こった事件の被害者の血の色を明示しているとしか思えなかった。
軽い吐き気を堪えた葉子は、娘・実葉の前に座り、正座する。
実葉も母・葉子のその動作を真似、チョコンと行儀よく正座し、母に向き直った。
「いい? 実葉ちゃん……ううん、実葉。ママ、嘘やごまかしは嫌いよ。これからママの聞くことには全部、正直に答えてね」
「うん、ママ」
「……一昨日、美優華(みゅうか)ちゃんの弟の颯穐(りゅうき)くんが、公園の横にある家の庭で、あのおっきくて怖いワンちゃんに噛まれて大怪我したのは知ってる?」
「うん、知ってるよ」
「まだ赤ちゃんの颯穐くんを、怖いワンちゃんのいる庭へと連れて行って置き去りにしたのが、恵都(けいと)ちゃんってことになっていることも知ってる?」
「うん、知ってる」
「そう、恵都ちゃんがやったことになっているんだけど……でも、本当は…………実葉、あなたがやったのよね?」
「うん、そうだよ」
「!!!!!」
認めた。
こんなにもあっさりと、嘘やごまかしなど微塵も見せず、ごく普通に認めた。
事件の尋問ではなく、まるでごく普通の日常会話の延長線上にあるかのように――
頭どころか、魂含んだ全身を氷のハンマーで何十発も殴られたかのようになった、葉子の全身が震え出した。
体は震えているのに顔はカッと熱を持ち、喉と唇は瞬時に乾き、その乾きを潤すためではないというのに、葉子の瞳からは涙がボロボロと溢れ出した。
「……どうしてよ、実葉?!! どうして、あんなことしたの?! どうして、あなたはあんなひどいことができる子になっちゃったの?!」
乾いた喉から叫びにも似た声を絞り出した葉子は、実葉の華奢な両肩を、まだまだ未成熟な幼児の両肩をガッと掴んでいた。
「や……痛いよ。ママ……」
実葉が顔をしかめる。
苦痛を訴える娘に、葉子は思わずその手を緩めてしまっていた。手加減してしまっていた。
しかし、一昨日、この実葉がその小さな手で行った犯行による、いたいけな被害者は犬の鋭い牙に幾度となく柔らかなその肌を噛み裂かれるという痛みを全身に味わったのだが……
「…………実葉、どうして、あんなことをしたの?」
鼻を啜った葉子は、先ほどと同じことをもう一度、真犯人である自分の娘の目を真っ直ぐに見て、問う。
まだ5才の実葉が、生後11か月の颯穐くんに恨みがあるとは考えられない。話したこともないというか、颯穐くんとはまだ会話も成立しないから、喧嘩すらできないだろう。だとすると、颯穐くんの姉の美優華ちゃんと何か、トラブルか? いや、けれども、美優華ちゃんは”母親とは見事なまでに正反対な性格”の子供だ。気が弱くて臆病で泣き虫な美優華ちゃんが実葉に意地悪をするとは考えられなかった。
だとすると、単なるイタズラのつもりで、実葉は取り返しのつかないことを……
しかし、実葉のあどけない口元から出てきた言葉は、葉子の全身をさらに殴りつけるかのようなものであった。
「だって、ママ……ミュウカちゃんとリュウキくんのママと、ケイトちゃんのママにいじめられていたでしょ。ママ、本当に毎日、つらそうだったもん。私はママを助けたかったの」
「!!!」
実葉は知っていた。気づいていたのだ。
自分がママ友虐めを受けていることに。
実葉を寝かせた後、毎日夫婦二人だけの会話がある夫の実(みのる)ですら、「最近、恵都ちゃんママとはあまり出かけないんだな」という具合で、ママ同士の関係がうまくいっていないことに気が付かなかったというのに。
平良家がこのマンションに引っ越してきた4年前――
同じフロアに先に住んでいた岡島家とは、同じ年の子供、しかも同じ女児、そのうえママ同士の年齢も同じということもあり、瞬く間に意気投合し、家族ぐるみでの付き合いをすることになった。
岡島家の女児・恵都ちゃんは、女の子にしてはいささか乱暴でハチャメチャな面が目立っていたものの、どちらかというと大人しい実葉も彼女の遊び相手として、家をよく行き来していた。もちろん、恵都ちゃんママとも仲良しとなり「恵都ちゃんママ」「実葉ちゃんママ」と呼び合う関係となるのは当然であった。
しかし、わずか2年前。
同じ5階のフロアに、實田(じつだ)家が越してきた。
その實田家も、実葉や恵都ちゃんと同じ年の女児がいた。
2家族に新たな1家族も加わり、3家族で仲良く……といったことにはならなかった。
實田家の美優華ちゃんのママは、葉子や恵都ちゃんママよりも5才年上であり、いかにも気が強そうで、なんというかママ友のボスのテンプレを現実化させたような人であり、またこの界隈ではなかなかに目立つ華やかな長身美人であるため、パワーバランスはガラリと崩れてしまった。
葉子の一番近くにいたはずのママ友・恵都ちゃんママは、あっけなく、新参のママ友に――常に見下せる対象を目を皿にして探して、日々噂話に興じるような美優華ちゃんママの側についた。
ママ友虐めのターゲットとなった葉子。
無視や小突くといった分かりやすい虐めではない。なんというか、日々ゆるやかに続く、いつかは終わりがくるだろうがその終わりがなかなか見えないママ友虐め。
幼稚園での行事の当番を用事ができたから代わってくれと懇願され引き受けても、その代わった分の交代や埋め合わせをしてくれるわけでもない。
幼稚園のお迎えの時に、さりげなく葉子の服や髪型のセンスをディスる。
悪意のある冗談と気のせいのスレスレのボーダーラインで。
そのやり取りを聞いた他のママたちは、割と察しのいいママは顔を引きつらせるも、それほど言外の感情に敏感でないママはそのまま何も思わないといった具合の絶妙さであった。
葉子は實田家の第2子となる颯穐くんが生まれた時も、ご近所さん&同じ幼稚園に通うママとして出産祝いを渡していた。
しかし、美優華ちゃん&颯穐くんママは、ママ友同士の集まりで、葉子からの出産祝いを「どこの田舎の商店街で買ってきたの?」「うちの王子(颯穐くん)にはちょっとお気に召さないかもなあ」という風に冗談めいた感じで馬鹿にしたのだ。恵都ちゃんママも、「ほんと、そうですよね。実葉ちゃんママ、もっと全力で選ばなきゃwww」と笑いながら加勢した。その日は、さすがに葉子も家に帰ってこっそり泣いたことを覚えている。
嫌な女。ほんと、嫌な女たち。
ドラマに出てくる悪役のテンプレートのようなボスママと、仲良くしていた時間という積み重ねがあるくせに、速攻でボスママにつき、”子分A”となった恵都ちゃんママ。
そして、ボスママを敵に回したら、自分に火の粉が振りかかったらと見て見ぬふりを決め込み、ボスママに迎合している他のママたち。
さらに、葉子は自分がママ友虐めのターゲットとなってしまったことの一因は、今、まさに自分の眼前にいる娘・実葉にもあると思っていた。
夫ですら気が付かなかったママ友虐めに気づいた通り、実葉は賢い子供であった。
子役タレントになれそうなほどの容姿とオーラを有しているわけではないが、親の贔屓目に見ても5才児ながらに瞳に光があり、実葉を見た親戚のおばさんなどは「まあ、将来この子は、知的な感じの味のある美人さんになるよ」と実葉の頭を撫でてくれた。
その頭脳も「世界●天ニュース」や「奇跡●験!アン●リバボー」で時折、紹介されるような並外れた天才児というほどでもないが、同じ年頃の子供たちが並んで何かをする時は、必ずといっていいほど実葉が一番であった。
ひらがなやアルファベットを覚えるのも、かけっこでも、そう何でも実葉が一番。
幼稚園児なら自分のことを「ミューカは」「ケートは」と名前で呼ぶ子も大勢いるのに、実葉は誰に教えられるわけでもなく自分のことはきちんと「私」と呼んでいた。
夫婦2人で愛しい一人娘・実葉の寝顔を眺めながら、「コウノトリは私たち夫婦にしては出来過ぎた子を、運んできてくれたのね」と話したこともあった。
お友達に暴力を振るったり、怪我をさせたりしたことだって、一度たりとしてなかった。手がかからず育てやすい、そのうえ聡明な子。
それが、美優華ちゃん&颯穐くんママ、恵都ちゃんママをはじめとする母親たちにも面白くなかったのであろう。
美優華ちゃんは、泣き虫で甘えん坊で何かあるとすぐに「ママ~!!!」と超音波のごとき泣き声をあげ一人では碌に何もできないし、恵都ちゃんは恵都ちゃんで落ち着きが無さ過ぎで、先生の言うことすら聞けず、じっと座っていることもできない子だったのだから。
「なんで、あんなボーッとした地味な母親から、あんなにできる子が生まれるワケ?」
「家でスパルタしてしごきまくってんでしょ。それか、極秘で能力開発系の塾に行かせてるとかさあ。じぃじとばぁばに泣きついて、金をせびってさあ」
「今だけだって。小さい頃によくできた子が、小学校、中学校となるにつれ、フツーの子になっちゃうなんてよくある話じゃん」
こういった羨望が入り混じった他のママたちからの陰口をも、葉子は何度も聞いていた。
その時は、自分に聞かれることを目的とした陰口よりも、平凡なスペックの夫婦から、予想外に何でもできる子が生まれたという幸運とその子供の将来を見届ける楽しみの方に、葉子の心はくすぐられていた。
自慢の娘・実葉。
だが、この愛娘・実葉は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
「ねえ、ママ。どうして、私がしたって分かったの?」
流れ落ちる涙を手の甲で拭い、鼻水を啜りあげる葉子を見上げ、実葉が問う。
顔をグシャグシャにして泣き続ける31才の母親・葉子とは正反対に、5才の娘・実葉は一筋とて、涙を流してはいない。
実葉は泣きもしない。瞳を潤ませてもいない。
自分が何をしたかを理解していないのか?
いや、”この子なら”絶対に理解しているはずだ。
涙に濡れる葉子の全身を暗雲のごとく、覆い尽くしていったのは、嘆きよりも恐怖であった。
怖い。
まるで、自分と娘の年齢が逆転したかのような……
いいや、違う。
自分はあどけない子供の皮をかぶった、得体の知れない化け物を目の前にしているのだ。
そのうえ、この化け物をこの世に誕生させてしまったのは、紛れもない自分自身なのだと――
「この……ワンピースよ……っ……」
”恐怖に”背中を後押しされるように、葉子は実葉にスカイブルーのワンピースを見せた。
「やっぱり、そうだったんだね。ママ……私が、あの日、恵都ちゃんのふりをするために、このワンピースをよく着ている縞々のワンピースの下に着ていったの」
「このワンピースっ……ママが昔、履いてたスカートを実葉用のワンピースに作り直していたこと、実葉も知ってるよね……っ……グスっ……でも、ちょうど出来上がった日に、恵都ちゃんがこれとよく似たワンピースを着ていて……恵都ちゃんのワンピースはブランドものだったけど…………いくら偶然とはいえ、実葉が似たようなワンピースを着て公園で遊んでいたら、『真似っこした』って恵都ちゃんママや美優華ちゃんママや他のママたちに言われるかもしれないって……『このワンピースは実葉がおじいちゃんやおばあちゃんの家に行った時や海でしか着ちゃいけない』って、ママ言ったよね。家の中でしか着なくても、いつ美優華ちゃんママたちがやってくるかもしれないから……」
「うん」
実葉が頷く。
「でも、押し入れにしまいこんでいたワンピースには、明らかに着た形跡があったことに……ママは気づいたの……染み込んだ汗の臭いとよれている背中と裾の生地、そして、襟の下あたりに浸み込んだ涎の後……」
「うん」
またしても実葉は頷く。
「ママは最初、実葉がどうしてもこのワンピースを着たくて、こっそり家の中だけで着て遊んでたのかなって思ってたの……でも、これはあの日、家の外で着ていたのよね。このワンピースで颯穐くんを抱っこしたのよね」
涙のごとく鼻の穴から流れ落ちる粘り気のある透明な鼻水を手でぬぐった葉子は続ける。
「それに……颯穐くんが”ワンちゃんに噛まれて”大怪我した日の夜、実葉の右のほっぺたに黒い点みたいな汚れがついていたでしょう。ちょうど、恵都ちゃんの右のほっぺたにあるような黒子みたいな点が、あれも、ママのお化粧道具で描いたのよね」
「うん、ママ、本当にすごいね。パパとは大違いだね」
実葉は感嘆したような声を出す。
事件があった一昨日の夜、マンション中を覆い尽くした大騒ぎのため、いつもより遅い時間の夕飯となった平良家ではあったものの、家族全員で食卓を囲んだ。
その時、実葉の右頬にある黒い汚れに気づいた夫・実が「お! こいつぅ、クレヨンでお絵かきしてたんだなぁ」と嬉しそうに、そして能天気に娘の柔らかなほっぺを軽くつついていた。
葉子が最初の違和感というか、嫌な予感を感じ取ったのはその時であった。
実葉はクレヨンよりも色鉛筆派だ。
現に、48色入りの色鉛筆セットを、父方の祖父と祖母(葉子の義父と義母)より、クリスマスプレゼントにもらって、とっても喜んでおり、つい先ほどまでお絵かきに使っていた。
葉子が感じとった嫌な予感はさらに大きく膨れ上がっていく。
実葉と恵都ちゃんは、普段の立ち振る舞いこそ違えど、偶然にも髪の長さも体格もほぼ同じぐらいだ。さすがに葉子は実の母親だから間違えはしないが、あまり普段付き合いのない幼稚園のママなどは後ろ姿で、実葉と恵都ちゃんを間違えることも数回あった。後ろから見たなら、または遠くから見たなら、実葉と恵都ちゃんのどちらであるか区別がつかない人は他にもいるはずだ。
そもそも、子育て中でない他人は人の子供になど興味はないものだ。
背格好が同じぐらいなら、その日着ていた服と黒子などの目立つ顔の特徴等の目撃証言より、躾も碌にされていない獰猛な犬がいる庭の中にまだ乳臭い赤ン坊を置き去りにした女児が誰であったのかを……
恵都ちゃんのふりをするために描いた黒子を消すために、実葉は顔を洗ったに違いないが、化粧をする大人の女がクレンジングを使うことは知らなかったため、落としきれていなかったのだ。
「ママ、私ね……あの日の夕方は、おうちを出る時も、おうちに戻る時も縞々のワンピースを着ていったから、絶対に誰にも見られていないよ。あの公園って、隠れるところはいっぱいあるからね。マンションのベランダからも見えないところで、上に着ていた縞々のワンピースを脱いだの……そして、公園のベンチにいた美優華ちゃんが、ベビーカーに入ったままの颯穐くんを置いて、トイレに行った時……颯穐くんを、その空色のワンピースで連れて行ったんだ。美優華ちゃん、いっつも、おトイレ長いしね」
目の前の真犯人からの落ち着き払った供述を、葉子はどこか遠いところで聞いてた。
そして、ぼんやりと思っていた。
今の物騒なこの世の中、いくらミルクやイオン水を持たせているとはいえ、5才の女児に生後11か月の赤ちゃんを任せるなんてことが、そもそもの間違いであるだろう。
だが、美優華ちゃん&颯穐くんママは、平気でそれができる母親であった。本人は子供を放置している自覚はないだろうが、ちょっとだけといいつつ、自分は子供たちの目の届く範囲にいるつもりで、あの日もベンチから離れたところで母親同士のおしゃべりを楽しんでいたらしかった。
「それにね、ママ。あの日、朝から恵都ちゃんが空色のワンピースを着て、飛行機みたいに両手を広げて、ブーンブーンなんて言いながら、この階の廊下走りまわっていたのもいろんな人が見てたよね。会社に行くうちのパパだって、『朝からうるさいなぁ。元気とうるさいは違うぞ』って呟いてたし……だから、あの日、恵都ちゃんが空色のワンピースを着ていたことを知っている人はたくさんいるよ」
そういった実葉は両の口角をあげた。
「私は”行き当たりばったり”(実葉はおそらく、この言葉をまだ知らないとは思われるが)じゃなくて、ちゃんと考えて行動したんだよ、褒めてママ」という具合に。
「実葉……もう一つ聞かせて。なぜ、颯穐くんをあのおじさんの庭に置き去りにしたの。あそこには怖いワンちゃんがいて、颯穐くんがワンちゃんに噛まれるかもしれないってこと、実葉なら分かるでしょう?」
噛まれるかもしれないというよりも、生後11か月でまだ乳の香りをふんだんに漂わせていた實田颯穐は、一命こそとりとめたものの、柔らかな肌の至るところを獰猛な犬の鋭い牙で噛まれ、散々に振り回されたのだ。正直、彼は命を落としていたとしてもおかしくなかった。犬の牙という死神の鎌が彼の命を奪わなかったことはまさに奇跡だ。
美優華ちゃん&颯穐くんママが、半狂乱になるほどの惨たらしい有様であったというのに。相当に嫌な女であったとはいえ、錯乱状態の彼女の姿を見た葉子の胸は一人の人間として、また同じ母親としても苦しくなった。
「だって……あのワンちゃんのおじさんは、皆にメーワクかけていたでしょ。ウンチのお片付けもしないし、チュウガクセーやジョシコウセーのおねえさんたちに向かってワンちゃん走らせて怖がらせてたし」
確かに実葉の言う通り、公園の横の門扉の無い一軒家に住んでいる推定50代の中年男は、このマンション内でも有名な偏屈おじさんであった。ロリコンのうえ、凶暴な犬を従えているというおまけ付きの……
さすがに性犯罪の前科こそないようであるも、制服に身を包んでいる若い女が好きというのは、これまでのことからマンションに住むほぼ全員が周知している事実であるだろう。
数年前、まだ20代の葉子がベビーカーに乗っていた実葉とともに散歩をしていた時、「こんにちは」と近隣の住民として儀礼的に挨拶をしても返事すら返すことなく、「ケッ……子持ちババアには用はねえんだよ」と聞こえるように吐き捨てられたことを覚えている。
あの中年男は、毎日毎日、自分の興味のある年代の女に犬をけしかけていたわけではないも、誰かが忘れたころに「キャー」という若い女の子の悲鳴が聞こえることが時折あった。
その度、女の子の父親が文句を言いに行くも「いやあ、ちょっと犬を繋ぎ忘れていてねえ。私もそろそろ年ですから、すいませんねえ」とニヤニヤ笑うだけであったとも……
今は5才の女児である実葉も、このマンションで青春時代を送るにつれ、いずれ、あの中年男性(と犬)のターゲットとなったであろうことは間違いない。
「ママ、どうするの?」
実葉が問う。
ちょこんと正座したままの実葉が――あどけなき子供の皮をまとっているとしか思えない実葉が、葉子を見上げて問う。
実葉は、”葉子に決めさせ”ようとしているのだ。
あどけなき子供の皮をまとった娘は、母親である自分にこの後の引導を託したのだ。
これから、警察へと行って真実を話すか。それとも……
実葉がボスママの息子・實田颯穐をあの中年男の庭に置き去りにしたことは、終わりが見えないママ友いじめに心を痛めていた葉子にとって3つの効能を与えたことになる。
まず、ボスママである美優華ちゃん&颯穐くんママは、今までのように飛ぶ鳥を落とす勢いでママたちの中を闊歩はできないであろう。このマンションから引っ越しまではしないにしても、愛息が傷あとや後遺症が残るほどの大怪我をさせられたのだ。ママ友とのお喋りに興じることもできず、いつもの何かに勝ち誇ったような笑顔も消失し、相当に大人しくなるに違いない。
次に、置き去り犯と思われている5才児・岡島恵都ちゃんのいる岡島家は間違いなく、このマンションにはいれらなくなる。恵都ちゃんは「ケートじゃない! ケートじゃないよ!!」と泣き喚いて否定していたらしいが、遠目からのスカイブルーのワンピースの目撃証言と、気の毒であるが恵都ちゃん自身の普段の落ち着きのなさと乱暴さから、恵都ちゃんがしたということでほぼ確定となっている流れだ。岡島家は、”娘がしたこと”による慰謝料を實田家に払わなければならないだろう。2年前に自分を裏切り、ボスママについた恵都ちゃんママは間違いなく、自分の目の前から消えるであろううえに、イタズラではすまされないイタズラをした子供の母親として、周りから見られることにもなる。
そして、犬を飼っていたあの中年男も、もちろんただでは済まない。あの男自身は、見るからにふてぶてしそうであるため、あの家に変わらず住み続ける可能性は高い。けれども、今まで以上に、周りからは距離を置かれ、忌み嫌われるであろう。
人を噛んだ犬も当然、処分される。犬は飼い主次第であるから、かわいそうであるが実害が出ては仕方ない。中年男が犬にきちんと躾をしていなかったことと、一応、犬は鎖に繋いではいたものの、門扉のない草ぼうぼうの荒れた庭を犬がわりと自由に走り回れるほどの長さの鎖であったことが要因だ。
あの中年男は、事件当時、酒を飲んで居間で転がっていたらしいが、自分の庭から聞こえてきた子供の火をつけられたかのような泣き声で目を覚ましたらしかった。目を覚ました男は、慌てて犬から赤ン坊を取り上げ、自ら救急車を呼んだらしいが「俺は知らねえよ! なんで、俺の庭に赤ん坊を放り込むんだ!!」と怒鳴っていたとも――
実葉によって与えられた3つの効能。
けれども、それ以上に、自分の娘がこんな恐ろしいことをしたことによって、全くの無実の恵都ちゃんに重すぎる罪を背負わせてしまい、痕が残るほどの無数の傷あとをその身に受けた颯穐くんだけでなく實田家の人たちの心にだって深い傷跡を残してしまったのだ。
けれども……!
けれども……!!
決意の言葉に発するよりも先に、葉子は実葉をその腕の中にガバッと抱きしめていた。
「ママ……」
「いい。実葉……今日、実葉が話したことは、絶対に誰にも言っちゃダメよ」
わずか5才の自分の娘を、犯罪加害者になんて”させない”。
たとえ冤罪ではなく、自分の娘が真犯人であったとしても……!
「秘密よ。絶対に秘密の話。知っているのは、ママと実葉……ううん、ママと実葉と……空から今のママたちを見ている神様の3人だけなのよ」
「うん、ママ……でも、神様って本当にいるのかなぁ」
「!!!」
”天網恢恢疎にして漏らさず”というつもりで、葉子は実葉に伝えたのだ。
今というこの時は、自分と実葉自身、そして葉子自身、その存在を確信するような神秘的な体験をしたことはないが”神様”という存在を引き合いに出し、(直接の罰を受けないまでも)これから成長していく実葉にこのことを絶対に忘れてはいけないという戒めのつもりで伝えたのだ。
けれども、実葉は――葉子の腕の中の柔らかくて温かい肉の塊は、神の存在などはなから信じてなどいない。
それに母が娘の自分を守ろうとする”表向きの理由”の裏には、母自身の精神的&社会的&経済的保身がより強く働いているということも――
「ママ……颯穐くんのことは、ママと私だけの秘密だよね。ママが誰かに話さなきゃ、誰も知らない。知ることなんてないもんね」
「…………ええ、そうね」
「どうしたの? ママ、何、ブルブル震えているの? 寒いの?」
実葉は分かっているはずだ。
葉子が寒くて震えているわけではないということを。
腕の中に実葉を抱いたまま、誰の助けもこない冷たい海の底へと落ちていくかのごとき葉子の心で、遥か昔の光景が古びた色合いのスクリーンに映し出され始めていた。
※※※
小学校時代。
それは、葉子が初潮を迎える少し前であったか。
葉子は同じクラスの女の子の家で遊んでいた。そして、どういう経緯であったかは定かではないが、女の子のお父さんの書斎に忍び込むことになった。
女の子のお父さん含め、家の人は皆、留守であったように記憶しているが、小さな声でクスクスと顔を見合わせ笑いあっていた葉子と女の子は、ある1冊の本を発見した。
その本の正確なタイトルや装丁などは全く覚えていない。
しかし、世界で起こった犯罪などについて書かれた、かなり悪趣味な内容の本であったことだけは覚えている。
パラパラとめくっていったその重厚な犯罪集の中に、葉子と女の子の興味を引いた事件が2つあった。
正式な事件の名称は全く覚えていないが、1つは1960年代にイギリスで起こった事件であった。まだ10才か11才かの少女が、3才の男児をはじめとする3人を連続で殺害したという事件(メアリー・フローラ・ベル事件)であった。
もう1つは、確か同じくイギリスで1990年代前半に起こった事件だ。10才の少年2人が、2才の男児をショッピングセンターから誘拐し、殺害したという事件(ジェームス・バルガーちゃん事件)であった。
国は違えど、当時の自分たちとそう変わらない年の少女と少年2人が起こした事件に、葉子も女の子も互いに肩を寄せ合うようにして、無言となりその事件について読み込んでいた。
「怖いね……」
その言葉を最初に言ったのは、葉子であったのか、女の子であったのかも覚えていない。でも、自分たちはいつの間にか、犯罪を犯した少女や少年たちと同じ子供ではなく、その親目線で話を続けたことを鮮明に思い出した。
「怖い、怖いよね……こういう子が生まれたら、どうしよう」
「考えすぎだよ。葉子ちゃん」
「でも、私たちだって、いずれお母さんになるじゃない。それでもし、こういう子が生まれたら……」
「心配ないって。だって、葉子ちゃんは意地悪でもないし、優しい普通の子じゃん。それに”こういうの”って、ニュースとかでよく言ってる”家庭カンキョー(環境)”ってのも関係してるらしいよ」
葉子の記憶は、ここでプッツリと途切れている。
※※※
あの日から20年近い歳月がたち、葉子は母親となり、一緒に本を読んでいたあの女の子も、もう母親となっているであろう。
不意に蘇ってきた記憶。
忘れていたはずの記憶。
コウノトリが自分の元へと運んできた愛しい娘が、遠く離れたイギリスで事件を起こした少年少女たちと同じ種類の人間であることに気づかなければ、一生思い出すことなどなかったはずの記憶。
しかし、よくよく掘り下げて考えてみると、実葉はあの2つの事件の加害者たちの約半分の年齢だ。
実葉の犯行の目的は、快楽目的でもなければ、興味半分でもない。ママ友いじめに遭っていた自分を助けようとするためであったとはいえ、たった5才の子供でここまでのことを考えて、準備して、実行に移し――
「ママ、何考えてるの?」
葉子に抱きしめられたままの実葉が、あどけない声で問う。
何も答えられずにいた葉子に、実葉がさらに言葉を続ける。
「……ママ、私ね、久しぶりに”ママのおじいちゃん”のところに遊びに行きたいんだけど、明日、連れて行ってくれる?」
「!!!」
実葉は突然、何を言い出したのか?
こんな時に、”ママのおじいちゃん”――実葉の母方の祖父であり、葉子の実父のところに行きたいと言い出すとは……
しかし、今はこのマンションを少し離れた方がいいのかもしれない。ここを離れたら離れたで罪悪感は大きく重くなるであろう。けれども、”真犯人”から離れることはできないも、事件現場近くから離れ、自分自身の心を少しでも落ち着かせるためにも。
幸いにも、自分の両親も義両親に負けず劣らず、実葉を可愛がってくれている。
食事の支度や寝床の準備等には迷惑をかけるかもしれないが、可愛くてたまらない孫娘を連れた娘の突然の連泊に渋い顔をすることはまずないであろう。
そして、葉子は思い出した。
実家の裏手には、大規模な物ではないが、焼却炉がある。
葉子が実家で暮らしていた時も、父親が時折、そこで不用品を焼いていた。
あの焼却炉なら、一昨日の事件の証拠品である、このスカイブルーのワンピースだって短時間のうちに完全に燃やしきることができる。
ここから離れた実家にて燃やして証拠隠滅する方が、ワンピースを細かく切り刻んで半透明のゴミ袋に詰めこみ、このマンションのごみ捨て場に出すより遥かに安全だ。
「実葉……このスカイブルー……ううん、空色のワンピースなんだけど、おじいちゃんの家で”捨てる”ね。もう、このワンピースを二度と着ちゃいけないことは分かるよね。ママがもっと可愛くて素敵なワンピースを実葉に作ってあげるからね」
「ほんと? うれしい! ワンピースがお空に帰っちゃうのは悲しいけど、ママならそう言ってくれるって思ってた」
「!?!」
うれしい?!
母がもっと可愛くて素敵なワンピースを手作りしてくれることがうれしいのか?!
いや、違う。
違う、違う、違う。
実葉は、”ワンピースがお空に帰っちゃう”――葉子が”捨てる”といったぼかした言い方の裏にある真実を……葉子が証拠品であるワンピースを焼却し、荼毘に付される遺体のごとく煙となって空へと溶け込むことまでをも予測しているのだ。
葉子が証拠隠滅をしてくれることがうれしいのだ。
恐怖は膨れ上がっていく。
それは、あどけない皮をかぶった魔物とともにいる、この氷のごとく冷たい部屋だけでなく、このマンション全体を覆い尽くすがごとく、さらに膨れ上がっていく――
――まさか……まさか……最初から実葉は、私の実家の焼却炉で、ワンピースという証拠を隠滅させるつもりだった?! 5才の子供には”足”なんてあるはずないから、車でどこか遠くにワンピースを捨てに行ったりなんてことはできない。だから、私にそれをさせようとしたの……? 第一、実葉は”ちゃんと観察”したうえで、あの事件を起こしたのよ。美優華ちゃんママが時折、子供そっちのけでママたちと立ち話に興じること、美優華ちゃんのおトイレが”いつも長い”こと、そして、自分の後ろ姿が恵都ちゃんにとっても似ているということ……目撃証言によって自分ではなく、落ち着きがなく乱暴なところもある恵都ちゃんへと真っ先に疑いが向かうであろうことも、5才でありながら”客観的に”考えていた子よ?! ……それに、それに、よくよく考えると、年に数回しか行かない私の実家の裏に焼却炉があったことまで覚えている実葉が、クレンジングの存在を知らなかったはずがないわ。実葉とは毎日、一緒にお風呂に入っているし、お出かけ後の手洗いついでに一緒に顔を洗ったこともある。実葉は私が顔を洗っているところを何度も見ているはずよ。クレンジングという名称は知らなくとも、大人の女がお化粧を落とすために、石鹸ではないもので顔を洗っていることをあの子が知らないはずはない…………! あの一昨日の夜、実葉はわざとうっすらと顔に描いた黒子の痕跡を残して、私に最初の違和感を抱かせようと………!
娘・美葉は、そのあどけない皮の下で、実葉は事件開始から(美葉自身にとっての)事件終結までの流れなるものを計算していたのだ。
自分の母親が自分の娘の罪を、全くの無実の”身も心も幼い少女”にかぶせたまま、保身へと走り、証拠品を握りつぶし……いや、焼き尽くすことを選択するに違いないと――
事件終結が明日となることが確定し、安心したためか、実葉は今ごろになって瞳を潤ませ始めていた。
「ママ、大好き。”今は”世界で一番、ママが好き。だから”ずっと仲良し”でいようね」
実葉は、葉子の胸もとに顔をうずめるように、”子供らしく”ギュッとしがみついてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます