テクトニクスの悪魔 <3>
「ぐっ……!?」
魔の手は、瞬く間にヴァースへと届いた。
ヴァースの胸板に、その手が触れる。
と、
「ぐ、ぐああああぁああああああああああああああああああああああああ!!」
激しい激痛が襲いかかってきた。別に特段何をされたわけでもないのにだ。まるで、痛いと感じる感覚を操作されているように。
『ま、これは興ざめにもほどがあるししたくはなかったんだけどね』
悪魔は倒れたヴァースのもとへしゃがみこみ、悪魔の囁きをする。
『君が体を明け渡してくれるなら、この痛みはすぐに取ってあげるよ』
「い、やだ……」
『あらそう』
「がっ、あああああああああああああああああああ、ああああああああ!」
『なんですぐに痛みから逃げようとしないのさ。君も人間だろう? 抗いがたい欲望にはすがりつくはずだろう?』
「やめてください!」
ついに、目の前の光景が耐えられなくなってヴィーナが叫んだ。
『ああ、まだ君いたの。別に私にとっては用済みなんだけどな』
「それでもヴァース様を傷つけるのはやめてください! たとえあなたの差し金だったとしても私がヴァース様に助けられたことは変わりません!」
『だから、やめろと? 傲慢だな、人間。そもそもそんな意見が言える立場にもないくせに。そうだな、今のには少しだけどイラッときた。残念だけど君は返すのやめ。ここで消えてもらうね』
そして悪魔は虫けらを振り払うかのように手を動かす。
それで力なきヴィーナは消え失せるはずだった。
だが。
「何巻き込んでんだ。これは俺とお前の話だろうが」
ヴァースが悪魔のその手を掴んでいた。
「悪魔ってのは害しかないが、だけどもっと紳士的なものだと思ってたのにな」
『……君、死神と勘違いしてない? 悪魔っていうのは害悪からできているものだよ。論理とか、そんなものはない。ただ、気まぐれに悪をなす。それが悪魔だ』
グググ、と力をかけて悪魔はヴァースの手から腕を引き剥がそうとする。
「へえ。そうかい」
だが、その手は抜ける兆しが見えなかった。
いや、それどころか、
『なんで、そんな平気でいられるんだ? 全身激痛のはずだろう。力だって入るはずないのに。君はもう私に取り憑かれるしかないのに!』
「それが間違ってんだよ、悪魔。いくらお前がすごい存在だったとしても、人間を過小評価しすぎなんだよ。そう、俺みたいにな」
ニヤリ、とヴァースは笑った。
「もうそろそろ、俺が反撃してもいい頃合だと思うんだ。これまで、負けては勝利ともいえないものを掴み取ってきたからな。今回は運がよかったんだ。たぶん連戦だったから頭がフル回転だったんだろ」
『何を言っている……?』
「こういうのって意識の齟齬を利用してるんだろ? それならその齟齬が起きないようにすればいい。痛くないと強い意志を持てば痛みなんてなくなる」
それに、とヴァースは悪魔を見据える。
「お前が俺を乗っ取るっていう判断をしたなら俺は瞬殺されてるはずだ。だってそうだろ。そっちは人間を上回る悪魔なんだから。でもお前はそんなことしなかった。これはどういうことか。俺にはなにかの影響でそれができないと睨んでいるんだが」
腕を掴んだ悪魔が逃げようとするのを、しっかり捕まえる。
そして、残った魔力を使い果たす勢いで最後の一撃を放つ。
「思えば、負けた後の再戦の時、俺は決まってこれを使ってたな」
いつも通りの、見慣れた光が手に集まる。
そしてそれを、そのまま悪魔へ叩き込む。
その光が、ビックバンのように、激しく弾ける。
意識を刈り取る『意識飛ばし』。
これは、とても強力なものであって、そしてとても優しいものだった。
生ぬるいと言われればそれまでだ。ヴァース自身、それはよく理解していた。
だが、ヴァースは人を殺傷する度胸も、覚悟もない。これは善人というわけではなくて、ただ彼が少年であるからだ。まだ十余年しか生きていないのではそれは当然のことだろう。
「じゃあな、悪魔」
崩れ落ちる悪魔を地面に横たえて魔力を使い果たしたヴァースはフラッとふらついた。
「ヴァース様!」
あと少しで頭から墜落するところをヴィーナが受け止めた。
もしかしたら、だからなのかもしれない。
彼が、少年であったから。
その行動が、人に影響を与え、変えていく。
『ハハハ』
……と、笑い声があった。
『そうだね、それでこそ君だよ』
それは、言うまでもなく、たった今倒したばかりの悪魔のものだった。
悪魔は、『意識飛ばし』を直撃させたにも関わらず、ムクリと起き上がった。
『でも、誤算が何個かあるよ。まず、このフィールドが何たるかを理解してなかったこと。そして、私のことを悪魔ではなく、人間として扱っていたこと。なんで私がここに君を引きずり込んだと思っているんだい?』
「ま、さか」
『そうだよ。このフィールドは私、それ自体であってこの体は端末のようなもの。たかが何分の一かを倒したからと言って、残りの大半がすぐに代わりになれる』
どこを見ても漆黒だったのは、そういうことだった。ここにいる時点で、もう悪魔の腹の中だった。
『ま、君は君らしく最後まで戦い抜いたわけだけど、さて、私はこのまま君を乗っ取っちゃっていいものかな?』
○
「うう、気持ちが悪いなここは……」
穴へ潜り込んだイルナは入って三秒で後悔していた。
とにかく真っ黒な風景は、まるで深淵に落ちてしまったような気分を彷彿とさせる。
こちらはヴィーナと違ってお化けとかそういうのはむしろ退治してしまえという考え方なのだが、気持ちが悪いのは拭えない。
「なんだか、ねっとりとしているのだな。空気が。まるでなにかに食べられてしまったかのように」
的を射たイルナの意見は、しかし何もない世界に響いただけだった。
「しかも距離や広さを惑わすと来た。これでは探そうにも探せないぞ」
先ほどからサーチをかけているのだが、今の自分の位置でさえ曖昧になっている。しかも見渡す限り黒一色なのでここに人がいるのかさえ怪しい雰囲気だった。
「……帰ろうかな」
もう、なんか猛烈に感じた根拠のない切迫した考えも現状を見て冷めてしまった。
……なにより、めんどくさい。
「そもそも、なんで妾はあんな気持ちの悪い穴に進んで入ってしまったんだ?」
そう自問自答して、イルナはヴァースとヴィーナが男女でここに来ているはずなのだという回答を得た。
「そうだった。怪しいけしからんことをしてないか取り押さえに来たんだった」
そこで当初の目的を思い出したイルナは再び気力を取り戻す。
だが。
「本当にここにいるのか……?」
何度見回しても、三百六十度全て漆黒だ。
そもそも、どこにいるのかわからないので、無闇に歩くと気付かぬうちに遠ざかっていた……なんてことにもなりかねない。
「やはり外で待ってた方がよかったか?」
まあ『命繋ぎ』という破格の能力を持っている身だ、万が一にも戻ってこないということはあるまい。その間、けしからんことをしていないかは気になるが。
ということでイルナが今来た道を引き返そうとした時だった。
「……む?」
○
『……、』
悪魔は気に触ったような顔をしていた。
このまま行けば、難なく力ないヴァースを乗っ取れている……はずだった。
忘れてはいけない。ここにいるのは二人ではなく三人だということを。
「させません……!」
悪魔の手がヴァースに触れるか触れないかのところで、今度はヴィーナがその腕を掴んでいた。
『何の真似かな?』
思わぬ邪魔に悪魔は不快を隠せない。
現にヴィーナの膝、それどころではない、全身は絶え間なく震えていた。
だが、その中に、凛としてこれだけは貫き通すという信念が見え隠れしている。
『早くどいてくれない? じゃないと、消すよ』
この死刑宣告にもヴィーナは屈さなかった。
「駄目です……。この人は私を、地を這いながら生きていくしかなかった私を、救ってくれたんです。しかも、一緒にいていいとも言ってくれました」
「ヴィーナ……」
『ふん、それは私が運命を少しばかり操作したからで……』
「だから、あなたにも感謝しているのです。私のこの惨めな運命から脱してくれたことについては。でも、こんな私を救ってくれたヴァース様に手を出すことは許しません!」
『君おかしいんじゃないの? 今から命を奪おうとする相手に対して感謝とかさ。ま、私にとっては些細なことさ。言っておくけど、私は手加減とかないよ』
ブワッと悪魔から殺意が放出された。それを浴びせられたものはそれだけで全身の毛が逆だって血流が逆流してしまいそうに恐ろしいものだった。
だが。
だけど。
『……それが君の選んだ道か。なら私も思う存分力を震わせてもらうとするよ』
ヴィーナは、それでも、命を奪われようとしているにも関わらず、そこをどかなかった。
「たとえ私が死んだとしても、ヴァース様には指ひとつでも触らせはしません!」
怯えに震えながらも、芯があり、勇敢であった。その声は黒の世界にとてもよく響いた。
『……あっそ』
だが、そんなので心が揺らいでしまうような悪魔ではない。というか、そんな精神論で揺れてしまっていたら、この悪魔の存在意義自体が揺るがされる。
急激に力を入れることでヴィーナの手を振り払い、悪魔は、悪魔らしく、無慈悲にその手の狙いをヴィーナに定める。
もう、助からない。ヴィーナがいきなり覚醒したとしても、ヴァースが立ち直ったとしても。
悪魔と人間には、圧倒的で絶対的な差があるのだから。
「や、めろ……」
その切実なヴァースの呻きにも、ヴィーナは微笑んだだけだった。
神様、どうか私がいなくなってもヴァース様がご無事であられますように。
そんなことを最後に願ったところで、避けられない魔の手が襲いかかった。
もしかしたら。
そんな願いが通じたのかもしれない。
『?』
手を振り下ろす直前、悪魔の顔に不審の色が見えた。
直後。
ゴッッッッ!! と数多の生物たちが悪魔を轢いていったのだ。
『は、……っ?』
悪魔はわけもわからなかった。
わけもわからず、顕現させた体を消す他になすすべがなかった。
「え……?」
もちろん、ヴィーナがいきなり覚醒したとか、そんな非現実的な出来事ではない。
むろん、ヴァースの『命繋ぎ』に隠された力が解放された、というわけもない。
ヴィーナは驚きながらも、今の光景の犯人がわかった気がした。
(ああ、神よ……。いいえ、あの方の場合は女神様というべきなのでしょうが)
「ありがとう、ございます……」
そこで、ヴィーナは気を失って倒れた。おおかた、あの悪魔の発する異様なプレッシャーで極度の緊張が精神を締め付けていたのだろう。
「ぐへッ」
そして、ヴィーナが倒れた落下地点にいた満身創痍のヴァースもまた、下敷きになるという追撃でついに気を失ったのだった。
○
「ふむ?」
イルナが首を傾げて黒しかない景色の向こう側を窺っていた。
何か、聞き覚えのある少女の声が聞こえた気がしたのだ。そしてそれはどことなく悲鳴にも聞こえた。
だから『生物使役』をぶん投げたのだが……。果たして、イルナは向こうに被害が出る可能性を一ミリでも考えていただろうか。
答えは否だろう。きっとこの質問をしたら『は? そんなの回避しなかった個人の責任であろう』といたって真顔で言われるに決まっている。
うーん、と思案する顔で行くあてもなかったイルナは声がしたような気がした方へ歩き始める。
そう、悪魔は勘違いをしていたのだ。
人間は悪魔には勝てない。
だが、何もヴァースの味方は人間だけではない。元人間で今は半霊体の人間を超えた存在が、一番身近にいたのだ。
そして、生と死をかけた窮地を救ったなんて知らないイルナは何かを心配するような顔で考えていた。
(聞こえた気がするだけなのだが、今のはどう考えても悲鳴だったよな? まさか、ヴァースのやつ、前みたいな感じでヴィーナを襲って……!)
……全てが闇に包まれているという奇妙な状況にあってなおこんな発想ができる彼女は、残念ながら少しズレているという他ない。
○
「んーう……」
しばらくの後、ヴァースはやっとこさ目を覚ました。
景色は変わらず漆黒のままだが、先ほどまでやるかやられるかを演じていた悪魔はもういなくなっていた。
あるのは、すぐ上に乗っかっている暖かく柔らかい感触だけ。
正直、ヴァースが目覚めたのはヴィーナの重みで圧迫されていたというのが大きい。
そして、ヴァースはグラマラスお姉さんのイルナには全く興味を示さないのだが、歳の近い少女となると話は変わってくる。
「……、」
肌と肌が触れ合っているのだと認識した瞬間、ヴァースの思考は真っ白に、顔は真っ赤になってしまった。
そしてそのまま硬直してしまっていると、
「ここらに人影が見えた気がするのだがな……」
イルナが傍らをキョロキョロしながら歩いているのが確認できた。どうやら、イルナは立っているので寝ている二人が見えていないようだ。
そんな風にそのままスルーしようというところで、
「うう……」
運の悪いことに(?)ヴィーナがちょうど呻きをあげて起きてしまった。
イルナはすかさず反応して視線を落とす。
すると、ヴァースと目が合った。
さて問題。
ヴァースの上にヴィーナが覆いかぶさっているこの状況、色々と勘違いしちゃうイルナお姉さんが見たらどう思うでしょうか?
「ヴァース……」
「いや違うんだけど、これは死闘に死闘を重ねた結果二人とも気を失ってしまった次第で……!」
「悔い改めろ!」
瞬時にどこかから芋(なぜ芋?)を取り出してイルナがぶん投げると吸い込まれるようにヴァースの額へとヘッドショットが決まったのであった。
そして言うまでもなくヴァースは沈黙した。
「あ、あの、イルナ様?」
「ああ、よい。どうせそこのヴァースが悪いに決まっているのだからな」
「いえ、そちらではなく。窮地を救っていただき、ありがとうございました」
「おや、そんなことしたか?」
「ええ、運よく敵にあの生物の大群が襲いかかって……まるで、女神様みたいでしたよ」
「そ、そうか……?」
どうやら、この二人はどちらもヴァースのことは一ミリも心配していないらしい。救えない可哀想な少年である。
「それにしても、やはり気味が悪いなここは」
「はい。でも見た限り出口もなさそうです」
いつになっても変わらぬ黒一色で、どこに出口があるのかさえあやふやなところである。イルナも今となってはあの飛び込んだ穴に戻れるかは五分五分といったところだった。
「だが、そんなことで諦めてしまってはしょうがないぞ。もう少し頭を捻ってみい」
「? すいません、全然わかりません」
「つまりだな、こういうことだよ」
パチン、とイルナは指を鳴らした。
すると瞬く間にこの無変化な空間にあからさまな変化が起こった。
ビキビキ、と黒の世界に、光の亀裂が入っていき、みるみるうちに割れていったのだ。
闇が完全に取り払われて、外の世界が露わになると、
「おう、戻ってきたのか」
サンディスの王が玉座に偉そうに座って三人を出迎えた。
結局、頭を捻れとはいったもののやったことは脳筋のやる出口がないなら作ればいいじゃない的発想だった。
「うむ。たしかに今のは骨が折れたな。ヴァースの魔力をギュンギュン吸っていた気がする」
「やはり計り知れないなお主は……」
「そこで、願いがあるのだが、ヴァースに温かい食べ物をやってくれないか? 実を言うとヴァースは死にはしないだけで体力などは自動的に回復することはないのだ」
「いいだろう。ちょうどお主らに恩も感じていたところだ、それくらいはお安い御用と言うものだろう。盛大に宴を開こうではないか」
王は側近に目配せして宴の準備に取り掛かるように急かした。
運命の歯車は回り回って普通ではありえない悪魔の一時的な討伐まで成功させてしまった。
それは偶然に偶然が重なった結果かもしれない。だが、ヴァースの行動が局面を動かしたのも事実。
因果応報なるこの出来事は、これにてフィナーレを迎えるのだった。
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