その敗北は <2>
あ。まずい。とにかくこの上なくまずい。
ヴァースは息をするのも忘れて硬直していた。
目の前にいるのは検問の男。それだけなら何も問題はないはずだった。
だが、ヴァースは水に飢えすぎて不法入国した身なのだ。そもそもここにいてはいけない存在。だからそそくさとここを出ていこうとした矢先これだ。
しかもこの男にはしっかりと顔を見られている。さっきのように通達された者は誤魔化せても整形などをしない限りこの男を騙すのは無理だ。
くるりと半回転してヴァースは来た道を戻ろうとした。
「ねえ、待ってよ」
だががっしりとした腕に阻まれる。
「うーん、じゃあその荷物見せてもらっていい?」
抗えるわけもなく、検問の男はヴァースの荷物をチェックした。
まもなく証拠品は上がってきた。
「……このローブ、君のだよね? この布も」
「そうですけど」
「おっかしいなあ、さっきも見たんだよなあこれと同じものを身につけた不当入国者が」
「……、」
「ちょっと、一緒に来てくれるかな」
「待って!」
ヴァースの腕を引っ張って行こうとしたところで第三者の声がかけられた。
「どうかしたのかな、お嬢さん?」
声のした方を見てヴァースは目を見開いた。
呼び止めたのは、さっき助けた(逃がした)奴隷の少女だった。走ってきたのか息を切らして膝に手をついている。
「その、人。私を助けてくれたんです」
「あ、そうなの。大丈夫、心配しないでお嬢さん。彼にはただ正式な手続きをしてもらうだけだから」
心配はいらないと手を振られてじゃあ行こうか、と圧をかけられてヴァースは手を引かれていく。
「あ……」
奴隷の少女の衰弱しきった体では追うにも追えず、ただ見ていることしかできなかった。
「……どうしよう、お礼がしたかったのに」
「あれあれまあまあ。ミリ単位でも心配だったから来てみたけどやっぱりやらかしてたか」
「!?」
奴隷の少女が振り返ると、すぐ隣に今まで気配すらなかったのに、そこにイルナが現れていた。そして顔がものすごく近い。少女のびっくりの仕方があまりにも酷かったのか、「おっと、失礼した」と顔を会話するのに適した位置へ戻した。
イルナは腕を組んで、
「……で、そなたはヴァースの何なのか?」
見透かすように目を細めてイルナは奴隷の少女を見た。
妬いている、といったふうにも見えるが、それをヴァースが聞いたらうえー、と拒絶反応を見せるだろう。
「ヴァー、ス?」
少女は思わぬところに首をかしげた。
え、あの、そのという恥じらい展開を期待していたイルナは興ざめでもしたように棒読みで説明する。
「あー名前も聞いてなかったのか。今連れ去られた馬鹿の名前だよ」
全く、あの年のくせに色恋沙汰に興味はないのか、と呆れ気味の息をふん、とついてもう一度少女の方を向いた。
「ところで、そなたの名前は?」
名を聞く前に自分から名乗れ、という習わしがあるがイルナにとってそれはクソ喰らえだ。彼女にとって名前とは名乗らせてからこちらが名乗る価値のあるものかを吟味し、それを経た上でようやっと名乗るものだ。人はこれを自己中心な考え方、よくてマイペースと言うが、彼女の性なのかどちらと言われてもポジティブに受け取ってしまう。
「えと、実は……ないです。お前という呼び方でしか呼ばれてきませんでしたから」
「……なるほど、幼いころからの奴隷か」
イルナは神妙な顔をした。奴隷というのは家系も関係する。奴隷の子供はどうやっても奴隷になってしまうのだ。こればかりはどうしようもない。
だが、目の前のこの少女は解放された。イルナはそう前向きに捉えることにした。
「では名前をつけてやろう。ふむ、クロかタマかポチか……」
どう考えてもペットにつける名前である。イルナは絶望的にネーミングセンスがない。
「あ、あの」
さすがにペットみたいな名前は嫌だったのだろう。耐えきれなくなったように名無しの少女はイルナに提案した。
「ヴァース、とイルナ、掛け合わせてヴィーナはいかがでしょう」
自分の名前なのだから自分で決めていいはずなのだが、まだ奴隷時代の感覚が残っているのかしっかりと主人(?)に確認してしまう。
だが、イルナは自分の意見を何がなんでも押し通すようなタイプではない。
「うむ。いいではないかヴィーナ」
快く承諾して早速名前呼びまでした。
新しい名前の響きに感動したのか、ヴィーナの表情がみるみるうちに明るくなった。
「はいっ、ヴィーナです!」
本当に奴隷だったのかわからないくらいニッコリ笑顔を見せると、あれ、と何か疑問を持ったように首をかしげた。
「そう言えばイルナ様、イルナ様とヴァース様のご関係はどのようなものなんでしょう?」
「様って……。そこまで堅苦しくならなくてもよいのだぞ?」
「あ、すいません癖で」
「まあいい。慣れてきたら外すがいい」
まだ心は奴隷から解放されていないようだ。こういう健気な者を見ていると自然とイルナは過去を思い出してしまう。
「……、」
「それで、関係性はどのような?」
続けて聞いてくるヴィーナを見てイルナはイタズラっぽく笑んだ。
「ふふ、それは口に出すのははばかられるな」
口に手を当てて少し恥ずかしそうにしている。
「そんな反応されるともっと聞きたくなります……」
「まあいつか話すさ、いつか」
「えー!」
その後も楽しそうな話し声がそこには響いていたという。
○
「へっくし!」
ヴァースが唐突にくしゃみをしてズズズ、と鼻をすする。
「どうした、風邪でも引いたのか?」
「いや、俺ハウスダスト駄目なんすよね」
「そうか、ここなら心配ないな」
「はははー……って、おいい!」
ヴァースは机をどんと叩いて検問の男を睨む。
「なんでこんなところに入れられてるんだよ!」
ここは取調室――ではなかった。
正真正銘、牢屋の中だった。
六畳くらいのスペースにはベッドとトイレ、そしてヴァースと検問の男が向かい合っている机のみが置かれていた。
「なんでだよう正式な手続きするだけじゃなかったのかよう不当入国しちゃったのは深ーいわけがあったんだってきちんと説明して謝るからせめて牢屋には入れないで!?」
てっきり入国証的な何かに自分の名前さえ記入すれば思う存分自由の身になれると信じて疑わなかったヴァースは裏切られた気持ちになっていた。
「うちの国はこういうのにちと厳しいんだ。我慢してくれ。そもそも逮捕だけで済んでよかったと思った方がいい」
「ちょっとトイレ行きたいなー」
「そこでどうぞ」
「……の、喉が渇いたなー」
「あそこに蛇口があるじゃないか。とてもキレイとは言えないが汚いわけでもない。飲めはする」
「……、」
どうやら手詰まりのようだった。トイレも水分補給も駄目なら他に外に出る術が見つからない。
「安心しろ。君はなんだか切羽つまってたようだったからその説明を直談判したら取り計らってもらえて釈放は明日になる予定だよ」
なんだかんだでこの検問の男、根は善人らしい。何せ制止を振り切って入国した者を即刻処断ではなく生け捕りと命じるあたりその優しさはにじみ出ている。
「……本当に?」
てっきり無期限の牢獄生活が始まろうとしているのだと思っていたヴァースは目に涙を浮かべながら問い返した。やはり少年から見て大人は怖いものなのだ。
「ああ、本当だとも。我らが王は寛大だからな」
またそのワードが出てきた。王、と。
「……なあ、その言いよう、ここの王様がこの国全てを治めてるってことなのか?」
その問いに検問の男は自分のことのように誇らしげにして語る。
「そうだとも。あの方は偉大なんだ。この国に恵みを与え、秩序を与え、安穏を与えた。ここの国民は幸せ者だ、全てを与えられるのだから」
だが、ヴァースはその男の言いように、なぜか気味の悪さを感じずにはいられなかった。それはその王に依存しているとも言えないだろうか? 全てを与えられるとは自由ではなく束縛されていることなのではないだろうか?
まあ、そんなことを言い出したらこの男が怒り出して懲役期間が伸びかねない。口は災いの元、と自分に言い聞かせてヴァースは自粛した。
「とにかく明日が来るまで大人しく待つことだ。そうすれば外で待っている彼女にもすぐ会えるさ」
「あー、えっと、あいつとは一緒に行動してるわけじゃないんだけど」
ヴィーナ(まだヴァースは名前を知らないが)とはあの時限りの縁だと思っていた。一人で逃げて、いい場所に落ち着いて、ゆっくりと暮らす。そんなふうに自分で好きな人生を開拓していくとばかり思っていたのだ。まさか戻ってくるとは思わなかった。
「そうだったのか。まあいいさ。ここから出たら会ってこい。あんな美少女そうそういないぞ」
「そうなのか?」
艶かしいお姉さんのイルナといつも一緒にいる影響かヴァースはそういうのに疎くなっている節がある。確認のために言っておくがヴィーナは絶世の美少女とも言うべき美貌を持っている。擦り切れた服やみすぼらしい格好でそれは隠れてしまっているが。
「あとこの荷物はもらっていくぞ。この中にピッキング用の道具があるかもしれないしな。なに、ここを出る時には返すから安心しろ」
検問の男は立ち上がりヴァースの荷物を持って牢屋から出て鍵を閉める。やはりこういうところはしっかりしているらしい。
「ふぇー……」
「退屈だろうがそれは自業自得だからな。それだけはわかっておいてくれよ」
「はいはい」
「じゃあまた明日な」
そう言って男は去っていった。
のだが、一つ懸念事項がある。
――あの勝ち取った宝石も荷物の中に入れっぱなしだ。
あれを見られたら不審に思うに違いない、ヴァースの格好のそれが金持ちには見えないからだ。
そしてヴァースは手を打っていた。こんなこともあろうかと荷物には緊急脱出装置がついている。そしてその発動条件は先程話している時に手で印を結んで完了している。
目を閉じて念じつつヴァースは呟く。
「ワープコマンド02:宝石を移動!」
その瞬間、検問の男が持っている荷物の中から宝石が消えた。
○
そしてその瞬間。
「うおう?」
豊満な服の胸のあたりがさらに膨らんだと思ったらなんかキラキラしている石ころが飛び出してきた。
「あれ、これは宝石……」
もうイルナとは打ち解けたヴィーナが不思議そうにその光景を眺めていた。
そう、緊急脱出装置とはイルナの服だ。荷物に描いた陣とイルナの服に描いた陣をワープ回路として繋いでいるのだ。
一通り宝石が出尽くしたところでイルナは服の内胸のあたりを見て小さく舌打ちした。
「くそ、ヴァースめ。こんなところに陣を仕込んでいたとは。それにしてもいつ……? まさか、妾が寝ていて無防備な隙に――!」
「あの、今のはどういう?」
「ヴァースだ。向こうから飛ばしてきたらしい。それにしてもこんなものどこで?」
「たぶんそれ、私の前の主人だった人のやつです」
「助けるついでにキープしておいたのか……。一石二鳥を狙うとはやはりヴァースらしい」
はあ、とため息をつきながらもイルナは嬉しそうだった。
「イルナ様はヴァース様のことがお好きなんですね」
「はあ!? そんなわけがなかろう!」
「うふふ」
顔を赤くして必死に抗議するのをヴィーナはニッコリと受け止める。これではどちらが歳上なのかわからない。いや、外見上ではなく、精神的な面で、だ。外見はどこからどう見てもお姉さん風と少女風なのでどちらが歳上なのかは一目瞭然だ。
「と、とにかく!」
イルナは咳払いをして自分のペースを取り戻そうと試みる。
「わかったぞ」
「? 何がですか?」
それにイルナは指を頭に押し付けるジェスチャーをしながら、
「ヴァースの位置。今の魔術を逆探知した」
「すごいです! で、どこなんですか?」
「これがびっくり、中心部だ。それも刑務所のようだ。どうやら結構な距離連れていかれたらしいな」
「え、逮捕されちゃったんですか!?」
……いまいちサンディスのスケールがわからない者は東京の二倍ほどの大きさを想像してほしい。サンディスの国はそれほど大きくはないのでここから中心部までは三時間以内につける距離だ。
「じゃあどうしますか? 助けにでも行きますか?」
「あー大丈夫大丈夫。助けには行くけどそれは今じゃなくていい。ゆっくり行こうゆっくり」
どこか他人事な調子で言いながらイルナはどこから取り出したのかわからない巾着にワープしてきた宝石を入れていく。
「ちょうど思わぬ報酬も手に入ったことだし……思う存分飲もうじゃないか」
○
暇だ。
限りなく暇だ。
「うーん……」
日も沈んだころ、ヴァースは今日この一夜をどのように過ごすか考えていた。
荷物は取り上げられてしまったし、どうせイルナのことだ、助けに来るわけがない。
ここで便利能力魔術の練習をするという手もあるにはあるのだが、残念ながら今日は戦闘と先程のワープで魔力をかなり消費していた。無駄に魔力を使うことも避けたい。旅には何があるかわからないからだ。
それに、そもそも魔術が行使できない。
もともと陣を描いてあったからかワープこそできたもののさっきから『魔弾』のひとつも生み出せなかった。
どうやら逃走防止ように対魔術の呪いでもかけられているらしい。
夕飯は届きはしたものの、質素なものだった。味気ないしすぐ食べ終わってしまうしでヴァースの退屈はさらに増していった。
「やっぱ寝るしかないのかねえ」
ヴァースは荷物が持っていかれる前にくすねておいた布をベッドに敷いてその上に寝転がった。こういう自分に関するところは抜かりがない。
寝転がると、今日検問の男が言っていたことを思い出した。
「つか、まさかあいつ一緒に行動したいなんて言わないだろうな?」
身が自由になった少女が戻ってくるなんておかしい。奴隷だったから金銭がないのでは……。
そんなことを考えていると、不意に牢屋に影がさした。
「……ん?」
検問の男だった。なんだか歓喜に満ち溢れたような顔をしている。
「喜べ。王直々に会いに来なさったぞ。話がしたい、ということらしい。よかったな、このままここから出られるかもしれないぞ」
「ここでいいのかの?」
検問の男の横から凛々しい男の声がした。コツコツと足音がしてロウソクの淡い火がその人物の全体像を露わにした。
まず目に付くのが王冠と同じ色である金の髪。泣く子も黙らせるような鋭い目つきはこの王が王たる証拠になっていた。体はがっしりとしていて、腰には三本ほど剣が携えられていた。服には黄金の金具が散りばめられ、この王の栄華を顕著に表していた。
その王は興味深そうにヴァースを見た。
「これはこれは。まだ少年ではないか。この者が本当に不当入国者なのかの?」
「はい、私の目が節穴でない限りそれは事実であります」
「なるほど。優秀なお主の言うことだ、間違いなはずはあるまい」
その王は鍵を、と検問の男に呼びかけて鍵束を手渡させる。
「もう下がってよいぞ。余はこやつと話がしてみたい」
「はあ、ですが」
「心配はいらん。この牢獄の中、わざわざ余に叛逆する気も起きまい」
「左様ですか、では」
納得したように検問の男は去っていった。
ガチャ、という音とともに牢屋の鍵が解かれる。
王は恐れなど何もないと言わんばかりにズカズカと入ってくる。
「やあ、侵略者よ」
「……なんのことだ?」
とぼけるでない、と王はかかか、と笑う。
「余が騙されるとでも思うていたか?」
「いや本当になんのことかわかんないんだけど」
水を求めて国を目指したこと以外は目的もなくたどり着いてしまった国なので当然ヴァースにそんな思惑など存在しない。
「ま、今からいなくなるのだから話しても意味はないか。手早く済ませてしまおう」
ジャキリ、と不吉な音を立てて王が鞘から剣を抜く。
「……は?」
意味不明だった。なぜ何の罪もない自分が斬られようとしているのか。
その答えは王の口から語られた。
「すまないが、お主の命はここまでだ。別に侵略の思惑があるとか、そういうのは関係がないのだ。国民に不安を与えた。それだけで極刑は免れん」
薄笑いまで浮かべて王は言う。
そして追い詰められたヴァースは決心していた。
――こいつだけは罰せねばなるまい。こんなやつが治める国はただのまやかしだ。
「王直々の処刑だ。心に深く刻むといい」
剣が、振り下ろされる。
この牢の中で魔術は使えない、よって防御は不可。
そして荷物もないため即席の武器もない。
ザグシュ、と肉の切れる音がした。
結局、剣を受け入れる術はなかった。
「ごぼっ……」
血を噴き出してヴァースは地に倒れ伏す。胸を一閃。これは致命的だった。
「ではな。最後の瞬間までせいぜい生きるといい」
剣についた血を払って鞘に収めると、王は踵を返した。
ヴァースにはもはやそんな言葉を聞く聴力はなかった。意識も朦朧としている。
チカチカと光る視界の中、最後に窓の外に月が見えて――。
――ヴァースは、死んだ。
○
「……!」
その予感はイルナにまで伝わっていた。
何か良からぬことが起きた気がする。
「どうしたんです?」
傍らではヴィーナが心配したように問いかけてくる。
「どうして――泣いているんです?」
イルナは目もとに手をやって、やっと自分が涙を流していることを知る。
ああ、これは――。
「昔話をしようか」
唐突にイルナは始めた。ヴィーナは真剣な気配を感じ取ったのか、じっと話の続きを待っている。
「ある、実力だけがものを言う国の、愚かな女帝と勇敢な男の話さ――」
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