本日晴天、釣果あり

タウタ

本日晴天、釣果あり

 紅丸は手製の魚篭と竿を片手に山を登っていた。数日前、仁孝がふとアユが食べたいとつぶやいたので、畑仕事を伊都乃と弥助に押しつけてきた。

田畑の間を流れる細い水路をさかのぼる。山に入ってしばらくすると、人の通る道も途切れた。瑠璃を転がすようなせせらぎに沿って、なおも進む。苔むした岩を軽やかに超え、倒木から伸びた新しい芽を踏まないように迂回する。

 やがて、重くみっしりと頭上を覆っていた木の葉が途切れ、紅丸は初夏の陽光の下に躍り出た。木の枝にこぶができるように、川が途中で膨らんでいる。上流から透明な水を引き入れ、束の間翡翠色に染め上げては下流へ送り出す。池や沼のようにためこむことをしない。ほんのひととき、流れを休ませるためだけにあるようだった。

 地面から生えてきたような大岩が紅丸の特等席だ。背よりも大きいので、近くの比較的小さい岩を足掛かりに飛び乗る。対岸にはもっと平たくて座り心地のいい岩があるが、紅丸はこの岩の適度なざらつきと、てっぺんのなんとも言えない丸みが好きだった。

 大きなブナが枝を広げて傘を作ってくれる。降り注ぐ日差しに照らされ、若葉の産毛がきらきらと輝いた。針に虫を取りつけていると、頭上にキビタキがやってきた。黄色い胸を膨らませ、ころころと首を傾ける。紅丸は餌袋を隠した。

「これはダメだぞ。仁孝さまにアユを釣るんだからな」

 遠くでアオバズクが鳴いている。ホッホッと笑っているような声だ。気づけば、対岸にはひっそりとカワセミが陣取っている。思わぬ競争相手ができてしまった。

竿を振ると、針は川の中ほどに落ちた。流れに乗って、すうっと糸がなびく。あとは無心に待つだけだ。たくさん釣ろう、大物を釣ろうとすると、そういう気持ちを魚に見破られてしまう。仁孝にアユを持って帰れたらいいとは思うけれど、釣れなくても仕方がないとも思う。何事も自然に敵うわけはないのだから、気負ったってどうにもならない。

太陽は高く昇り続け、光の当たるすべてが白く輝いている。どこもかしこも命でいっぱいで、はちきれそうだ。静かなのに、本当にたくさんのもので満ち満ちている。

 刻一刻と姿を変える雲を眺め、月色の尾を引くカゲロウが現れては消え、消えては現れるのを見送った。時折、緑色の水面に魚影がぴかりと反射する。甘いアユだといい。身がふっくらとしていて、焼くと皮が香ばしくて、仁孝が美味いと笑ってくれるアユだといい。

 何回か餌を取られ、その都度新しくつける。釣りとはそういうものだ。もっと水深が浅く、川底も魚も見えるようなら、突いた方が早い。実際、実家にいたときにはそうして魚を獲っていた。けれど、そうしてしまうには惜しい何かを、釣りは埋めてくれる。人間の知恵や、魚の底力のようなもの。川よりもずっと大きな流れ。抗うこともできない流れの中で溺れているうちに、ふと、指先にかすかな震えが伝わることがある。紅丸は竿を引いた。

 よく太った銀色のアユが水面を割って躍り上がる。元気よく跳ねるアユの口から針を取り、魚篭に放り込んだ。まずは一匹。いつの間にかカワセミはいなくなっている。キビタキはまだそこにいた。

「あんまり見るなよ。恥ずかしいだろ」

 黒く小さな目がくるりと動いた。

 今度は前方の岩の影を狙って竿を振る。まだ蝉が鳴き出す前の山は静かだ。目の覚めるような橙色の山百合が、甘い匂いを放っている。遠慮がちにイヌツゲの花が咲いている。白い花弁に薄っすらと黄色い筋が可憐だった。

(来るかな)

 指先に意識を集中する。そのとき、水面に影が走った。キビタキが飛び立つ。そこかしこで羽音が立った。

 魚の気配が遠ざかる。

「なんだ、まだ一匹か」

 伊都乃は魚篭をのぞきこみ、小馬鹿にしたように言った。

 高く結わえた髪が落ちる。伊都乃は藍色の小袖に、茶鼠色の袴を脚絆でとめていた。年中涼しげな目元に木の葉の影が落ちていっそう爽やかだ。着流しでその辺りを歩けば、すれ違う女が皆振り返るだろう。見慣れすぎた美貌だが、やっぱりきれいな男だなあと思う。

 空を仰ぐと、木立の合間にかすみ――伊都乃の鷹――が見えた。低いところを旋回している。伊都乃を見失わないためだろう。

「魚が逃げた。伊都乃が急に来るからだ」

 ちょっと文句を言ってみる。伊都乃は本当に急に来た。紅丸も、ほんの一瞬前まで気がつかなかったくらいだ。今日の伊都乃からは、紅丸が苦手な火や鉄の匂いがほとんどしない。彼はいつでもたくさんの火薬や手裏剣を身につけているので、近くに来ればすぐにわかる。丸腰ということはないはずだから、髪の結び目には仕込まれているだろう。気にならないのは緑が濃いからだろうか。

「せっかく弁当を届けにきてやったのに、その言い種か」

 言われて、紅丸は空腹に気がついた。朝から何も食べていない。水を入れた竹筒は持ってきたけれど、兵糧丸さえ置いてきてしまっていた。笹でくるんだ包みを開けると、大きな握り飯が三つ入っている。たくあんもついていた。

「伊都乃が作ったのか?」

「俺の作った握り飯が食えるのか?」

 伊都乃は皮肉っぽく口角を上げた。彼は暗器に毒を塗る。耐性をつけるために自分でも飲む。皆が嫌がるので台所には出入り禁止になっている。

「うーん……平気かな」

「では、今度塩の代わりに附子で作ってやる」

「それは平気じゃない」

 紅丸はぱん、と音を立てて手を合わせ、握り飯を頬張った。一口で弥助の作だとわかった。弥助が作る握り飯は塩辛い。でも、ちゃんと三角形になっている。紅丸が握ると、どういうわけか角がつかない。

「ひとつ食べるか?」

 伊都乃は首を振り、酒の壷を掲げてみせた。岩から降り、下流へ続くすぼまりを渡って対岸の平たい岩に登る。酒を飲んで横になった。すぐに戻るつもりはなさそうだ。

「あんまり無防備にしてるとさらわれるぞ」

「誰に?」

「山の神様」

 山には女神がいる。醜い女は許されるが、美しいと嫉妬される。いい男は神隠しに遭う。故郷の村の婆様が言っていた。

「さらわれる前に仕留める」

「そんな罰当たりな」

 大言壮語ではなく、彼は神だろうと仏だろうと平然と刃を向けそうだ。紅丸は手にした三つ目の握り飯を竹の皮に戻した。これは山に供えていこう。伊都乃がさらわれたら困るし、魚ももらっていくし、何もしないでは本当に罰が当たる。

「ごちそうさまでした」

 もう一度手を合わせる。

 いつしか、かすみは高く昇っていた。伊都乃が止まったので安心した、あるいは、影が川面に映らないようにしてくれたのだろう。紅丸は餌をつけ直し、針を投じた。

伊都乃は眠っているようだ。ぴくりとも動かない。

 さやさやと梢が鳴る。姿は見えないけれど、鳥の声が戻ってきた。木漏れ日を受けた水面は緑と白のまだらに揺れている。のどかでいいなあ、と思う。ここでは殺したり殺されたりはない。もちろんトンボは羽虫をつかまえるし、カエルはトンボを食べるだろう。けれどそれはとても自然なことだ。めぐる環の鎖のひとつにすぎない。その中にちょっとだけ入れてもらって――

「よし、二匹目」

 ほどなく三匹目も釣れた。あと何匹いるのだったか。屋敷にいる者を指折り数える。仁孝の配下は他国へ行ったり戻ったりをくり返している。人数も、顔ぶれも、違うことが多い。配下の中には屋敷に出入りしない者もいる。紅丸が会ったことのない者も多いだろう。朋輩が全部で何人なのか、未だにわからない。

釣りをしていると、だんだん自分が水中にいる気分になってくる。意識が竿から糸をたどって針の先に移っていくようだ。紅丸は目を閉じた。水は冷たい。きりりと澄んでいる。遡上してきたアユたちが、束の間憩う。まるでアユの形を優先するように、川はなめらかな曲線にそって流れる。小さな尾ひれをあまり動かすこともなく、アユは流れの中ほどにとどまっている。体を大きくしならせたかと思えば、すばらしい速さで深みに消える。

目を開けると、周囲のすべてが光を放っているかのようだった。目玉の奥がごりごりする。紅丸はくしゃみをひとつした。針を上げたら餌がないので、新しくつける。

 竿を振ろうとしたら頭上の梢がざわついた。見上げると、枝が揺れている。甲高い鳴き声と慌ただしい羽音。何か落ちてきたと思ったら、鼻先をかすめて黒い筋が走った。

たん、と小気味よい音が響く。

ふり返ると、ブナの幹に大きなアオダイショウが縫いとめられていた。頭を棒手裏剣に貫かれ、ぐねぐねとのたうっている。

「また魚が逃げた」

 対岸に向かって文句を言う。伊都乃は身体を起こしていた。あくびをしている。

「釣果は増えた。ウナギだとでも言っておけ」

「蛇はウナギじゃないぞ」

「さばけば同じだ」

「そうかなあ? ところで、これ毒ぬってないのか?」

「さて、どうだったか」

 興味がなさそうに言って酒を呷る。そういうことだから台所に出入り禁止になるのだ。伊都乃はまた横になった。こんな自由な男、いくら美形でも山の神様が嫌がるだろう。

紅丸はだらりとのびた蛇を魚篭に入れ、棒手裏剣は肌に触れないよう襟の隠しにしまった。

 蛇は伊都乃の分にしよう。アユは一匹少なくてよさそうだ。


Fin.

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本日晴天、釣果あり タウタ @tauta_y

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