第三十四話 再び現在 in EAFB
隣で丸くなって眠っているちはるの頬を指で撫でながら、ぼんやりと天井を見つめた。ショットガンと顔を合わせたことで昔のことが色々と思い出され、あれこれと考えているうちに眠れなくなってしまった。
『ところでボーンズ、お前、もう空に上がらないのか?』
空を飛ぶことに未練がまったくないと言えば嘘になる。F-2の正式配備が始まったころに声をかけてくれた、輸送部隊や民間企業からの引き合いに応じていれば、戦闘機は無理でも輸送機や哨戒機、それか旅客機のパイロットでいられたかもしれない。
完全に踏ん切りがつかないそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ちはるはたまの休暇に俺を
当時は表立って言うことのできなかったこの件だったが、今年それまで続いていた女性自衛官の戦闘機への配置制限が解除された。この制限解除があと二十年早かったら、ちはるは部隊配属を望まないまでも、イーグルを飛ばせるまでになっていたかもしれない。
「そう考えるとうちの嫁は、なかなかの天才パイロットなんじゃないか?」
横でむにゃむにゃなにやらつぶやいている妻の顔を見下ろした。子育てと任務を両立させながらも、こうやってパイロットを続けているんだから本当にたいした嫁だ。
「ん?」
しばらくちはるの顔を眺めていると、外が騒がしいことに気がついた。
どう考えてもあの声は
ベッドから出ると、スエットのズボンをはきTシャツを着る。義足をつけるのは面倒なので、そのまま片足跳びで窓へと向かった。カーテンを開けて階下をのぞくと、建物を出たところで藤崎が社の腕を引っ張って、やいのやいのと上をさしながら騒いでいる。
「んー?」
つられて上を見れば、都会では見ることができない星空がひろがっていた。これはなかなか素晴らしい光景だ、ちはるも起こして見せてやるか。
「おい、ちはる。外がすごいことになってるぞ」
「んー……お月様が真っ二つに割れるぐらいのことがおきてるなら起きる……」
どうやらうちの嫁も、社と同じでお疲れモードのようだ。だがあいにくと俺は、一発で彼女が目を覚ます方法を知っている。ベッドに横に立つと一呼吸置く。そして耳元で叫んでやった。
「緊急事態発生、緊急事態発生!」
「ふにゃあ?!」
ちはるが飛び起きた。普段とは違って情けない声を出したのは、それを言ったのが俺で、実際は緊急事態でもなんでもないことがわかっているからだ。だがわかっていても体は普段の習慣に従って、きちんと反応して飛び起きるというわけだ。
「もう酷い、なんなのよう……」
「見せたいものがあるから。風邪ひかないようにちゃんと服着てこっちにこいよ。外はけっこう冷えこんでいるみたいだからな」
そう言いながらベッドを離れ、窓際の椅子に座ると義足をつけ外に出る準備を始める。
「服を脱がせたのは
「いいから。早く」
「わかったあ」
文句を言いながら、ちはるはベッドの下に放り出されていた、Tシャツとスエットのズボンをのろのろと身につける。そして拾い上げたスニーカーを手にプラプラさせながら俺のところにくると、膝の上に座ってきた。そして、そのまま靴に足を突っ込んで紐を結びだす。
「おい、なんで膝の上」
「椅子を占領している雄介さんが悪い~」
「あっちにも椅子はあるじゃないか」
「私はここの椅子がいいの」
眠そうな顔でブツブツと言いながら、もう一方の靴にも足を突っ込んで紐を結ぶ。その尻の柔らかい感触に、外にいくのをやめてもう一度ベッドに行くか?なんていう考えもよぎった。だがそんなことをしたら、間違いなくぶっ飛ばされるに決まっている。だからここは撫でるだけで我慢しておくことにした。
「もう、なあに?」
「相変わらず可愛らしい尻だと思ってな」
「そう? 昔と違って、ずいぶんと余分なお肉がついちゃったと思うけど……」
「そんなことあるものか。ちはるの体は昔とまったく変わってない」
「それは雄介さんのほうでしょ? 普通ならこのあたりにお肉がついてそうなのに、全然なんだもの」
そう言いながら、ちはるが俺の脇腹あたりを指で突いてきた。
「そりゃあ体を鍛えておかないと、若いちはるの相手は出来ないからな」
「またそんなこと言っちゃって。若いといっても十歳しか違わないじゃない。私ももう立派なおばさんなんだからね」
「こんな可愛らしいおばさんなんて見たことないな」
靴の紐を結び終えたちはるを引き寄せて、キスをする。
「それで? 私をわざわざ叩き起こして服を着せてどうしたいの? ただキスをしたいだけじゃないのよね?」
「もしそうだったらどうする?」
「ぶっ飛ばす」
ちはると付き合い始めた頃、オヤジさんが俺のことを見つけてぶっ飛ばすとよく言っていたらしいが、その口癖が間違いなく
「怖い怖い。もちろんそうじゃない。少しの間だけ散歩に付き合ってくれ」
「散歩? こんな時間に? どうして?」
「質問は外に出てから」
そう言いながらちはるの手を握ると、そのまま引っ張って部屋を出た。
+++
「お前達、なにをそんなに騒いでいるんだ。上まで声が聞こえてきたぞ」
二人で外に出てから、そこにいた先客に声をかけた。社の腕をつかんで、その場でぴょんぴょんとジャンプしていた藤崎が振り返る。
「あ、すみません! でもあまりにも綺麗だからつい」
上を指さしているので、それにつられて上を見上げたちはるが、あらまあと言いながら笑った。
この基地は、人里からかなり離れた荒れ地のど真ん中にあるから空気も澄んでいる。そのお蔭で、日本の街中ではお目にかかれない星空がひろがっていた。そして時折光の筋が流れていくのが見える。どうやらこのあたりは、流れ星も他よりたくさん流れるらしい。
「すごいわね。
「ですよね! なのに社さんは、その良さがまったくわからないんですよ! どう思います?!」
「俺は星を眺めるより、ベッドでまったりしていたほうがいい」
社の言葉に、藤崎は目を見開いてとんでもないという顔をした。
「またそんなこと言って! 社さんには情緒ってものが理解できないんですか!」
「なんだよ、プロポーズした後にベッドで仲良くするのも、十分に情緒があるだろうが」
「そんなことないですよ! そんなのに情緒なんて一ミクロンも感じられません!」
俺とちはるは思わず顔を見合わせた。社は今なんと言った?
「おい、二人とも」
声をかけて手招きをする。
「なんですか? ほら、社さんも呼ばれてますよ!」
藤崎が社を引きずるようにしてこっちにやってきた。
「俺達の空耳かもしれないが、プロポーズって単語が聞こえたんだが。なあ?」
「ええ、私も聞こえた。なにかの聞き間違いじゃないわよね?」
社が珍しく、恥ずかしそうな顔をして肩をすくめる。
「朝になってから報告しようと思ったんですが、さっき藤崎に結婚を申し込みました。もちろん答えはイエスです」
「それって、まさかと思うが……」
ちらりと、藤崎の腹のあたりに視線を漂わせてしまうのはしかたがない。他のヤツだったらそこまでは心配しないんだが、なにせ相手は武勇伝てんこ盛りの社だからな……。
「違いますよ。藤崎は妊娠なんてしてません」
「でも言い出した動機がめちゃくちゃ不純なんですよ、一佐! 機付長として藤崎って苗字がペイントされたF-35に乗るのはイヤだから、お前が社になれって言うんですよ。どう思います?」
「おい、それは口実に決まっているだろうが」
「そんなのわからないじゃないですか、相手は社さんなんだもん。本気でそう思ってるかもしれないし!」
いきなり言い合いを始めてしまう二人に、やれやれとなった。
「もちろん口実にきまってるわよ、姫ちゃん。社君はそんないい加減な人じゃないから」
「そうですかねえ……」
藤崎は、ちはるの言葉に疑わし気な顔をする。
「いつまで経ってもそのままだから、一体どうなっているんだと心配していたんだが。そうか、ようやくか。めでたいな、おめでとう」
藤崎をここに引っ張ってきて二年目。俺とちはるの時に比べたら十分に早いが、ようやくゴールインしてくれるらしい。藤崎はあんなことを言ってはいるものの、本気で社がプロポーズした動機を疑っているわけでないのは、その顔を見てわかった。要はこの二人は仲が良すぎるのだ、色々な意味で。
「ありがとうございます。つきましては一佐御夫妻に、
あらたまった口調で社が言った。
「俺達で良いのか? 今後のことを考えれば、飛行隊の司令に頼んだほうが良くないか?」
最近は、仲人なんてものは形式的なものになりつつある。だが上下関係の厳しいこの職場では、それなりに重要なポジションだ。ちょっとしたことが出世に響く場合もあるから油断がならない。まあ、社自身は出世にはまったく興味がなさそうではあるのだが。
「いえ。俺達を引き合わせてくれたのは
「姫はそれで良いのか? 社の意見に異議があるなら、今のうちに言っておいたほうが良いぞ?」
「それってどういう……」
「私も社さんとは同意見なので御心配なく。このエロくてどうしようもないパイロットさんと引き合わせてくれたのは、間違いなく榎本一佐ですから!」
「……おい、姫」
それってどういう意味だと再び言い合いを始める。
「そうか。じゃあちはる、それで良いか?」
「もちろん」
それからしばらくの間、仲良く言い合いを続ける藤崎達と一緒に星空を堪能することになった。
「ね、パイロットをやめたこと、後悔してない?」
しばらくして、横で空を見上げていたちはるが問い掛けてきた。
「どうしたんだ急に」
「ほら、久し振りにショットガンと顔を合わせたでしょ? 彼はまだ飛んでるんだもの。雄介さんも飛びたくなったんじゃないかなって」
「まあ、空に未練がないと言えば嘘になるな。だが俺の翼はちはるに預けたんだ。お前が飛んでいる限りは、俺もまだ飛んでいるんだって思ってる」
ちはるが幹部候補生学校に入学した時に、無事に卒業できるようにと御守代わりに交換したお互いのウィングマークは、今もそれぞれの胸で光っている。不思議と俺のウィングマークをつけてちはるが飛び続けている限り、俺もまだ空にいるんだと感じられた。
「じゃあ私、頑張ってできるだけ長く現役パイロットでいなきゃ」
「大丈夫だ、ちはるはまだまだ若いから」
そう言って、こっちを見上げてくるちはるの頬をそっと指で撫でた。
「さてと。そろそろ部屋に戻るか?」
「もう、おねむさんなの?」
そうたずねてくるちはるの顔は、心なしか艶っぽいものが含まれている。これだけ長く夫婦生活を続けていれば、俺の考えなんてお見通しだよな?
「まさか。明日は休暇なんだ、少なくともいつもよりゆっくり寝ていられるだろ? 久し振りに夜更かしだ」
ニヤリと笑ってみせると、ちはるは可笑しそうに笑った。
「おい、そこの二人、明日は休暇だからってあまりハメを外して騒ぎまくるなよ。他の寂しい男連中にやっかまれるから、ほどほどにな」
そう二人に申し渡すと、ちはると部屋に戻ることにした。
+++++
長期間に及ぶ訓練の
「よお、出迎え御苦労」
「なにが御苦労だ」
後半の演習に参加するために、太平洋を横断してきたもう一機のKC-767Jと数機のイーグル。そのイーグルの後部座席から、呑気な顔をしながら降り立ったのは
「こんなところまで追いかけてくるとは、ストーカーかなにかか?」
「まさか。俺はそんなにヒマじゃないぞ」
そう言いながら笑う。
「お前みたいに、好きなことをやっているヤツがうらやましいよ。こんなふうにイーグルで遠出するのは、本当に久し振りだ」
「そっちだって、好きなことをした結果が今の司令官の椅子だろうが。文句を言うな」
「文句なんぞ言ってないだろ。だが、いまだに現場に立って好き勝手にやっているお前を見ていると、腹が立ってしかたがない。だからお前に新しい椅子を用意してやった。ありがたく思え」
「言ってることがムチャクチャだな」
「ゆっくり話せるところに案内しろよ。ここは暑くてかなわん。……ところでお前の嫁さんは?」
ニヤニヤしているところを見ると、答えは聞かなくてもわかっているというやつだ。
「うちの機長はただいま休暇中だ。俺と違って、ここしばらくずっと演習で飛びっぱなしだからな」
「そうか。てっきり久し振りの夫婦水入らずで、抱き潰したのかと思ったよ」
「わかってるなら言うな」
ゲラゲラと笑う八重樫を引きずるようにして、演習中に俺達が間借りして使うことになった基地内の建物に入る。そしてエアコンのきいた会議室に落ち着いた。
「それで? わざわざお前が太平洋を越えて飛んできたってことは、それ相応の用事があるってことなんだよな? 演習の視察か? まさか、俺達夫婦をからかいにきただけじゃあるまい?」
俺の問い掛けに、八重樫は悪代官のような笑みを浮かべた。
「飛行教導群司令の座が来年の二月で空席になる。そこへお前を招待してやるぞ」
「は?!」
今なんと言った? 飛行教導群と言ったか?!
「なんだって?」
「飛行教導群だよ、聞き取れたくせにとぼけるな。
「まて。俺はここ二十年、整備員としてやってきたんだぞ。
「もちろんあいつらにも声をかけたさ。連中にも、それぞれ見合った場所に落ち着いてもらう」
そこでも一悶着あったのだろう、底意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「たしか葛城はヘルニアの手術をすることになって、入院中だったはずだよな?」
「ああ。お蔭で逃げられずにすんだ。さっさと退院して、給料分しっかり働けと言い渡してやったから安心しろ」
「まったくお前ってヤツは」
「四の五の言わずに、アグレッサーとして蓄積した知識を役に立てろ。あの世にその知識は持っていけないんだからな」
「そんなこと言ってもだな」
八重樫の合図で、給油機のほうに乗っていた副官達が、分厚いファイルを何冊も持ってやってきた。そして俺の前にどんどん山積みにしていく。このご時世に、紙ベースの資料をアメリカくんだりまで持ってくるとは一体なにごとだ。
「……おい」
「お前が呑気に機械いじりをしていた間に起きた諸々の事象だ。さっさと目を通せ。そしてこっちにいる間に、
「おいおい、本気か?」
「当たり前だ。相棒の俺がこうやって苦労しているんだ。お前も一緒に苦労しろ」
「F-35の整備員育成を途中で放り出せと言っているのが、わかってるのか?」
八重樫はこっちの言い分にフンと軽く鼻で笑った。
「そんな
「やれやれまったく……」
どうやら拒否権はないようだ。まさか退役を数年後にひかえて、イーグルドライバーの道に歩むきっかけとなった小松基地に戻ることになろうとは。
だが、まあ悪くはない。
「ちはるに話してもかまわないんだよな?」
「お前が来る気があるならな」
「拒否権は無いんだろ?」
「無いな」
「だったら決まりだ。またよろしく頼むぞ、相棒」
八重樫と俺はガッチリと握手を交わした、
+++
「というわけで、来年から小松に行くことになりそうだ。どう思う?」
ようやく起きだしてきたちはるに、そう伝えた。
「雄介さんが行きたいと思ってるんだったら、行くべきだと思う。今は昔と違って、空も騒がしくなってきたものね。経験と知識を必要とされているんでしょ?」
「今よりもずっと忙しくなるから、今までのように岐阜に付き合うのは難しくなるかもな」
「私はかまわないの。私があそこで飛ぶのは、雄介さんのためだから」
「可愛いことを言ってくれるじゃないか」
思わず抱き締めようと身を屈めたら、押し戻された。
「?」
「やっと起きられる気分になったんだから、ベッドに逆戻りはイヤよ。お腹が空いたからなにか食べたい。できたら鮭茶漬け」
「ここにあるのはアメリカ人が食べるような物ばかりだから、そすがにそれは無理だろうな」
ちはるは、俺の言葉に悲しそうな顔をした。
「海外派遣だと、自前の食事を用意していくからそれほど和食が恋しくなることはないんだけど、ここはダメね。そろそろお肉は飽きちゃった」
「あと少しの辛抱だ、あるもので我慢しろ、機長」
「持ってきてくれる?」
「ベッドで遅いランチとはまた
「ありがとう。もう一つ贅沢を聞いてくれるなら、紅茶はつけてほしいな。甘くないやつ」
「了解だ」
現場から離れるのは寂しいことだが、そのお蔭で長く続いた遠距離結婚生活の距離が縮まり、家族が頻繁に顔を合わせることができるようになるのだから、八重樫には感謝しなくてはならないのだろう。
この時はまさか、転勤先で葛城のチビや風間達までが、わらわらと集まってくるとは思ってもみなかった。そして子供達世代でもあれこれと起きるわけだが、まあそれはまた別の話だ。
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