机上の正論
無事に生還した者は酒場で盛り上がっている時間。
命からがら逃げてきた者もいる。
部隊全員が疲労困憊で生還するところもある。
一人きりで魔族の軍勢を止めているであろうあの混族も、必ず戻るはず。
エノーラは彼に、自分の待遇をどう思っているのか問い質そうと、ライザラールの外壁の内側で待っていた。
もちろん彼女には、彼が生還する確信は持っていない。
無事に生還してきた者達は奇異の目で彼女を横目で見て本部に入る。
鎧には傷がほとんどなく容姿には乱れがない。そして姿勢正しく入り口で待っている彼女に、手続きを終えて本部から出てきたそんな者達は、これから行く夕食の誘いをかける。
入り口から外を眺めている彼女は彼の姿を見逃すまいと、外の様子を見張っている。
それを邪魔する形になる生還者たちを「断る!」とぴしゃり。
エノーラが所属していた部隊は、ギュールス以外全員帰還。その事実とは違う、全員帰還という報告が隊員全員の意見の一致の下で提出された。その報告を本部が受理され、その時点でこの部隊は解散された。
それまでは丁寧語を使っていたエノーラの口調も元に戻る。
中には執拗に誘う者達もいる。彼女は無言で武器を手に取る。
エノーラを誘おうとする者達は、その時点で全員が諦め、彼女から立ち去る。
ギュールスの体の色は夜の闇に溶け込みやすい。
恐らく冒険者に言い寄られたタイミングで外から帰還してきたのだろう。
エノーラは待ちくたびれてため息をついてふと後ろを見る。
本部から出て行くギュールスを見かけた。
「そこの者! ちょっと待て!」
声をかけて慌てて追いかける。
しかしギュールスは止まることも逃げることもなく、ただ歩き続けている。
「そこの! ……『混族』!」
エノーラは彼の名前を覚えてはいなかった。
誰もが彼の名前を呼ぶことはなかった。
自己紹介の時は名前を必ず言うのだが、誰一人として彼の名前を呼ぶ者はいない。
彼女に言い訳をさせたら、きっとそのように答えただろう。
彼女の声に真っ先に反応したのは周囲の通行人である冒険者達と言う皮肉。
ギュールスは聞こえないのか歩き続けていたが、その通行人たちに取り押さえられた。
「ち、ちょっと待て。私はその者に用事があるだけだ。何か被害を受けたわけではない!」
エノーラは取り押さえた者達に弁解する。しかし通行人たちの数人は、ギュールスを庇っているのではないかと疑う。
彼女の説得により何とかギュールスは解放されたものの、エノーラに再度何か悪さをするのではないかと警戒する者も数人いて、なかなかその場から離れない。
「……俺には何の用事もない。俺の方が逆に謂れのない被害を受けたわけだが。声をかけられる理由もない。いい加減解放してくれ」
「お、お前はあんな扱いされて黙っているのか? 抗議する気もないのか?」
ようやく通行人たちはその場から離れ、ようやく会話ができると思ったエノーラだが、先に口を開いたのはギュールス。
隊は解散したというのに、またこの変な女につかまってしまった。
またその話かとうんざりした顔になっている。
「無事に生還出来りゃそれでいい」
「功績手当をあの者達は受け取っていたぞ。お前が受けるはずの分もだ!」
「俺が受け取れるのは登録手当だけ。功績手当ってのもあるのも知ってる。だがその条件も知るつもりもないし、受け取り方も知るつもりもない」
「お前は、同族の者と会ったとき、自分のことが恥ずかしいと思うことはないのか!」
「……同族の者がいるとは思えん。もし出会うことがあったら……お互い刺し違えるかもな。こんな生き地獄から互いに解放されたいと思ってるだろうし」
エノーラは言葉に詰まる。
「あんたみたいな容姿端麗な者は、一般人から人気があるんだろうな。俺とは縁のない世界、種族だ。お前らと一緒に物事を考えるな。俺は現状維持で十分なんだよ」
「……十分満足、とは言わないんだな」
「満足、とはどういうことを指す? 満足の意味自体知らん。知らないままでも生活は出来る。この戦乱で魔族を打ち破って勝利に終わった後は、あんたは俺に構おうとする気持ちは消えるだろうよ。こんな事態だから俺に関心を持つこともあるんだ。そんなとってつけたような関心を持たれても、こっちはいい迷惑だ」
ギュールスはそう言ってエノーラの下から立ち去る。そして彼はまたいつもの通りの行動をとり、彼にとってのいつもの日常が戻って来る。
彼に何も言い返せず、討伐時同様彼の後姿を見届けることしかできないエノーラであった。
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