第34話 噂
金曜日の朝がやってきた。
今日は学校を休むので、ゆっくりと起きた。
昨日の手術の痛みは、下腹部の奥に鈍痛が僅かに残っているだけで、病院で貰った痛み止めを飲むまでもなかった。
しかし、夕飯に食べた焼肉が最悪だった。
と言っても、肉質や味に問題があった訳ではない…と言うか焼肉自体は最高だった、しかし、焼肉屋さんが無煙ロースターじゃなかったので、体中が焼肉臭くなってしまった。
こんな時に限って、お風呂に入れないなんて…20枚入の洗顔シートを2パック使って体を拭き、やっと匂いが消えた。
幸い、髪の毛はウィッグを被っていたので、被害が少なかったが、焼肉臭いウィッグは、どうしようもなかった。
ウィッグ専用のでシャンプーで洗ったが匂いが消えるだろうか…。
父の好意は嬉しかったが、今度からは匂いのしないお店にして貰いたい。
僕は女子が焼肉デートを嫌がる理由が分かった…。
好きな男子とのデートなら、可愛い洋服を着て行きたい筈で、その洋服が焼肉臭で汚染されるのは辛い事だ。
女子が一緒に焼肉に行ける男子は、既に隠す所がなくなった男子か、全く恋愛対象ではない男子かのどちらかだろう。
リビングに行くと母が洗い物をしていた。
「何か手伝おうか?」
「いいわよ、ゆっくり休んでいれば」
「体なら大丈夫だよ…それに、女として生きていくなら家事も出来ないとね」
「そお…じゃあ、洗濯物を干してくれる」
「うん!分かった!」
こんなにゆったりと過ごすのは久しぶりだ。
僕は洗濯物を干しながら、ゆったりと流れる時間を満喫していた。
ここ一年くらいは、体の女性化を隠す為に精神的な余裕がなかったし、高校受験や今回の騒動でバタバタしていた。
母とゆっくりと話をするのも久しぶりだ…と言うか、初めてかもしれない。
僕は、良い息子ではなかった…これからは、良い娘として母と接しよう。
僕は母とお喋りをしながら家事の手伝いをした。
しかし、女性との会話は難しい…と言うか、退屈で面白くない…やはり、僕の心は男なのかもしれない…。
僕が母との会話を避けていたのは、これが原因だ。
きっと、女性は「結論」を求めて会話をしている訳ではなく「同意」を求めているのだろう…僕とは思考回路が根本的に違う…。
僕は女として生活出来るのだろうか…?
そして、夕方になると母と一緒に買い物に出掛ける事になった。
洗ったウィッグは乾いてる…焼肉の匂いも消えてる…専用のオイルスプレーをかけてブラッシングをすると…良かった!元に戻った、これで外に行ける。
理絵の勧めで、ウィッグ用のシャンプーとかオイルスプレーを買っておいて良かった。
僕と母が外に出ると近所のおばさんが話しかけてきた。
「あら、柏木さん!お久しぶり!」
立ち話が始まった。
よく喋る人だ…僕の事が気になるようだ。
「まあ!よしのり君なの!信じられない!」
「ご無沙汰してます」
「まあ!本当にニューハーフになったのね!」
やっぱり、近所でもそんな感じの噂が広がっているのか…きっと、母は辛い目に合っているんだろうな…。
息子がニューハーフになったなんて、狭い町内では超ド級のゴシップだからね。
「ごめんね…迷惑掛けてるよね…」
近所のおばさんと別れて二人きりになると僕は母に謝った。
「何言ってるの?全然迷惑じゃないわよ!」
母は、ご近所さんから嫌味を言われていたが明るく振舞っていた。
流石だ、40年近く女をやってると、女の嫌味には動じないようだ…僕が思っているよりも母は強いのかもしれない。
そして、スーパーの近くまでやって来ると。今後は女子高生が母に喋りかけてきた。
「こんにちは!」
西高の制服だ…小中と同じ学校だった中田さんと仲川さんだ…制服が似合っていて、中学の頃より可愛くなってる…。
仲川さんは母と顔見知りなんだ…どこで知り合ったのだろう…親同士の関係かな…。
「こんにちは、学校の帰り?」
母は当たり前の事を仲川さんに話し掛けていた。
実に女性的だ。
この時間帯に自宅の近くを制服で歩いていたら、100パーセントの確率で学校帰りだ…聞くまでもない…。
「はい!柏木君はお元気ですか?」
えっ、僕に気づいていないんだ…町内が変われば噂は拡散しなのか…そうか、情報拡散の手段が立ち話だから、影響範囲が極端に狭いんだ。
「元気だよ、久しぶりだね」
「……えっ…ええー!!!柏木君!?」
僕が話かけると、中田さんと仲川さんは、手で口を覆った姿勢で固まってしまった。
「えっ!えっ!えっ!ど、どういう事?…本物?」
僕の偽物なんている筈がない。
「驚いた?実は病気でこんな感じになったんだ」
「えー!凄い美人!」
何だそれ?それにしても、道の真ん中で騒がれると目立つな…。
「こんな所じゃ、ゆっくり話せないから…時間ある?」
僕はドーナツ屋さんを指差しながらそう言うと、女子たちは大きく頷きながら嬉しそうにしていた。
「じゃあ、お母さんは、お買い物をしてるから、ゆっくりお話をしてくれば」
母は、そう言い残してスーパーの中に入って行った。
僕は女子たちとドーナツ屋さんで話をする事にした。
お店に入っても女子たちの興奮は収まる事はなく、僕と一緒に写真を撮って喜んでいた。
距離が近い…僕の体に躊躇なく密着してくる…彼女たちとは、そんなに親しい間柄ではないのに…。
暫くして、彼女たちの興奮が収まったので、僕はこうなった経緯を詳しく説明した。
間違った情報が少ない方がいい…なるべく、母を傷つけたくない。
すると、同級生の女子たちは、中学の頃から僕の体が女性化していた事に気づいていたようで、彼女たちが驚いていたのは、僕が想像以上に女らしく綺麗になっていた事だと分かった。
流石だ、男子とは違う…中田さんも仲川さんも中3の時は僕と違うクラスだったのに、僕の胸が膨らんでいた事や、僕が誰と付き合っていたのかを正確に知っていた。
彼女たちは、僕の話を真剣に聞いてくれて、病気で僕の体が女性化した事を理解してくれた。
すると、中学の同級生の松原さんと中谷さんが、ドーナツ屋さんにやって来た。
偶然?…そんな事はないか…。
松原さんと中谷さんは僕たちを見つけると、ハイテンションで話しかけて来た。
どうやら、さっき撮った写真と一緒に僕の事がSNSで拡散されたようだ…。
ご近所さんの立ち話と女子高生のSNSとでは情報の拡散力が桁違いで、あっという間に15人の女子高生が集合していた。
ちょっとした同窓会だ。
「え~!勿体無い!私、柏木君の事が好きだったのに!」
「私も!」
僕が恋愛対象でなくなった事を知った女子たちは気軽に告白し始めた。
何人かの女子は、僕に好意を持っていた事を知っていたが、自分がここまでモテていた事は知らなかった。
そうしている間にも、続々と同級生の女子たちが集まって来た。
ダメだ…全員に僕の事情を説明するのは無理だ…。
すると、買い物を終えた母がやって来たので、僕は間違った噂が拡散しない事を諦めて、家に帰る事にした。
「ごめんね!今日は皆に会えて嬉しかった!また遊んでね!」
僕は捨て台詞を残してドーナツ屋さんを後にした。
他人に正しい情報を伝える事は難しい…と言うか、僕自身が自分の事をまだ分かっていない。
僕の心は本当に女なの?本当に女になりたいの?男を好きになれるの?
分からない…。
自分が分からない事を他人に伝えられる訳がない…。
僕の体は女性化していたが、心の性別は変わっていない…多分、男のままだ。
僕は、男の体である事に違和感がある性同一性障害だと診断された…しかし、実際は女性の体になる事に違和感がある性同一性障害なのかも知れない。
僕は昨日見せられた黒人女性の写真が気になっていた。
普通の女性が、男性ホルモンを摂取して、クリトリスが男性のペニスのように肥大化した写真だ。
僕は男性ホルモンによる治療を受けても、本物の男にはなれないと思っていた。
汚いオカマになるだけだと思っていた。
しかし、普通の女性でさえ男性ホルモンを投与されると体がかなり男性化していた…元々、男だった僕なら普通の男になれたかも知れない…。
でも、一日遅かった…。
僕にはもう精巣がない状態だ。
見た目が女らしかった事で、僕は安易に性別を選んでしまった…。
いや、お医者さんが僕の心の性別が女だと言うなら間違いないのだろう…。
僕の本当の恋愛対象は男性だけど、まだ好きな男性に巡り合っていないだけかも知れない。
考えて見れば、僕は女子に告白した経験がない。
今まで付き合ってきた女子は、全て相手からの告白だ。
僕の恋愛対象は女性ではない可能性もある…。
僕は付き合った女の子の事が好きだった、でも、男も友達として好きな奴もいた。
それに、男子から女として見られる事は心から嬉しいと思う。
やっぱり、自分が分からない…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます