書評 『漢字と日本語』高島俊男著

オカヨシ・ハラシゲ

第1話 私なりのアプローチ

本書を読むにあたってある程度の中国語の知識または好奇心が必要となっているから、そうでない方には読みづらい本かもしれない(そういう人はまず本書を手に取らないか)。ある程度どのような読者を想定して書かれたものかは想像できる。白話文が読めなくても、漢文の知識がある程度あれば(高校生の時に習ったはず)読み進めることができると思います。本書の著者は言葉そのものへの好奇心が強く、言葉を道具としてのみ使う人たち(それが悪いとは思わないけど)とはまた違うタイプの人だなぁと(寧ろ自分に近いかも)。言葉それ自体を掴んだと思った瞬間、手のひらから溢れてしまう、そういう言葉の多義性、言葉を「もの」ではなく「生物」と捉える彼の姿勢は学ぶに値するものだと思う。言語の興味深い事実を紹介するときも決してそれをひけらかすこともなく僕たちに教えてくれる。またその彼自身が言語などを学ぶ姿勢が本書を読んでいる際垣間見えた。彼の言語に対するリスペクトはもちろん、彼が本書で紹介している内容も良い。いろいろと学ぶことがあった。幾つか紹介しましょうか。

とりあえず高島さんがほかの書物から引用した一節をここに載せておきます。「ことばの意味を記述する上で一番難しいのは、誰もがよく使い、そのためにあらためて意味など考えたこともないような、やさしい、基本的な語です。「ある」「いる」「もの」「こと」あるいは「取る」など、こうしたことばは他のことばの解説中には必ず出てくるものですが、これらを見出しとして、その意味を分かりやすく書くことが可能でしょうか。どうぞ、「ある」ということばを「ある」を使わずにやさしく書くという作業を想像してみてください。」(本文p62 「やさしいことばはむずかしい」より引用)

はい、もっともなことをおっしゃられていますね(上からものを言ってしまった)。この一節を読んでいる際、以前読んだ「ムカデの話」を思い出した(「ムカデの話」と題された脚ものかどうかは分からない、すいません)。以下の文章は僕が以前読んだ「ムカデの話」の大まかな流れを紹介するので、それを頼りに原典にあたってみてください。

ある男がムカデに問うた、「君はどのようにして百もある脚(実際にあるかは分からん)で歩いているんだい?」と。ムカデはその問いを前にして歩けなくなったらしい。ムカデは今まで自分がどのようにして歩いていたのかを意識せず、意識しないことで初めて歩けるようになる、らしい。これは我々にも当てはまる話だと思う。もし、我々が我々の使うことばの意味をいちいち定義しなければならない、そういう状況に面したとき我々は我々が今まで当たり前のようにしてきたことのほとんどができなくなるんじゃないかな。僕はそう思います。僕たちが有している便利なものの多くはその構造に疑問を感じたり、その意味を問わないことで初めてその効果が発揮されるんじゃないかな。でも僕個人の考えとしては、自分の使いがちな論理がどういうふうなものなのか自分に問い(答えが得られるとは限らない)たくなる。それでも自分がどうして歩けるか、なんて大真面目に考えたことはない。多分そういう類のことをいちいち考えていったら前述のムカデのようになるんじゃないのかな。

今までに読んできた文章がこう脳内の引き出しから抽出される、本書はそういう今まで僕が接してきた文章との関連性の高い本でした。また今まで中国語を勉強してきたおかげで、本文で引用されていたものを中国語に馴染みのない人とはまた違った「深さ」で本書を楽しめたんじゃないかな。これから中国語を興味がある方、また漢字が大好きな方(僕は後者ですね)などにおすすめかと。書店などで見かけたら、ぜひ手にとってみて下さい。では。

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