魔女の微笑

@ichiuuu

第1話

【魔女の微笑】


             宮一宇


 光を連れて街に朝が来る。いかに暗闇が自らを黒く染めていても、その衣を無情にはいでいく。

煉瓦造りの家々が並ぶウィンチェストールの街に、光が染みわたっていく。光は川面を照らしては瞬かせる。深い緑とかぐわしい薔薇たちを蘇らせていく様は、神の存在を信じるに値する光景だ。

高台にあるウィンチェストール修道院にも、光が訪う。白いゴシック調の、聖人たちが彫り込まれた円柱のある玄関ホール。そこを抜けると小さいながら聖堂があり、あがった二階に簡素な一室があった。置いてあるものは白いベッドと、一輪の紅い薔薇。小さな飴色のテーブル。

そこで、シスターマリアは深い祈りを捧げていた。歳は七十になろうか。顔はさすがに華やかなりしころには劣るが、それでも五十にも見えるほどに艶やかな肌と赤い口唇を持っていた。彼女は膝まづいて、主に祈る。その口元がせわしなく動いている。さきほどからずっと同じことを呟いている。時に涙さえ流しながら。

「わたくしを、許して」


 朝の礼拝と質素な食事を済ませると、少し足の悪くなったシスターマリアはよろめきながら、庭の薔薇を見に行くのがならわしだ。格式はありながら貧しい教会は食べていくのがやっとで、マリアはそこの生活がこたえたのか最近の体調は芳しくない。

(それでも、見たい)

 それでもマリアは杖を使いながら庭に出る。ちょうど花も盛り、一面がまるで天上のかくやの薔薇の園になっていた。白くあたりを清めるような薔薇も、桃色に匂い立つ薔薇も、すべてが広がった教会の中庭に満開に咲き誇る。

(あの人が愛した薔薇を、見ていたい)

 マリアは一輪の薔薇を手にとると、その花弁にキスを落とした。何度も何度も、まるでキスをすることで許しを請うかのように。

「ふふ、そこにいるのでしょう。アドリアーナ」

そう口走って突然、マリアが振り返った。背後の植え込みからひとり、少女が顔だけ出してはにかむ。年のころは十七くらいであろうか。金髪碧眼の愛らしい乙女であった。老女マリアがふふ、と微笑む。

「ひどい人ね。私が旦那様にキスをしている最中に来るなんて。人の恋路を邪魔するなんて最低よ」

アドリアーナがごめんなさい、と舌をちらと出してみせる。それからゆったりとした調子でマリアに近づく。

「でも、これが旦那様と仰るの?」

「そうよ、私の旦那様が、大好きだった薔薇よ。私にとってはこの薔薇こそがあの人と同じなのよ」

そうして匂いをかぐように顔を近づけ、白い薔薇にキスを落としていくマリア。七十になっても口唇は朱色に色づき、それがキスを与えるたび、夫君の薔薇は血に染まっていくようであった。

「そんなにお好きな人だったの? 今はどちらに? 」

 アドリアーナが不思議な光景に思わず言葉を漏らす。マリアは微笑して言う。

「もうずっと昔に天使様に召されたの。もう二度と会えないの。だけど、それでも生きていかねばならない私に、あの人はこれを残してくれた」

それからマリアは、庭さきに咲いていた別の黄色い薔薇を摘んで、アドリアーナの愛らしい顔に近づけた。

「さしあげるわ」

「あら、旦那様の方の薔薇は頂けないのかしら」

 アドリアーナが軽口をたたくと、マリアは何度も首をひいた。

「ええ、あの人は生涯ずっと私のものよ」

 突然に強い風が走った。木々の青葉が一斉に揺れて騒ぎたつ。アドリアーナは手元の黄色い薔薇を守ろうと前で両手を重ねる。

「だもの」

そこでふと、或る言葉がマリアの唇で奏でられた。その言葉はあまりに恐ろしく、おぞましく穢れに満ちて。友でなかったらきっとアドリアーナは十字を切っていたであろう。けれど忌まれた言葉を囁くマリアの顔は、ぞっとするほどに美しかった。

「そうするために、私が殺したんだもの」

 あの記憶を脳裏によみがえらすたびに、マリアの皺の刻印が押された顔は美しく新しくなっていくようであった。十七歳だったマリアの本名は、マリア・ルデー・ド・エヴァランス。古い王族の王女として生を受け、美しく気高く、愛情の深い少女だった。困っている人を見ると助けずにはいられなかったし、その結果お礼なんて言われなくたって一日気分がいいという具合だった。腰まで波打った金髪をゆらし、口唇は色づいて薔薇より美しく、瞳は王国の面するアディ海よりすくいとったかのようだった。

父王は国の執政を怠りなく見たし、母后は優しく笑顔を絶やさない人で、幼い弟や妹たちが常に本を読んでと父母にせがむような、あたたかい家庭を一族は築いていた。マリアはこれが幸せだとわかっていたし、これが将来ずっと続くと信じていた。祈っていた。

マリアが敬愛する神を恨むようになったのは、この父母が突然殺された時よりであろう。

ある日、玉座の間に姿を見せた父王からまず殺された。家臣たちが、その容姿見る影もないほどに剣で串刺しにして殺したと聞いている。その首を槍の先にさして、庶民たちは湧いた。【神が本来我々平民に授けた政治を、我らが手中に取り戻した日】として父王の死んだ日は祝日と化した。マリアは知らなかった。自分が美味しいホット・チョコレートを食している間にも、貧しい平民が何を食べているのか。草の根を美味しそうに舐めている子が、天上の王族を敬愛するか否か。王族への忠誠より身分や名誉や金を愛する家臣が、どれほど多いことかを、まるで知らなかった。彼らは隣の帝国より密命を受けて王を殺したのだ。

続いて政治的価値の低い母后がギロチンで処刑された。マリアたち兄弟は処刑の時の歓声を、幽閉された塔の中で聞いた。

「腐った王妃の首が飛んだぞ!」

「新しい時代の眼ざめだ!」

「腐った王族どもめ、ざまあみろ」

妹が慟哭しママンと叫ぶ。いつも不愛想であった末の弟が呟くのが聞こえた。

「もうあの優しい声で本は読んでもらえないんだね。天の国では読んでもらえるのかなあ」

マリアは必死に恐怖と落涙をこらえながら、弟たちに首をふった。

「これからはわたくしが読んでさしあげるわ。大丈夫。わたくしたちはお父様たちの分まで生きねばならないのよ」

 そう、この地獄のような世界で。

  やがてマリアは政治的価値があると判断されたか、弟たちとひきはがされ、帝国側に売られた。帝国に行く馬車に無理やり押し込まれたマリアは、同乗した元家臣に騒ぎ立てた。

「やめて、わたくしをどこに連れていくの! あの子たちの世話は誰が見てくれるというの」

「もうお世話はいらないんですよ」

 家にも遊びに来たことのある家臣がひげ面で笑った。マリアは絶叫したくなる衝動を、かろうじてこらえた。しかし眼からは滂沱の涙が溢れ、鼓動が速まってとまらない。馬車の窓からは、外の新緑が境界を失い溶けていくのがわかった。かわりに出現したのは意匠をこらした黒い骨で組まれたかのような城であった。

「これからはあなたは皇帝の妻になるのです。こうなったからにはすべてを諦め、どうかたくさん子を産んで、よき妻となられますように」

 馬車が止まると、家臣だった男たちが下卑た笑いを浮かべた。

涙を流し切り、手首を爪でえぐっていたマリアは呟いた。

「どうして……? 神はどうしてこんなことをなさるの……」

神様

 わたくしは今まで人に優しくしてきたつもりです。

そのわたくしはどうしてこのような手ひどい報いを受けねばならないのですか。

 そう、何度も何度も口にだして呟いた。


「不細工な女だな」

 やがて、マリアは衣装をとかれ正装にかえられ、シュヴァエ帝国の皇宮玉座の間に通された。いまだうら若き王は、彼女を一瞥するなりこう言い切った。

「ああ、実に不細工な女だ。心根も不実そうではあるし。早く皇宮の部屋に帰せ。夫となる王を目の前に泣きじゃくる女などいらぬ」

 王は美しい錦糸かのような金の長髪をゆらし、首を振った。けれどその深い青の瞳はじろりとマリアをとらえている。マリアは本能的に悟った。この男は――悪魔なんだ。人から家族を奪い、国を奪い。自分のことも道具かのように扱って、子を産む道具としか思っていない。

 なんという屈辱か。なんという辱めか。なんという忌々しさ、呪わしさだろう!!

――こんな腐った世の中に、私はあえて反旗を翻してやる――。

そう、二人の出逢いの瞬間こそマリアが世界を憎み始めた瞬間であった。

「王が退席なされます」

 玉座の間から悪魔が退出する。マリアは片膝を落としながら、じろりと王を横目で睨んだ。殺して、やる。いつか必ず、この恨みを果たしてみせる。燃え滾るそんな思いを胸に退席する男を見やると、男は。

 脇を行く悪魔は涙を流していた。一筋二筋、この上なく切なそうな顔で、唇をかみしめて。王は泣いていた。

(なぜ、悪魔も、泣くのかしら……)

 男が泣くのを初めて見たマリアは、しばしぽかんとあっけにとられていた。それが何故の哀しみで泣くのかが、彼女にはまったく想像できなかったのである。

あれだけ不細工といえば当然だろうが、マリアの部屋に男は来なかった。けれどマリアにはこの上なく嬉しかった。それに、存外後宮側の女官たちも侍従も自分をいたわるようにしてくれるので、余計なことに気をもまずに済んだ。ただあとはあの男をどう殺すかが彼女の目下の課題であった。城に来て一週間が経ったころ、マリアは遠乗りが許された。思う存分馬を駆ったのち、疲れが出たのだろうか、その日は天蓋つきのベッドでぐっすりと眠った。はずだったが、いまだ星沈まぬ頃に、ふいにベッドサイドの物音に眼が覚めた。マリアがうすぼんやりした意識で身を起こさず眼を覚ます。

「ああ、なんと美しい……」

 すぐそばで男の声が聞こえた。あまりにびっくりしたのと恐ろしかったので、マリアは起き上がらんとしたが、一瞬みひらいた瞳に映った男の姿に、再び目をとじた。

 そこにいたのはあの残忍な皇帝だったのである。

皇帝はどうもひたすらに自分のベッドサイドに膝まずいて、自分の頬や髪を撫でているようである。マリアは【犯される……!】とあまりのおそろしさと耐えがたさに身もだえしそうだったが、男は何も手出しをしようとはしてこない。ただただひたすらに、

「世界最高峰の女だ」

とか、

「ワールドワイドな美しさだ」

とか

「人形にしてずっとポケットに大事に持っていたい」

「可愛すぎる……天使もはだしで逃げ出してしまう。あるいは女神さえも妬むだろう」

 などと自分を讃えては髪を撫でさすってくる。自分が薄眼を開けているのも気が付かぬ夢中ぶりで。

(なにやってるのかしらこの人……私は三歳児愛玩用のおもちゃじゃないのよ……)

 自分で思いついた突っ込みに、思わずくすと微笑むマリア。これに皇帝ははっとした顔をして、急いて立ち上がってどこかへ消えた。

ほうっとして、窓から射し込む月光を浴びてマリアが半身を起こす。ベッドサイドには一輪の白い薔薇が落ちていた。

 「実は皇后さまは陛下の初恋の方なのですよ」

 翌日、庭に出てお茶を饗されたマリアは、深紅のベルベッドのドレスを纏い、よい香りの紅茶と春風に少し気分が安らいでいた。けれど饗した本人の王はちっとも来ず、かわりに側近の隻眼騎士ウィルがあらわれた。黒髪が長く伸びた、金の瞳をした女受けのよさそうな色男である。

 そうしてウィルにおそるおそる昨夜の話をしたらこれである。

「え、何ですって。わたくしが初恋の人?」

 マリアが顔をしかめると、ウィルがたまらず笑い出す。

「そんな顔をなさらないであげてください。王が死んでしまいます」

「死ぬって、あの男は悪魔よ。殺したって死ぬ訳ないじゃない」

「ではためしに殺してみてください。あの男はあなた恋しさにすぐさま蘇るでしょうよ」

 ウィルが黒いお仕着せを纏った侍女にウィンクすると、侍女が顔を真っ赤にして紅茶の新しいのを持ってきた。ウィルがテーブルについて紅茶を喫す。

「皇后さまは王の初恋の人で、まだ若かりし頃に一度お目にかかった時以来ずっと虜と言っておりました。優しくてあたたかくて清らかで、ワールドワイドな美しさだとか、小さいお人形にしていつも持ち歩きたいとか」

「天使もはだしで逃げるとかも言っていたでしょう?」

 マリアが吐き捨てるように言うと、ウィルがまた腹をおさえた。

「おっかけることその歴史二十年。王族にマリア様のファンは多けれど、俺は負けない、俺は筋金入りなんだと自負していました」

「はっきり言って吐き気しか催さないわね。人のことを不細工なんて言って泣かせて」

「あの人とて泣いていたでしょう。わざと嫌われる風に装っているんです。憎む相手がいた方があの女も気が楽だろうから、なんて言ってね。あの女性は家族を失いながら、なんて高潔な人柄なのだろうと感心して泣いたそうですよ。あなたの命とて、殺すべきと訴える御母上の訴えを退けて救ったのですから。あの圧倒的権力を誇る御母上から」

 そう、だったのか……マリアはしばし沈思したが、やはりあの男のことは嫌いだし気色悪いし憎いとしか思えなかった。


 けれど、連日のように皇帝がベッドサイドに訪れるので、少しずつは慣れたらしい。マリアは自然、ずっと眼を閉じているようになった。どうせまた

「これは東洋でいうところの天女様なのだなあ」

 とかほざいてはバラを一輪置いていくだけの男だ。自分に一ミリも触れてもこないし。他の女にもそうなのかしら。そう感じてはなんとなく面白くないような気分になる自分が、ただ怖かった。

 ある夕、晩餐をとり部屋に戻ると、見たこともないほどに洒落た衣装箪笥が置かれていた。飴色の表面がつやりと光り、蔦と薔薇の装飾が施されている。

「これは……」

 マリアが自分の身の丈を超える箪笥に驚いていると、やがて王が姿を現した。

「今日も美しい俺の天女様! じゃない間違えた。マリア、お前にそれをやる」

 王は頬を少し染めて、それから口迅に言ってみせた。

「べ、別にお前のために買ったんじゃない! 他の女に買ったのが余ったから……」

「箪笥の下部に愛する美しいマリアへ、と彫り込まれてございますが、その愛人の名前もマリアさんとおっしゃるのね」

「うぐ……」

 王は思わず顔を赤らめて口ごもってしまう。

「気にいらなかったなら、いいんだ……持って帰るから」

「そしてご自分の部屋に置いて、触ったり愛でたりして泣くんですのね」

 マリアが思わずからかってみせると、王はついにしょんぼりし始めた。

「……すまなかった」

 王が肩を落として、苦渋の表情になる。

「ただ、若い頃の君にすごく助けてもらったから。恩返し出来たらと」

 それからこちらをじいと見て泣き出しそうな顔で言った。

「どんなに言い訳をしても、君の家族を殺したのは俺だ。俺を憎んでいるか……」

 ええ、それはそれは。そう吐き捨ててやりたかった。だけれど、マリアはやめた。

「そんな訳はないわ」

 そうしてマリアは、自分に膝まづく男の首に腕を回した。


どんなに悔いても、謝罪しても、絶対にこの思いは揺るがない。


 殺してやる。


いつかわたくしが、この手で。


「愛しているわよ」

 くすっと悪戯っぽく微笑んで彼女は言った。そう、まるで悪魔のように。

 二人は長く愛し合った。夢のようだとベッドの中で王は言った。何度も、何度も。それは苦痛でしかなかったが、自分を抱いては涙を流す男に、マリアは少し驚いたのを覚えている。

「君は幼き日に、舞踏会でマナーを知らず新興国の王子め、と笑われた俺を慰めてくれたんだよ」

「……」

 マリアはそれに微笑で報いた。せせら笑うようにとられぬよう、けれどこころなど微塵もこめず。

「あの日から君はずっと俺の女神様だった」

そうして愛おしそうに頬をなぜる王。マリアはなぜか泣いていた。その涙が何故だか、自分も知らなかった。

 

 それから。ふたりは長くはためには円満な関係を築いていた。王は執務が終わると、ウィルと女神の部屋をおとなうのが恒例になった。

「遠乗りに行くんだけど」

「あら、行ってらっしゃい」

「おみやげは何がいいんだ」

マリアが吐き捨てるように、愚弄の笑みをかもして言う。

「あなたの悲報かしらね」

 王がまた泣きそうになったので、ウィルが冗談ですよたぶんと慰めた。そういう様はおさなごのようで、マリアもいつまでも固い顔は出来ない。

「……うそよ」

 少し、顔を背けてマリアが呟く。

「薔薇を一輪摘んできてくれたら」

「薔薇? 」

マリアは目を細めて、王を一瞥する。

「ええ、わたくしに一等似合うものを摘んできてちょうだい」

 これに王は瞬く間に笑顔になった。

「任せてくれ! 俺は君に一番似合う薔薇を探してみせるよ!」 

 そしてウィルを連れて、意気揚々と部屋を去っていく王。マリアは心底、あの男は馬鹿だと思った。


 このように、二人の仲は円満だった。

けれど、子が出来なかった。母后は言った。あの女に咎があって出来ぬのだ。だから言ったでしょう。呪われた女の嫁などもらうべきではないのだと。その話は無論マリアの耳にも届いた。マリアは消沈する日が続いた。それに引きずられるように、王も多量に酒もあおるようになった。互いに落ち込み切る日が格段に増えた。王の様子が変だとウィルが言った。ぼうっとして落ち込む日が多い、どうか王を見舞ってやってくれと。だけれどマリアは行かなかった。自死するならして欲しい、苦しんで死んでほしい。願わくば、わたくしの眼の届かないところで。願いがかなうなら、出会う前に、死んでほしかった。

 その逡巡に自分の惑いがあることに、マリアとて気が付いていた。



 ある日、王がマリアの部屋を夜更けに訪れた。二人の離婚が決まり、王が新しい妻を迎えるその前々日に。

「マリア」

 王は寝込むマリアのそばに寄って、そっとその頬を撫でた。閉じきられたマリアの眼からは滴があふれた。ゆるやかに、瞳ひらかれる。王が寂しそうに微笑んだ。

「お別れに来たんだ」

「あら、新婚の準備で忙しいでしょうに。お気遣いは結構よ」

 マリアの憎まれ口に、王が首を振った。

「俺は新しい妻を娶る気はないんだ」

いつも、母の道具にされてきた。

もうそろそろ、そんな人生もいいかと思っている。自分と愛する人のために生きたかったが、それもかなわなかった。

「実はもう、飲んじゃったんだ。あと二時間で俺はこの世の人間じゃなくなる」

 さすがにマリアも顔色をなくした。

「何を考えているの。あなたが死んだらこの国は」

「おそらく滅ぶだろう。だけど、愛にはかえられない」

 愛? マリアが苦し気に顔を歪ませて尋ねた。王が静かに微笑する。

「君が俺を許していないのはわかっている。君にはたくさんの苦しみを与えてしまった。

いや、俺は幸せをもらったのに、君には俺は苦しみしか与えなていないかもしれない。だから君には、この俺の死をもって俺を許して欲しいんだ。俺は人形じゃないし、生きたこころを持った人間だ。この毒で俺は苦しんで死ぬだろう。そういう薬を飲んだからね。君の苦しみがそのことでやわらぐとは思えないが、それが君への報いになると思う」

 長いあいだ、ありがとう。

 そこで王は一輪の薔薇をさしだした。毒がまわってさして遠くには行けなかったから、一輪だけ、と。

「馬鹿ね……あなた」

 マリアは呟いた。凍てついた月のような顔の険しさで。

「馬鹿よ、馬鹿よ馬鹿よ! 早く死んで頂戴。お願いだから早く死んで。もう、顔も見たくない」

 見ていられない――。マリアはふと、そこで気が付いた。昼間に、この部屋に果物を切るようにと称してウィルがナイフを置いていってくれたことを――。



 愛しいマリアへ


 君を愛していた。君だけを愛していた。君なら俺のよい伴侶になってくれると思ったし、事実そうなってくれた。


 幸せになって欲しい。

それだけを願っている。

  

長いあいだ、ありがとう。


 国王殺しの罪に問われたマリアは、尼とならされ、長く幽閉され、貧しい教会で余生を送ることを許された。

 今も、マリアは王の手紙を大切に持っている。王の最後の愛の手紙を。


「まあ、素敵なお話ね」

 まだ、マリアの話を作り話と思っているアドリアーナは、紅茶を飲みながら笑った。飴色のテーブルを囲んで、ふたりで談笑する。

「まあ、作り話だとおっしゃるの」

「だって、とても信じられない。王様を苦しみから救うために自ら殺すなんて。愛しい人を愛のために殺したとしたら、そのために罪びとになったとしたら、マリア様はある意味本当の聖母だわ」

 そりゃあ、いつかはアドリアーナだって聞いたことがある。マリア様は罪びとだから、関わってはならない、と母からも言われたりして。だけれど信じられない。マリアがにっこりとする。

「ねえ、アドリアーナ。あなたの次のデートはいつなの」

「え……! 今度の、安息日よ」

 アドリアーナが照れて微笑む。いつか王の前でも自分はそんな顔をしていただろう。そう思うとマリアはアドリアーナが愛らしくてならないのだった。

「その日は一日遊んでらっしゃいね」

「でも、夕方にはここにまた来ますわ。マリア様にお話を聞いて頂かなきゃ」

「……その日はやることがあって。ごめんなさいね」

 珍しい。マリア様が自分の願いを断るなんて。アドリアーナは不思議に思ったが、さして気に留めなかった。

 マリアは帰るアドリアーナに手を振った後、ひとり書斎に入った。

 可愛いアドリアーナへ


 この手紙をあなたが読んでいる時には、わたくしは既にこの世のものではないでしょう。お医者様が言うの。今年の秋にわたくしはダメになるでしょうって。だからわたくし、その前であの薬で死ぬの。あの人と同じ薬でね。それがあの人への愛の報いになると思うから。可愛いあなたのお話をこれからは聞いてさしあげられないのだけが残念だわ。あなたとは次の世でお会いしましょうね。

 長いあいだ、ありがとう。


                  了

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