第7話 袴と大正浪漫、俺の好きなこと、目的。

 

 俺は最近になって、いろいろ書いてみて、得たことがあります。

実は、書く内容に注意が必要ということです。理由は、書いた内容と現実が連動しすぎるから。


 客観的な現実世界が、俺というフィルターを通すことによって、俺の色がつくわけですが、I先生から指摘があった通り、俺の場合、かなり他の人と客観的現実世界の認識具合がかけ離れるらしいです。それはそれで面白いが、と何度も言われましたが、確かにエロ・グロ・ナンセンス・軍隊賛美は成功からかけ離れるからダメだ、と先生がおっしゃる通り。俺もそれを知ってて、これまで封印してきたのですが、それを破ったのは、理由がありました。


 俺は、建前やきれいごとだけで存在する、そういう「弱い理想世界」に飽き飽きしていました。いくら自分の世界が綺麗であっても、目の前には住む家さえまともにないような路上生活者が「金を恵んでくれ」と、半ば強制するように迫ってくるような現実。そういう中にいると、綺麗事なんて本当に意味がない。そんな綺麗な世界は現実に目を背けてる嘘っぽい世界だ、と感じるようになりました。自分が追っていた世界が、綺麗ではあっても、現実に役立たないことに失望しました。役立たないことはないのですが、俺が助けることができるのは、必要最低、生きるのに必要不可欠な生活条件だけは、すでに満たされているような余裕のある人たちだけです。


 それで今があるわけですが、ここで本題です。


 俺は、袴、女給、大正ロマンが好き。今回書こうと選んだキーワードは、たまたま、以前のフォロワーさんの書いた世界が、俺にぴったりで、大好きだと感じたので、キーワードにしました。俺が滅多につけない三つ星をつけたから、レビューから飛んでみてください。短編ですぐ読める。フロリダ生まれ浅草育ちの濱野さんという人の作品。


 俺が俺の好きな世界について書くと、読者の人から反応がいいんです。当たり前かもしれない。俺、結構好きなもの、少ないんですよ。いざ書こうと思って驚いた。その中で、心が躍る、わくわくすると感じるキーワードを選びました。


 しかも俺は、今回、阿瀬みちさんの指摘で気付いたのですが、自分の好きなことを書いている時、確かに自然です。俺ね、舐められないように、と気を張ってて、それが不自然さに繋がるのかもしれない。俺は地の俺を見せちゃうと、すっごく舐められる。弱い、かわいい、とか思われて。悔しいんですが、実際に精神的に弱いのかもしれない。だからかなりキツイこと言って、突っ張ってないと、うっかり本当のこと言ったら、かわいいwwwとか言われ、ムカっと来るんで。


 Bにはバレていて、散々イジメられる。もうBには仕方ないんですが、最近、嫌気がさしてきて、俺のこと、誰も知らない所に行って、リセットしたいと考え始め、それも悩みになってます。もうちょっとしっかりしてれば、そんなこと言われないんだろうけど、なかなか難しい。あんまり怒ったり、突っ張ったりすると疲れるんで、側にいる人には、つい弱みを見せてしまう。それが悪いのか、人間関係が難しくなる。俺が甘えているんだろうけど、本当の俺というのは、やっぱどこか無責任で頼りないのだ、と。それで、必死で頑張って責任を果たそうとするわけなんですが、どこか途中でポッキリ折れたりすることを繰り返してしまう。


 俺、これでいて案外、責任感が強いので、全部自分でなんとか背負おうとして、ダメになることが多いです。「適度な塩梅」というのを選ぶのが下手で。責任を任せられ、必死にやっても、どこか余裕がなくて、途中で精神的にダメになることが多かった。だいたい間違ってることはできない。自分が正しいと思うことしかできないというのが、こんなに社会生活を送る上で足枷になるとは。


 杓子定規なことを言わず、まあ世の中そんなものだ、と思えればいいのに、変にこだわったりなどして、結局、逃げないといけなくなる。あまり突き詰めると、大抵はどんな場所でも「ほころび」が出てくるから、もう少し鷹揚に構えて、受容しなきゃダメなのに、小心だったりして。俺が、責任取りきれない、とか負担に思いすぎて、他の人なら難なくできることも、「俺は降りる」となってしまって。


 これまで、俺は乾いた砂漠についてばっかり書いたけど、実際の俺が好きな世界は、砂漠ばっかりじゃない。俺は、現実でも、砂漠を目指し海外に出たんですが、実際に住んでいる世界は、耽美で優美な世界と思います。


 それってなんなんか、やはり美意識なのだと思います。純粋にそういうものが好きなんです。和風なんてと思っていたけれど、今や、俺にとって日本は外国です。


 黒髪の女が好きだし、おとなしい、控えめな、恥じらうような女性が好きだし、大正時代みたいに、元気なんだけど、モダン化が始まったばかりの自由さ、活気に溢れた感じが好きです。戦後、本当に何もなかったところから復興していく、そういうアップダウンのあった時代なんかを調べるのも好きです。昔のものは結構何でも好きで、意匠なんかもどの時代にどんなものが流行っていた、とかいうのもずっと追っているテーマです。


 大正が活気に溢れていたかどうかは知らないけど、とりあえず、西洋化の波で日本が変化したあたりの洋服や建物、デザイン、俺は大好きで、とても落ち着きます。古い建物が取り壊されるとか、すごく悲しく思う。下町の路地裏を歩いたり、温泉街など、時代が取り残されたような風景も好き。


 日本にいた頃は、よくそういう異人館的な建物なんかも探して歩きました。町屋とかも。蔵とか、農機具とかも大好きで、実用性のある古今東西の道具なんかも興味がある。


 俺自身、何年も袴を身につける武道をしてて稽古着は袴以外も持ってます。武道の精神が好き。俺は、古い日本の文化、建物、刀、道具すべてのそういうもののファンです。日本以外の古いものでも、実はファンなので、正直言って、多分モノやデザインにかなりの執着があるのだと思います。フィールドワーク的に知識や情報を集めていくのが好きです。


 なぜ急にこんな話が出たかといえば、どうせなら自分の好きな世界の話を今回は書こう、と思いたったから。俺は密かにコスプレ的なものも好きなので、そういうアイテムを集めてきて、新しい世界観を作るというようなことも、個人的にやります。「世界を作ることに興味がある」のです。


 大正時代は、ガラスなんかも特別だった。デザインが優れていて、俺はそういうものを探してよく下町の骨董屋とか市とか、市場とか出かけます。


 日本の古い田舎のアーケード街、裏通り、地元の人しか知らないような場所を探して歩くのが趣味でした。とにかく、古い町並みのファンなので、ガイドブックに載ってないような感じのマイナーな場所ばかりを勝手に練り歩くようなことを密かにずっと、やってきました。時々そういう人はいるんですが、まあこういうことって、一人ででもできることなので、連んだりしませんね。


 俺が楽しいと思うことは、そういうことが多く、まるでタイムスリップしたような錯覚に陥る場所を探し求めて、カメラを持って出かけることが多かった。


 俺が海外にそういうものを求めたのは、俺が前世の記憶を思い出したからなんですが、俺が白昼夢で見る、そういう記憶が本物なのか、その断片、証拠を探すために最初は海外に出た、というのがあります。俺は、自分が見ているものが、実在するのかどうか、調べていきたくて、未来と今とが、どんなふうに連動していくのか、ずっと実験を重ねているんです。


 その実験は不毛で、これまであまり人に話すことはなかった。そんなことして何になる、と。でも、俺が密かにずっと続けていること、俺が好きなこと、俺の本当の世界。そういうものを、死ぬ前に伝えて死ぬのは良いことだ、と俺は思い、最期の段階に近いから、こうやってウェブに遺しはじめました。


 俺の壮大な実験というのは、きっと俺が死んでも答えが出ない。本当に輪廻があるのなら、俺はこの記憶を覚えておいて、俺が書いた文章にまた、生まれ変わって出会うかもしれない。


 俺は、輪廻は今回で終わりにしよう、と、前世の記憶を思い出す前後で、本当に心から願いました。それくらい、辛いと感じていた。


 でも、今になって、繰り返して構わない、と思うようになりました。


 ものすごく辛いこともありますが、もちろんそうでないこともある。何より、生きるということは実際ドラマティックなことで、もしも全てが、自覚できているなら、ゲームみたいに、軽く終わっといて、また新たに転生すればいいや、と、おざなりになります。


 俺にはどこかそういうところがあったのですが、そろそろランクアップしたいと思うようになりました。いつまでも同じレベルというのも、と感じだした。


 俺は今回生きて、俺の良いところ、悪いところがよくわかるようになりました。何が足りないとか、生き方について、偏っているところとか。


 それを踏まえて、もうちょっと自分に誇りが持てる生き方ができるように、今回よりも次回の方が、良くなるだろう、という実感は得ました。


 今を良くしろ、と言われるかもしれませんが、俺のレベルがまだ低くて、多分レベルを上げるには、「世界というのは、実は」と心から思えないとダメだ、と感じました。


 俺は、人よりもたくさん、ある意味、悲惨な、ドラマティックな経験をしてきましたが、それも、結局は、俺が無意識化で選んでしまったこと、望んでしまったことなのではないのか、と思います。


 そういうと語弊が生まれます。


 正確にいうと、俺という意識ではなくて、一回り上の、超自我のような、俺が窺い知れないところの「俺」が望んだこと。その「俺」はこちらからは見えない、わからない。でも、生まれ変わりの際に、「どんな人生がいい?どんな設定がいい?どんな家庭がいい?どんなふうに進みたい?どんな経験をして、どんなふうに死にたい?」


 そういう全てのアンケート項目に答えた結果、今があると思います。結局のところ、俺は美しいものと共に生きて、悲しくとも綺麗な世界がみたくて、悲劇的で引き裂かれるような、手のひらで儚く壊れて消えてゆくような世界を選んだ。


 俺自身が、冒険と、悲劇と、変化と、破滅と、選んできたんだ、と。その理由、俺にはわかります。その方が美しいから。



 そうすることによって、見えるものが今回あったと思うし、俺が次に生まれ変わって生きる時は、もっと強く、大胆に、小さなことに動じないように生きたいと思います。物理的な成功を「足枷」のように感じる俺の癖は、今ものすごく難しい状況を生み出してます。


 俺の無責任さが、そういった全て、社会的に繋がりが生まれていくこと全てを忌避しようとする。それが今の結果です。


 無責任でいると、自由は確保できる。でも経済的には自由じゃなくなる。そのバランスの間で今があって、俺は「世界の真理を貫く法則」を、こうやって探している。自分の接続している世界を自分の思うままに自由に操るには、世界がどうやって成り立っているのか、世界の物事を成立せしめるが必要だと俺は思っています。


 それを分析して、自由に使えるようになれば、どんな現実でも自在に作り出せると俺は考えていて、そうなった時に、本当の意味での「魂の自由」が得られる、と。


 俺は肉体を常に「邪魔なもの」として考えてきましたが、実は必要不可欠なもの以上に、肉体にもがあり、逆手に取ることによって、むしろ自由が得られる可能性もある、と考え始めました。これは大きな進歩だったと思います。


 肉体というのは単純なものだから、使い方によって、意識をどんなところにでも持っていくことができる。これまでは、肉体は邪魔で重いものという感覚で見ていたのが、使いようによって、簡単に意識を別次元に引っ張れる可能性に気づいたところです。単純に道具として活用することに、もっと集中するべきかもしれない。


 とにかく、考えたことが現実になるのなら、考えると楽しいこと、良いこと、前向きなこと、ポジティブなことを考え、まるですでに現実になってるかのごとく、語ればいい。


 俺はそういうことがわかってて、「悲劇的な耽美な世界」という儚い苦しい美しさに心奪われがちですが、どうせ死ぬのなら、俺が気付いていることをシェアして死ぬのも悪くなかろう、と思います。実際、困ったな、解決しないだろう、と思って書き出した現実世界の問題が、あっという間に書いている間に急転直下に解決していく不思議を何度も体験しています。


 だから新たに生まれることで、いつまでも書いてないとダメということになる。キリのいいところまで書いて終わりにしようと思ったら、永遠にキリが良いところがこない。書くことによって、現実がどんどん同じように変わっていき、というのを繰り返しています。


 まあ、俺はばあちゃんから直伝の「死ぬ死ぬ詐欺」の常習犯、笑って聞き流してください。


 本当は大人にならずに死ぬのが常なんですが、今回は思いがけず、長く生きることになり、大人の責任を突きつけられているところです。


 袴については、着物よりも袴が好きなのは、不思議なんですが、着物だと嫌らしく見てしまうからかもしれません。


 着物の女性だと、脱がせたくなりますが、袴の女性だと、自転車に乗って、寺巡りでもしようや!と、ものすごく健康的な俺。


寺とかね、じーさんくさい、と思ってた時期もあったんですが、今無性に、そういう場所を見に行きたいです。神社・仏閣って、日本帰らないと絶対に行けないから。


 女給さんというのも素敵です。働けば自由が得られます。ニコニコ笑いながら、楽しく働くイメージがあり、居酒屋やカフェレストランで働く女の子とは違います。


 女給さん、と言われたら、しとやかだった女性が、軽い西洋化された洋服に半分着替えて、下町風に、いらっしゃい!っていうようなイメージが出てきます。


俺、こういう世界!こういうものが好き!と思ったので、今回、説明してみた次第です。


 ちなみに俺は、書生さんとかも好き。


 母さん、祖母とか、前の時代だと、普通にお手伝いさん、女給さん、書生さん……とあった気がします。谷崎とかの世界、結構好きです。普段の生活に着物が出てくる映画や小説、好きで、俺が以前に遊びで書いたものなんかは、どっちかっていうと、俺が好きな世界です。


 城とか、主人とかも密かに好きです。本物の城って、こっちには結構一杯あって、一般に公開されてたり、ホテルになってたり。俺はおとぎ話や伝承系の話も大好きなんですが、実際の場所で実際の言い伝えとかを拾い集めるとか、大好きなんで。


 意外とね、難しいです。いくらおじいちゃん、おばあちゃんに尋ねようとも、面白いことに、「私たちの時代ってもうそんな時代じゃないの」と言われてしまう。西洋は近代化が早すぎて、もう廃れていってしまってる。


 ものすごく年取った人は、もう頭が怪しい、外にも出てこないので、見つけるのが難しい。俺はお年寄りに話を聞くというのを、昔から個人的に好きでやっていて、時代というのをできるだけ的確に知りたいといつも思う。


 それは何のためかというと、小説を書くためとかでなくて、できる限り世界観を、正確にバッサリ幾世代も自分が生きて理解したことと、真理を近づけようというような実験に近い。


 俺が捉えていることが、全くの創作、映画のような夢物語、気のせいであるなら、せめて事実の手触りをできるだけ確認しようと思い、今があります。


 こういう人知れない試みは、系統立てた何か、学問に当てはまらないし、やったからといって、商売にしたり金にしたり名誉にできないけれど、元々の目的がそんなところにないから、俺はそれでとても満足しています。


 俺のやりたいことというのは何?と聞かれ、初めて詳細に事実を語ったら、こんな感じです。


「そんなで食っていける?趣味で生きていける身分なら、こんなに苦労しないわあ〜。いいわね〜いい身分ね〜浮世離れしてて、理解できない」


 そう言われるかもしれないですが、俺、乞食であっても、こんなことを考えながら、目の前に「恵んでください」と書いた紙を置いて、駅に座っているかもしれません。


 一体何を人生から学びたいのか、ということに寄る気がします。他の人からは理解されないけど、俺は「本当のところ」が知りたい。


 全てを貫く「本当」・「法則」・「真理」なんてない、と天国で神に言われれば、そうだったのかと思いますが、今のところ、絶対にあると感じています。


 ドアを開けたら、またドア。


 それを繰り返し、俺は最期まで進むつもりです。


 俺が死んだら、別の体でまたドア開ける。



〜All copy rights reserved Misaki 2018~

無断での転載、引用、リンクを禁じます。


 最後の二行ね、また砂漠に書きますが、カクヨムね、徘徊して気づきましたが、丸コピーしてPDF販売という可能性出てきてます。


 なんで俺の小説がこんなところにあるの?っていう人がいました。勝手にコピーし、読み物として売られてるってやつね。本人気づいてなさそうだった。俺、すぐに言ってあげたら良かったんだけど、どこだったか忘れた。


 まあ、コピーライト表示つけたって、そんなのやる人はやりますが、一応つけとく。ネットで公開する以上、必要不可欠。著作物には著作権は自動で生まれていますが、著作人格権、著作財産権を主張する、しないなど、いろいろややこしいです。著作権というのは譲渡できないが、上の二つはできる。だから、自分と契約する相手との話し合いで、条件をよく確認しないとダメです。条件によっては、

相手が著作物の改変できる、できないなど、特にウェブ・ライティングの世界じゃ、いろいろある。ブラックな場所だから、もうメチャメチャな状態ですが。優雅な紙媒体の時代とは全く違う。


 基本的に著作物の盗用については「親告罪」なので、何も言わなければそのままになります。見つけたら訴えたらいいのですが、日本の場合、訴えるの面倒ですから、泣き寝入りパターンが多い。気を付けてください。


 まあ俺の文ね、読みにくいしちゃんとした文章ではないから、そういうことは起こりにくい。


 完璧な作品、文章を目指している人は注意してください。これ、砂漠に転載します。


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