VACANT
目の前の男が、青白い顔でゆっくりとミルクティーを飲み干した。もう長いこと眠れていないのだろう。かくいう僕も、外に出たのは二週間ぶりだった。東京の片隅にある大きな洋館。こんな立派な屋敷に入ったのは初めてだ。
「エレンのことで聞きたいことがあるんだったね?」
「はい」
屋敷の主であるその男は軽く震える手でカップをソーサーに置くと、伏目がちに問うた。僕は彼から視線を離さずに答える。男の左手の薬指には指輪があった。それが僕を苦い思いにさせる。
「不躾な質問かもしれませんが、お聞きします。彼女は、なぜ死んでしまったんですか?」
「……」
男は口元をわずかに歪めただけで、答えない。
「僕は、彼女が好きです。好きな人のことは、たとえ死んでいようと生きていようと知りたい。だから、何か知っていることがあったら教えてください」
初めて男が顔を上げた。
「エレンは私の妻だ。それを知っている上でここに来ている、という認識で間違いないかな?」
そしてまっすぐに僕を見た。僕は無言で頷く。
「なるほどね。ところで君は、エレンとはどういう関係だったんだい? いくらエレンの友人の紹介とはいえ、どこの誰ともわからない人間においそれとエレンの思い出話はできないよ」
「そうでしたね、すみません。僕は森崎晃といいます。エレンさんとは、時々一緒に遊んでいた関係です。遊ぶといっても僕の部活を覗きに来た時に言葉を交わしたりする程度で、それ以上の事は何もありませんでしたが」
「そうか……」
沈黙が流れる。僕は男の指輪に視線を落とした。
この中には彼女とこの男、二人分の記憶が刻まれているのだ。そのことが悔しくて憎らしくて堪らない。
菊田エレン、それが彼女の本名なのだ。
最後に彼女と会った時の表情が頭の片隅をよぎった。またね、と学校のグラウンドを後にした彼女の姿。いつもとさほど変わらない、澄んだグリーンの瞳。どうしてこうなってしまったのだろうか――
僕が彼女、エレンと出会ったのは一年ほど前のこと。五月の連休が明け、なんとなくぼんやりとした日々を部活に明け暮れていた頃だった。
練習の休憩時間、部室に荷物を取りに行こうとしたところでグラウンドのフェンス越しに女性がこちらを見つめているのが目に留まった。それがエレンだった。スケッチブック片手に練習に励む仲間たちをきらきらとした目で追っていた。ふいに風が吹いて、スケッチブックに挟まった紙が舞った。
ほぼ反射的に、フェンスを越えて飛んできた紙片たちをかき集めていた。紙面には走ったり、飛んだり、投げたり、僕の所属する陸上部はじめ、野球部やサッカー部といった、グラウンドを使用する部活の生徒たちが描かれていた。
「ど、どうぞ……」
赤毛に緑眼の女性を前に何語で話しかけたらいいか迷ったけれど、結局日本語で話しかけてしまった。それがよかったのか悪かったのかわからないけれど、僕は彼女の興味を引いてしまったらしい。「アリガトウゴザイマス」と、片言の日本語と笑顔が返ってきた。
「サンキュー、フラインボーイ!」
「あの、それって……」
「ファイティン、ガンバッテ! カッコイイヨ」
一目ぼれ、というやつだった。あんなにまっすぐな目をしていた人が――いや、まっすぐすぎたからなのかもしれない。自ら命を絶つなんて。
エレン……どうして死んでしまった? やっぱり、この男が?
「――森崎くん」
「あっ、はい」
いつのまにか心が過去へ行き過ぎてしまっていたらしい。彼の声に現実に引き戻される。
「大丈夫かい? 考え込んでいたような顔をしていたけど」
「すみません、大丈夫です」
「それならいいんだ。調子が良くないのなら無理はいけないからね」
それは彼自身にも言えたことだろう。本来なら、妻が死んで一番こたえているのは彼のはずなのだから。
エレンは結婚しているということを僕に一言も話さなかった。どうしてかはわからない。
「あの、」
「なんだい?」
「エレン、さんとは、結婚してどれくらいになるんですか?」
エレン「さん」と呼ぶことのむずがゆさ。知らなかったとはいえ、彼女は僕のものにはなれなかった、なれるはずがなかったということ。目の前の薬指がそれを物語っている。
「エレンとは結婚して一年と半年になるな。彼女の家はもとは裕福だったんだが、二年ほど前に全財産を失ってしまってね、彼女の親がわたしの会社とツテがあって、わたしに彼女を結婚というかたちで預けた、というわけなんだ。彼女の苦労はわたしが推し量れたものじゃないが――初めて来た日本の土地で、言葉も風習もよくわからないままに放り出されて、しまいにはここで死んでしまった。まだ二十一歳だったというのにね」
「本当に、僕が言うのもなんですが、まだ若いのに……あの、彼女を追いこんでしまったのって、本当に日本での生活の苦労だけだったんでしょうか」
菊田さんの表情が曇ったのが見て取れた。
「それは、どういう意味だい?」
「……いえ、ただ、気になることがあったので」
「気になること?」
「彼女の遺体です。葬儀で棺の中を見ました。……首の付け根に、まだ新しい青痣がありました」
「……つまり?」
「貴方がやったんじゃないですか?」
「……」
再び、沈黙が訪れた。だけど僕は続けた。
「僕は、彼女が好きでした。彼女の死を知ってから、何も考えられなくなってしまって。部活に行っても、ただ目の前の棒を飛び越えるだけ。この数週間で記録は伸びました。何故でしょうね。何も考えずにただ作業こなしてるだけなのに。だけど……どれだけ記録を伸ばしても、拍手をくれる人は、いない。先生や仲間たちは褒めてくれるけど、違う。今の僕には、もう足りないんだ……」
涙で声が詰まる。だけど、止められなかった。
「彼女が、翼をくれたんです。がんばれ、がんばれ、って背中を押してくれていた。なのに、その翼はもうないんだ」
「森崎くん――」
「貴方なんですよね? 彼女に暴力を振るったのは……貴方のことを紹介してくれた三橋さんも言ってました。怪しかったんじゃなかったか、って。もっと早く気づいてあげられていたら、って……ねえ、そうなんでしょう? エレンはまだ日本語もおぼついてなくて、友達も少なくて……どこにも逃げ場はなかったんですよ。どうして、こんな……」
タァン、と意識が弾けるような一瞬の衝撃を頬に受けた。
「いい加減にしないか」
頬に手を当て、何が起こったかをようやく認識する。
「わかった、白状しよう。……確かに、わたしは彼女に恒常的に暴力を振るっていた。認めよう。だけどね、」
彼は目を閉じて、ひとつ呼吸を置いてから言った。
「それは君のせいなんだよ」
「どういうことですか……」
暴力を振るっていたのは確からしい。だけど、それが僕のせい、とは一体……。僕は葬儀の日までは彼のことを知らなかったというのに。
「エレンのスケッチブックにね、君がいたんだよ。何枚も、何枚も! 陸上競技をしている少年の姿が。髪型と骨格から察するにおそらく同一人物だろうと思っていたんだ。絵の隅にも書いてあったからね。『ポートレイトA』って。アキラくん、ね。なるほどと思ったよ」
「そう、ですか」
始終青い顔をしていた彼の顔に赤みがさし、恐ろしい形相でこちらを見ている。今にも再び手を出されそうな気迫すら帯びていた。
「エレンは、わたしの妻なんだよ! 彼女はね、本当に素晴らしい女性だった。だから、家の外には極力出さないようにしていたんだ。どんな悪い虫がひっついてくるかもわからないからね。なのに、彼女は、君のところに通っていた。わたしの知らないうちに。スケッチブックを見たときはまったく信じられなかったよ」
菊田さんは目頭を押さえながら続けた。
「どうして、どうして君はわたしたちの目の前に現れてしまったんだい? 君さえいなければ、わたしたちは平穏に毎日を過ごしていたはずなんだ。彼女が離れていくという恐怖に苛まれながら過ごす日々! なあ、君にわかるかい?」
震える声。くつくつという笑いの混じった声。
「君のせい、なんだ。そう……わたしじゃない! お前が、お前がいたせいで、エレンは……エレンは!」
ガタン、と机が大きく振動した。
「――っ!」
ああ、この男性は、壊れてしまったんだ。ぐい、と胸倉を掴まれ、上体を拘束される。
「お前さえ――」
「あの! 明日、僕の学校に来てくれませんか」
息が苦しい。これだけ言うのに精いっぱいだった。彼は肩で息をしながら僕から手を離した。
「わかった。……学校、教えてくれるかな」
「はい」
翌朝、虚しくなるくらいの快晴だった。
「おはようございます、来てくださって嬉しいです」
練習着に着替えた僕は、器具などをすべてセッティングした上で菊田さんを迎えた。
「いつもここで練習していたのか。……エレンもここへ?」
「ええ。むしろ、ここでしか会ったことはありません」
「そうか……」
学校へ来るのは二週間ぶりだった。葬儀が終わってから二週間は学校へ通った。けれど、それから来ることができなくなってしまった。変わらない日常、止まらない時計。どうあがいても彼女の時は二十一年間で止まったまま。そして僕は彼女の享年へ近づいていく。そんな毎日に耐え切れなかった。
「見ていてください」
「……ああ」
バーに向かって右手から、たたた、と助走をつけ、そして、踏み込んだ。
カラン、と乾いた音がして、バーが落ちた。僕はマットへ倒れこむ。以前なら失敗することはなかった高さだというのに。練習しなければここまで腕は落ちるものか。それとも、停滞していた二週間のうちに心がどんどん重くなっていってしまったせいなのか。
「いつも、この練習を?」
「はい。走り高跳びの選手ですから。フライングボーイって、言ってくれたんです。初めて会ったときに。そのときから、僕は――」
気持ちが膨れ上がって、それが、視覚を歪ませて――
それでもそんなことおかまいなしに、僕はまたバーに向かって走った。
今度は、跳べた。……ああ、これだ。
「彼女が存在していたという事実、それだけが、僕を支えてきたんです。……僕、母親いないんです。それほど年齢の変わらない彼女に、勝手に母親を重ねていたのかもしれません。黙って僕の絵を描いていただけなのに。それが、とても心地好くて……」
マットに倒れたまま空を見上げ、呟きつづける。もはや菊田さんの耳に届いていなくても構わなかった。
「本当は、彼女の年齢すら知らなかったんです。葬儀に参列するまで。棺の中の彼女の左手に初めて指輪を見つけて、本当に驚いた。結婚していただなんて、知らなかったんですから……そう、彼女のことはなんも知らなかったんだ。それが悔しくてたまらない。あなたのその指輪が、とても憎らしい」
視界を巨大な影が覆った。菊田さんだ。
「……指輪を、していなかったのか」
「ええ。していませんでしたよ」
「そうか……」
菊田さんは何かを考えるように、黙りこくってしまった。やがて、口を開いたかと思うと
「わたしにも、跳ばせてくれないかな」
「構いません、けど……」
「では」
羽織っていたスーツの上着を脱ぎ、Yシャツ姿になると、僕と同じように菊田さんはバーの方へ向かっていった。踏み切る、美しい背面跳びだった。
しかし、非常にもバーは彼の行く手を阻んだ。カラン、と虚しい音が響いた。
「フォーム、綺麗ですね」
こんなこと言うつもりはなかったのに、つい口をついて出てきてしまった。
「わたしもね、中学まで陸上をやっていたんだ。一通りのことは教えてもらったからね」
「そうなんですか……」
意外だった。いかにも文化系の様相だったから。
「もう何十年ぶりだろうね。こんな風にグラウンドに立ったのは」
起き上がりながら、菊田さんが呟いた。
「菊田さんは、おいくつなんですか」
「わたしね、実は三十八なんだ。エレンとは随分と離れているだろう? だからだろうね、彼女の親がわたしに結婚を申し込んできたのは」
夏日になるであろうことを予想させる風が吹いた。
「きっと、彼女は自由になりたかったんだろうね」
「え?」
「君に翼を与えてくれた、って言ったね。それはまったくその通りだと思うよ。彼女は、本当に――」
言葉に詰まったのか、菊田さんは僕に近づいてきて、そして、続く言葉の代わりに僕をぎゅっと抱きしめた。
「エレンを、好きになってくれてありがとう」
腕の力が一段と強まる。
「翼、とはよく言ったものだね――彼女は本当に不思議な女性だよ。わたしも、彼女がいたから、これまで生きてこれたんだ」
はっと我に返ったように、僕から離れると、彼は続けた。
「難しいものだね。バーひとつ飛び越えるのも」
「ええ、そうですね」
ふう、と息を吐くと、菊田さんは苦笑いしながら言った。
「飛び越えることができるといいのだけどね、いつか」
「え?」
「彼女のいない日々から、自由になれたらいいのだけどね。残念ながら、わたしは年を取りすぎているみたいだ」
「菊田さん――」
「君は、こうなってはいけないよ。だけど、わからないものだね。愛する気持ちは、どんな形になって還元されるか当人にもわからない。エレンは、どんな気持ちでわたしと言葉を交わし、わたしの拳を受け止めていたのだろうね」
そして彼は左手の指輪を外すと、すう、と放り投げた。日の光を受けながら、その金属の輪はバーを軽々と越え、そして、グラウンドの砂と同化してすっかり見えなくなってしまった。
「ありがとう。会えてよかったよ。わたしはもう、仕事に行かなくては」
「いえ、こちらこそ」
「がんばれよ」
「はい」
彼は校門をくぐり、車に乗り込むとあの屋敷へと帰っていった。
僕は再びバーと向き合い、これまで挑戦したことのない高さに合わせ、そして、走り出した。ぽかりと空いた穴は埋まるものではないけれど、ただ、跳べたら、何か掴めるような気がしていた。そして、思い切り踏み込んだ。
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